二 夢は叶うと言うけれど
「あら」
画集の表紙を見て、椿が嬉しそうに声を上げる。表紙にはラウンジに飾られている絵と同じ絵が描かれていた。
「ねえ、翠。自分でその本見たいの」
「え、これ結構重いけど大丈夫?」
病み上がりの人間、いやあやかしにこの重さは辛いだろ……
心配になるが、このままだと椿はベッドから出てきてしまいそうだ。ものすごく身を乗り出し、絵を見ようとしてきている。
「大丈夫だから」
止めに「お願い」と見つめられる。チースといい椿といい自分の顔をよくわかっていらっしゃる。チースに言わせると「この顔でどんだけ過ごしてると思う?」ということらしい。
ゆっくりと彼女の膝の上に画集を置く。
「ありがとう」
椿はそう言って微笑むと、そのまま食い入るように絵を観始めた。
あの部屋に来た時はどう見ても売れない画家って感じだったのにな……
ここと依頼人達の世界も時間の経過が異なる。そのため、ピエリスと名乗った依頼人が去ってからどれだけの時間が経ったのかは分からない。こんなにも立派な画集を出せるようになった彼女の足跡をぜひ椿や狐さんに聞いてみたい。しかし今は絵の世界に夢中になっているのでまた後でにしよう。
椿の横から絵を眺める。黒と白で描かれたそれらは独特の世界感を醸し出していた。数枚目の絵に差し掛かった頃、狐さんが飲み物を持って帰ってきた。ハーブの爽やかな香りが部屋に広がる。
「画集をありがとう、狐」
狐さんの姿を見るや否や、珍しくはしゃいだ声で椿がお礼を言った。そんな彼女を見た狐さんも嬉しそうに微笑む。
「少し喉を潤してください」
狐さんはそう言うと、サイドテーブルに手際よくお茶の用意を始める。見れば、カップが二客あった。
「翠もどうぞ。たくさん歩いて疲れたでしょう」
「ありがとうございます」
どこから出したのか、俺のために椅子まで用意してくれている。さすが気遣いのプロだ。お言葉に甘えて座ると足の疲れが一気にくる。まだ椿は画集に夢中なようなので、先にお茶を頂戴する。渡し屋で出してもらったお茶も美味しかったが、やっぱり狐さんの入れてくれたお茶が一番だ。帰ってきたと実感できる。
「お嬢様も気に入っていただけたのは嬉しいですが、目覚めたばかりなのですから少し休憩してくたさいね」
「休憩なんて必要ないわ。最近寝てばかりなんだから大丈夫よ」
狐さんが優しく窘めると、椿は少し拗ねたような声で返事をした。不満げな顔とは対照的にその手は素直に本を閉じようとしている。しかしその途中で、手が滑ってしまい、画集のページがパラパラとめくれてゆく。ようやく止まったページは、最後のページだった。そこに描かれていた絵に俺たち全員の目が引き寄せられる。
「あら」
「おや」
「わっ」
本ばかりの壁、奥で仄かに揺らめく暖炉の炎。その部屋の中に佇む四つの影。間違いなくそれは依頼人が墨染の間で見た光景だ。
俺って人から見たらこんな険しい顔してるんだな……
客観的に描かれた自分の姿に衝撃を受ける。しかし、俺のちんけな感情を吹き飛ばす美しさがそこにはあった。
「私の一人目のファンに贈る」
椿が右下に書かれている文字をなぞりながら呟いた。そして画集を今度こそきちんと閉じる。それを彼女の膝の上からどかしながら狐さんが言った。
「彼女の真の願いが自分の絵を描き続けることで良かったですね」
「本当に……」
しみじみと語るあやかし二人の会話にまたしても置いてけぼりになる。いつもなら何となく聞き流して終了だ。しかし、渡り屋でどんどん食らいついていこうと決意したので今回は話題に突っ込んでいく。
「真のって? 何か墨染めの間では公募展が何とかって言ってたような」
俺の質問に椿が口を固く結び悩み始める。
「なんて言ったらいいのかしら…… 人に説明することなんてないから」
うーんっと悩む彼女を見て狐さんが助け舟を出す。
「この館は私達三人の力で成り立っています。それぞれに持っている力が違うのですが、お嬢様の力の一つが夢を叶える力なんです。」
それを聞いて「そうだわ」と椿が何かを閃いたようだ。
「誰でも意識しているか、無意識なのかは別にして夢は見るものなの。でも夢ってとても曖昧なものでしょ?」
「朝起きたら大体忘れてるかな」
そう言われて夢、夢……と考える。小さい時に見た怖い夢は非常に良く覚えていたような気がする。しかし、最近は夢を見てもすっかり忘れている。
「眠りの中の夢もそうだし、人の言うところの将来の夢も同じように曖昧。例えば依頼人が頭が良くなりたいって願ったとするでしょ?」
「うん」
「依頼人の思う頭の良さがクラスで一番なのか、それとも世界で一番なのか。そもそも頭が良いという言葉が示すのがテストだけか、会話などの頭の回転の速さなのか……
そういう曖昧な部分は本人でも分かっていないことが多いわ。でも、私の力はそういう曖昧なところも含めて、依頼人があの部屋で心の底から願う夢を実現させるものなの。」
「それって依頼人にとっては自分の思い通りになってないと思うこともあるんじゃないか?」
俺なら焦ってしょうもないこと願ってしまいそうだ。あ、もう願ってたか。確かにあの時の俺の願いは迷子状態から抜け出したいだったが……
いや、俺みたいな迷子は例外として、あの部屋に依頼人達は突然来る訳だ。ただでさえ自分の夢をしっかりと口にするのは難しいのに、突然見知らぬ部屋、人に囲まれて混乱している状態で冷静に自分の夢なんて考えられるだろうか?
俺の疑問が顔に出ていたのだろう。椿は気まずそうに笑った。
「言葉そのまま叶えるなんて器用なことできないの。依頼人がちゃんと本心をその場で言ってくれたら良いのだけれど…… なかなかそうじゃない方が多くって。」
「人でも何でも言葉で本心を隠すことが多いですが、お嬢様の力は言葉を通り抜けて依頼人の欲望に届いてしまうんです」
「欲望だなんて嫌だわ。夢って言ってちょうだい」
「どちらも変わりませんよ」
確かに欲望を叶えるよりも、夢を叶える夢境の館の方が響きが良い。
狐さんは「はいはい」と流しているが、椿にとっては重要なことらしく、いかに夢が素晴らしいか語っている。しかし、急に暗い口調になり小さく呟いた。
「綺麗な夢ばかりならいいのに……」
それを聞き、狐さんも動きを止める。今まで来た依頼人の中に椿が叶えたくないと思うような夢を持つ依頼人もいたのだろう。どうして、そこまでして彼女たちが依頼人と品物を交換しているのかはまだ分からない。
今日は彼女たちのことについて様々なことを知ることができた。山姫は人間の寿命は短いと言った。けれど、短いからと言ってどんどん距離を詰めていくことは俺には難しい。というか、俺がされたくない。されて嫌なことは可能な限り避けたい。だから、今日はこれ以上の質問は止めておこう。この館にはまた来るのだから。
「そうだよな。でも、俺も今椿に夢覗かれたらきっとしょうもないことしか浮かんでなさそうだな…… 絶対欲望まみれだ。これから人間としてでっかくなる予定だから、椿に見せられるような清廉潔白な夢見れるようになった頃にまた墨染めの間で俺を見てみてよ」
わざと芝居じみた大きな動作で言う。喜怒哀楽の怒しか分かりにくいと普段言われる俺の精一杯の演技だ。「見てよ」で最後胸にこぶしを当て、決めゼリフを言うように強く言い切る。途端に恥ずかしさがこみ上げる。
いつもやってから恥ずかしがるんだから無理矢理な感情表現すんなよ!
いつか言われた悪友の声が聞こえた気がする。でも、今回は当たって砕けずに済んだようだ。なぜなら、いつものような微笑みが椿と狐さんに戻ったからだ。
「さすがに三度目は駄目ですよ」
「そんな人いませんね」
椿と狐さんが面白そうに言う。
「人間の世界には二度あることは三度あるって諺があるんだよ」
負けじと言い返す。
その後はいつまでも帰ってこない俺たちの様子を見に来たチースも含め、四人で渡り屋のことや画集の絵について話ながらお茶の時間を楽しんだ。




