四 夢境の館へようこそ
不覚……
いくら前に身をかがめていたとはいえ、こんな風に顔から行くとは。
痛む顔を覆いながら立ち上がる。やはりこの場所と自分は相性が悪いようだ。
待つのは止めだ。即刻中止だ。さっさと透を追いかけよう。
そう思いながら振り返ると、先ほどまであんなにも堂々と咲き誇っていた墨染桜の影も形も見えなくなっていた。
嘘だろ……
え、俺は前に転んだんだから、普通後ろを向いたら元の場所だよな。
何で桜が消えているんだ……
慌てて周囲を見渡す。しかしやはりそこに桜は無く、透が戻っていった道も見えなくなっていた。誰もいない森の中、聞こえるのはあの日と同じ風の音と揺れる木々のざわめきだけ。じわりと襲って来る嫌な予感に思わず変な笑みが浮かんでしまう。
とりあえず現状把握だ。
そう思い周囲を見渡すが、やはり見えるのは木々のみ。
何でだ……
どうしようもない状況に頭を抱えていると、耳に微かな声が聞こえた。
「見てみ、人間の男の子が迷子になってる」
「少し大きくなっているようですが、あれは前にも来た子ですよ」
「ほんまや。ここに二度目なんてよっぽど相性が良いんやな。どないする? 椿」
「困りましたね。基本お一人様一回限りなので……」
「しかしお嬢様。おそらくあの少年に頼めば問題も解決するのではないでしょうか」
「あ、そやね。狐もたまにはいいこと言うやん」
聞こえたのは楽しそうな少年と落ち着いた男性の声。そして、声だけでこれは絶対美人だと思えるような綺麗な女性の声だった。
幻聴……?
いや、でもこんな会話しまくる幻聴なんてあるのか?
なんにしても、人が必死になっている時に何悠長なこと言っているんだ。
「見えるんなら助けてくれよ……」
思わず心の声が漏れてしまう。すると、先ほどは微かにしか聞こえなかった声が急にはっきりと聞こえてきた。
「あれ? もしかして俺らの声聞こえとる?」
力なくああと答えると、その声は少し驚いたように続けた。
「おお、君才能あるんやない?」
「ますます良いかと思われます」
「そうですね……交換条件もあることだし。特別に二度目をさしあげましょうか」
「意見は一致したやんな。少年! 君はとってもラッキーだ! ほな、ちょっと案内寄こすから待っててな」
その声を最後に何も聞こえなくなった。こんな状況だ。すがれるものは何でもすがりたい。案内と言ったが、誰かが迎えに来てくれるのだろうか? そんなことを思いながら立ち尽くしていると、思いのほか早く迎えは来た。風と共に。
突然、さっきまで何も無かったこの更地に墨染桜の花びらが何枚も現れる。最初はただの舞う花びらだったが、次第に何かの形を作り…
それはそれはきれいな矢印となった。
え、案内ってこれ? こちらにお進みくださいってこと?
どうなってるんだこれ、と凝視していると、矢印は早くしやがれっとでも言うようにその先端をぐるんぐるんと回しだした。今の俺にはこの矢印しか頼れるものは無い。大人しく付いて行くことにした。
矢印の案内はかなり丁寧だった。俺の歩く速さに合わせ前を行き、次に進む方向を示してくれる。月明りしか明かりのない森の中を矢印の示すままに歩く。しばらくすると再び開けた場所に出た。
「あれ? 墨染桜?」
そこには先ほどいくら探しても見つけることができなかった墨染桜の姿があった。背後には白く輝く満月。
そうだこの光景だ。俺があの時見たのは…
かつての記憶のままの幻想的な墨染桜の姿がここにある。しかし、元の場所に戻ってきたわけではなさそうだ。確かに桜はある、しかし神社へと戻る砂利道が無いからだ。そんなことを考えていると、矢印はふわりと風に吹かれただの花びらへと戻り、桜の方へと流れていってしまった。
「え、ちょっと待ってくれ!」
一体この後どうすればいいんだ、と唯一の頼りだった花びらの後を追いかける。すると、本日何度目かのありえない出来事に遭遇した。
扉だ。桜の横に大きな木でできた扉がある。あるのは扉のみ。前から見ても、横から見ても、後ろに回ってみても……
あるのはただの扉一枚だけだった。桜以外何もないこの場所に扉がぽつんと立っている。
花びら達が連れてきてくれたということはここが目的地なのだろう。そしてあるのはこの扉のみ。
行くしかない! ……ような気がする。覚悟を決めよう。
いざ! お邪魔します!
コンコンコン
ノックをすれば軽やかな木の音が鳴った。そして
「どうぞ」
さっき聞こえた女性の声が中から聞こえた。それでは早速とノブに手をかけれ扉を押す。ギィっと軋むような音と共に扉が開いた。
「何だここ…」
扉の先は本に覆われた部屋だった。部屋の壁は正面の暖炉がある一角を除き、全て本で覆いつくされている。本のタイトルは日本語や英語、後は俺には読めない様々な文字で書かれている。これだけの本に囲まれているにもかかわらず、圧迫感を感じないのはこの部屋の広さのおかげだろう。
正面の壁に埋め込まれた暖炉にはゆらゆらと炎が灯っている。床には金色で模様の描かれた緋色の絨毯が引き詰められている。乗せた足が沈むくらいふっかふかだ。
中央には小さな丸いテーブルが置かれ、それを挟むように一人掛けのソファーが二台向き合っている。奥に置かれているソファーの後ろには、左右に一台ずつ同じような一人掛けのソファーが置かれていた。
俺の方を向いた三台のソファー。そこには先ほどの声の主であろう三人の人物が座りこちらを見つめていた。