一 夢境の館の通常業務
夢というのは自分の無意識からの声だという。もしそれが本当ならば、俺が幼い日から繰り返し見る夢は一体何を伝えたいのだろう。
そのことを考え始めた途端、講義内容が頭に入らなくなった。
「では、今日はここまで」
きっぱりとしたその声で現実に引き戻される。教授の講義終了宣言を聞くや否や学生達が一斉に動き出した。先ほどまでは静かだった講義室がざわめきで埋め尽くされてゆく。四コマ目なのでこれが今日最後の講義というやつがほとんどだろう。急いで周りと同じように帰り支度をしていると、隣に座っていた透が話しかけてきた。
「今日もバイトか?」
「そう。お前もサークル行くんだろ」
透の持っているスポーツバックを指差して言う。すると、やつはその大きなバックを肩に掛けながらにかっと笑った。以前は俺と同じ黒だった茶色の髪が揺れる。
「おう、お前もバイト無い日に遊びに来いよ。少しは身体動かした方がいいぞ!」
「俺が運動苦手なの知ってるだろ」
長年の友人のいつもの冗談を咎めるように視線を送る。途端に透は俺の肩をバンバンと強く叩きながら弁解を始めた。
「睨むなよ! お前ただださえ目付き悪いんだから。ほんと名前に反して見た目凶悪だな…… 心配しなくても、俺のサークルは高校の部活と違ってゆるいからいけるって!」
お前でも大丈夫だろと失礼なことを言って大笑いするだけすると、また明日なっと透は去って行った。男子校で一緒の時から言うだけ言って満足するところは変わっていない。
俺もそろそろ行くか。
徐々に人気の無くなってきた部屋を出ると、時計を見て時間を確認した。念のため手帳に挟んだ紙も確認しておく。そこには綺麗な字で今日の日付が間違いなく書かれていた。昨日、念願の一人暮らしのアパートで思いっきりくつろいでいるとベッドの上にいつの間にか出現していたものだ。紙にうっすらと入った桜の透かし模様が夢境の館からの連絡だと示している。
そもそもこんな風に連絡を寄こす知り合いなんて他にいないか……
薄い灰色と桜色の混ざった紙をもう一度手帳に仕舞う。彼らからの突然の呼び出しはこの紙が教えてくれる。何処にいようと、何時であろうと、気がつけば日時の書かれた紙が俺の前に現れるのだ。この連絡を送ってきた三人のあやかしのことを考えながら、大学から真っすぐにアルバイト先へと向かった。
※※※
地元の駅を降りてバスに乗り換える。一つ、二つとバス停を過ぎてゆくにつれて、窓から見える景色が住宅街から緑一色になってゆく。どんどん通り過ぎて行く木々をぼんやりと眺めながら、最近気に入っている曲を何度も繰り返し聞いていた。その曲が五回目に差し掛かった頃、ようやく墨染神社の赤い鳥居が見えた。
俺しか神社に用事のある乗客はいないようだ。一人バスを降り神社へ続く長い階段を上ってゆく。最初の頃は半分もいかない内に息が切れて辛かったが、最近は慣れてきたような気がする。とは言っても普段運動しない身にはなかなかの運動量だ。次第に重くなる足を気合いで進め、なんとか最後の段を上る。そして、乱れる息を整えながら真っ黒な鳥居の先を右手へ進んだ。じゃりじゃりと俺の足音だけが山の中に響く。
しばらく歩くと、細い砂利道の先に少し開けた場所に出た。その場所の中央には、新緑に覆われた墨染桜が堂々と立っている。
つい先月の祭りの時には満開だったのに桜が散るのはあっという間だ。
そんなことを思いながら桜を見上げた。樹齢何百年という大樹の葉の隙間から夕日が差し込んでくる。つい時間を忘れて見ていそうになったが、突風が俺を急き立てるように後ろから吹いてきた。早く館に来いと言われているような気がする。
そよそよと葉を揺らす桜を横目に、桜の後ろにある茂みにどんどん近づく。そのまま恐る恐る茂みの中に足を踏み入れた。片足がすっぽりと入った瞬間、予想通りの軽い立ちくらみが襲ってくる。
何度来ても慣れない……
違う世界への境界線をまたぐ時、どうしても人間の場合は身体が拒否反応を起こしてしまうのだと前に教えてもらった。が、分かっていてもこの感覚はきつい。身体の中が渦を巻いているように感じる。
掌で頭を押さえながら目を閉じ、眩暈が収まってゆくのを大人しく待つ。次第にじんわりと気持ち悪さが引いていったので、深呼吸をしてからゆっくりと目を開いた。すると、さっきまでは一切無かった桜の花びらが視界いっぱいに舞い始める。花びらの舞い上がる先を見上げれば、そこには夢境の館に来た証である満開の墨染桜が悠々と立っていた。
桜吹雪を浴びながら桜に近づく。桜の横にはマホガニーの扉がぽつんと立っていた。その中央には桜の花が彫られている。立派な装飾が施されたその扉は横から見ても、後ろから見てもただの扉が一枚あるだけに見える。それなのに、金のノブを回せばその向こうは本に覆われた部屋へ続いているのだ。まるで未来の猫型ロボットの道具のようだ。
館のあやかし達が使う不思議な力には本当に驚かされる。
※※※
ゆっくりと扉を開き部屋に足を踏み入れる。すると、ちょうど依頼人が契約しているところだった。ここからじゃ後ろ姿しか見えないが、今日の依頼人は中年の男性のようだ。仕立ての良さそうな紺色のスーツを着ている。
俺が入って来たことにも気がつかず、依頼人は興奮した様子で目の前の丸テーブルに置かれた本に手を置く。そして震える手でページをめくった。
開いたページから溢れた光が部屋に満ちる。前回、何が起きているのか見てやろうと目を開き続けたが、結局その眩しさには逆らえなかった。今回もあまりの眩しさに反射的に目を瞑ってしまう。しばらくして、瞼の裏で光が収まるのを感じたので目をゆっくりと開いた。いつもの明るさを取り戻した部屋の中、依頼人の姿はすでに消えている。彼も自分の世界へと帰っていたのだろう。これまでの依頼人と同じように。
それにしても…… これは完全に遅刻だ。俺の出勤時間はいつもは依頼人が来る前なのだから。
「ごめん、遅くなった」
急いで依頼人がいた場所へ走る。電車を一本見送るんじゃなかったと後悔するが、時すでに遅しだ。
「翠は遅れてないで。あの依頼人が悪いんよ」
焦った様子の俺を見て、ソファーに座ったままスタチスが言う。どうやら機嫌が悪いようで、金色にも見える飴色の髪を乱暴に片手でかきむしっている。男にしては長めの髪を今日は下ろしているせいでぼさぼさ加減がえらいことになっている。
よく見れば、泣きぼくろが特徴的なその目もなんだか充血しているような気がする。仏頂面がデフォルトの俺とは違い、いつも明るく依頼人達と契約交渉をしている姿とは大違いだ。
「今回の依頼人が予定より早く来てしまったんです。だから気にしないでください」
不機嫌そうなスタチスに代わり狐さんが教えてくれた。顔の半分が狐のお面に覆われているのでその表情はよく読めないが、声色とその口元から気にかけてくれていることが分かる。
「そうなんだ」
自分が遅れたのではないと分かり、少しホッとする。
俺が安心して頷くのを見ると、狐さんは少し微笑んで作業を始めた。今日みたいに黒い服を着ていると、深い藍色の髪や目と組み合わさり、狐というよりカラスのような見た目だ。そのまま目で追っていると、狐さんは丸テーブルの上に残された本を持ち上げさっと本棚の上から二番目にしまった。
この部屋のほぼ全ての壁は書架になっており、全ての棚にはぎっしりと本が詰められている。分厚い本、薄い本。背表紙がくすんでいる本、まだ新しい本など様々な本がここにはある。書架の高さは部屋の床から天井まで届く程だ。
俺では絶対に上の方の棚には届かない…
いや、成長期はまだ終わっていないと信じたい。
テキパキとした仕草とその服装から、狐さんを見るときっと理想の執事ってこんなんだろうなといつも思う。それにしても珍しいこともあるもんだ。登場の仕方は様々だが、依頼人達はこの館の主人の言う時間に訪れるのに。
一体どうしたのだろうかと椿を見る。しかし、彼女はその大きく真っ黒な瞳を数回しばたくとこちらを見てにっこりと笑うだけだった。言いたくないことがあるといつもこうやって微笑んで誤魔化されてしまう。どうやら俺の疑問に答えてはくれないようだ。椿は依頼人が残していった品物を優雅に手で示し俺に仕事を内容を伝えてきた。
「品物はきちんと置いていってもらったので、いつものようにお願いします」
言われるがままに丸テーブルの上を見ると、銀色のカフスが置いてあった。
これが今回の収集品か……
表面に細かく彫られた模様からさぞお高いんだろうと思われる。
じーっとカフスを見ていると、いつの間にかすぐ横に椿が来ていた。何か用があるのだろうかと彼女の方を見れば、少し背伸びをして俺の耳元に口を近づけてきた。
「スタチスは単なる寝起きで機嫌が悪いんですよ」
小さな囁きと共に耳に吐息がかかる。思わず耳に手を当て、彼女から身体を引いてしまった。見れば椿は真っ白な顔を少し揺らしてくすくすと笑っている。また彼女にからかわれたようだ……
恥ずかしさがこみ上げると同時に、スタチスの不機嫌の原因のしょうもなさに呆れてしまう。いつも落ち着いている狐さんはともかく、スタチスも椿も何百年も生きているというわりに子供じみたところがある。スタチスは特にそうだ。
椿は頭を抱える俺の様子を面白そうに見ていたが、スタチスがこちらを睨んでいることに気がつくと「では」と言って狐さんの方へ歩いて行ってしまった。ふわりと揺れる彼女の長い黒髪に今日は赤い椿の髪飾りが色を添えている。
依頼人もいなくなったので三人のあやかしはそれぞれ自由に行動している。三人の仕事が終われば今度は俺の仕事の出番だ。出鼻をくじかれた分いつもより気合を入れる。しかし、張り切って握りしめた俺の手はまだ素手のままだった。これでは品物を運べない。この館に持ち込まれる品物は歴史を感じるものや、高級そうな物が多い。そのため素手で触るのはためらわれるのだ。手を握りしめたままその場で固まる。
手袋この部屋のどこに置いたんだ?
前に来た時すぐに分かるように置いたはずなんだけれど…
いつも座っている場所の辺りをキョロキョロと探していると、いつの間にか先にスタチスが見つけてくれていた。椅子の手すりから落ちてしまっていた俺の愛用している白い手袋をひょいと持ち上げる。
「ほら」
勢いよく手袋をこちらに投げてきた。そのまま足を止めることなく扉の向こうへ行ってしまう。収集品の近くにいるのはやはり苦手のようだ。飛んできた手袋を受け止め、両方の手にはめる。
ようやく準備が整った。
銀色に輝くカフスを丁寧に持ち上げる。依頼人たちが置いてゆく品物を収集部屋へと運び、きちんと管理すること。それが俺の夢境の館でのアルバイト内容だ。
収集部屋へと続く館の長い廊下を歩きながら、俺はこの館に来た日のことを思い出していた。