1 虚像
「ただいま」
「お帰りー!!」
玄関を開けると塊が飛んで来た。動物は飼い主が家に戻って来ると手放しで喜ぶと聞くが、今当にそれをやられた気分である。
でも嬉しくは無かった。塊の行い全てが虚無から来るものだと知っていたから。だから喜びよりも苦痛が先に心を刺す。
「呼ばれた?」
「うん。でも大丈夫。氷室ちゃんと一緒だったし、苦戦はしなかったから」
知らなかった。塊が呼ばれているならば、私も呼ばれていてもおかしくは無いはずなのだが。気を使ってくれたのたろうか?
塊は両手で垂れ下がった私の手を包むと、リビングへと導いてくれる。冷たい、体温の通わない指。
私が接触恐怖症に陥ったのは、両親が死んで間もない頃だった。昔は人の温もりが愛おしかったのに、あの時からてんで駄目になり、不快感を伴うようになってしまった。塊との一件とは何ら関係がない。それでも……この冷たさに、私は甘ったれているのかもしれない。
「今日のご飯はパスタだよー。あっ、因みにたらこね」
「はぁ」
キッチンに着くと鍋は既に沸騰して、中から気泡が浮かび上がってきている。
「今からパスタ茹でるよー」
朗らかにそう言うと、頭をとんとんと叩かれた。撫でているつもりらしい。私はそんな彼をじっと見据え、その場を去ることにした。
繰り返される日常。其処にはなんの変化もなく、昨日と同じ様な事をして日々を終える。今日は多少違ったかもしれないが、家に帰ればそんな何のことはない。何時も通りだ。やっているテレビ番組は退屈だし、面白味に欠ける。手伝おうとキッチンに向かうと、塊からはテーブルに戻される。
はぁ、暇だから手伝おうとしているのに。
「暇なら勉強を進めていたら?」
「…………」
仕方がない。たかが十数分、されど十数分。一つや二つ覚える事は出来るだろう。
此処で計算系統を扱うと後々厄介なので、大人しく暗記系統に徹する事にした。といっても手軽に出来る英単語だが。
私は机の本棚からまだ癖も汚れもない単語帳を大人しく捲り始める。赤いシートで文字を消し、ただひたすらに眼球を動かす。それを何度か繰り返しているうちに、十数分が経過した。
「出来たよー」
塊の声がする。単語帳を閉じ、リビングに向かうと二人分の皿が乗っていた。塊の言った通り、タラコソースのかかったパスタ。フォークでくるくると巻き付け、口へと運ぶ。
「どう?」
「美味しい。市販のソースを使ったの?」
「当たり前じゃん」
得意気に顎を上げて笑う。本当に笑っているようだった。この表情を見る度に胸を締め付けられ、安定じゃ居られなくなる。泥沼にずぶずぶと沈み込んでいくようだ。そんな思いを掻き消すようにひたすらにフォークを回し続けた。
私の口には少々大き過ぎる塊になった頃、無理に口に入れる。はみ出た麺を口に入れ、ゆっくりと咀嚼していく。味が……消えていく。
「美味しい?」
「美味しいよ……」
恐らく青ざめた顔で言ったであろう私の表情に反し、塊はさっきよりも殊更嬉しそうに笑った。だが直ぐに無表情になり、時間が止まったように動きを止めた。
剥き出しの、浮き彫りの、彼。それ以外の言葉が浮かばない。
「まずかった? って──」
「美味しいよ、大丈夫。さっきのでもおかしくは無い……から…………」
言葉尻が弱くなる。久々に見せ付けられた。彼の本心、本性。
食事を終え、早々と風呂に入って床についた。瞼を強く瞑る。これ以上、塊の顔を見てはいられなかった。早く寝てしまおう……出来るだけ早く。