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シャワーを浴びても倦怠感は拭えなかった。濡れそぼった長ったらしい髪にパジャマ。出来る事ならばこのまま眠ってしまいたい。たがベッドが濡れるは勘弁だ。
足を引き摺るようにしてダイニングに向かうと、彼は小説を読んでいた。
塊は事務所本家のシャワーを使用したようで、仄かに石鹸の香りが漂ってきた。
何時も通りだった。汚れる事を知らない黒スーツも、焦げ茶の髪も、清潔感のある匂いも。
私に気付くと手招きする。
「おいで、髪の毛乾かしてあげる」
地べたにのぺっと座り込み、僅かな反発。子供っぽい? 良いじゃないか。私は怠惰である以前にとても幼稚なのだ。こんな風な振る舞いでしか彼に甘える事が出来ない。
塊とは無言の争い。先に折れたのは勿論塊である。
聞き分けの無い子供を見るような目をして私を凝視し、ドライヤーを持って此方に来てくれた。
私の後ろに座るとタオルで髪を包み込み、軽く水気を拭き取る。タオルの感触が頭から消え、エンジンの騒音。長い髪がバラけ、宙を舞う。塊に背を向けるようにして座り、されるがままに乾かされる。
冷たいけれど優しい手……。頭皮をわしゃわしゃと掻き乱しては風を送る。熱が冷めて気持ちいい。
「ぐしゅっ」
「早く来ないから」
今、今だけは、彼が“戻った”気がするのだ。例えそれが仮初めだったとしても、彼の飄々とした素顔を際立たせる偽りのものであったとしても、
構わなかった。
「五月蝿い」
乾いた後に御丁寧に髪を丁寧にとかしてくれる。もつれた部位を指で弄って解してからもう一度ブラシを入れる。正直、この動作をしないと髪が埃毛玉のようになってしまう。そして埃毛玉と化したそれを無理に引き千切ると髪が傷んでしまうのだ。
何度もその動作を繰り返し、指通りが良くなった所で手を止める。
「ほい、完成」
「有り難う」
礼を言えば一気に気が抜けた。頭が右に傾いて、糸の切れた操り人形のような姿になる。いっそ、人形にでも成れたのならこんな倦怠感に襲われることも無く、もっと楽に生きられるのだろうか? 全ては傀儡師次第で自分の意思なんか無くなってしまえば……。
そんな私を支えるように肩に手を置き、耳元で囁く。
「お休み、紅葉。今宵も君が苦しまないように……。見守っていてあげよう」
そんな事……言わないで欲しい。“戻って来た”と勘違いしてしまうではないか。どんなに夢を見たところで変わらない。現在も、過去も、何も。
呼吸が上手く出来ない。喉に何かが詰まって、塞き止められたかのようなもどかしい閉塞感……。
「……なんてね。嘘だよ」
へらり、と悪びれもなく笑顔を作る。後ろ髪を掻き上げ、達成感のある雰囲気をかもしていた。街中で見たのならば女を落とすための仮面に過ぎず、今見れば無表情な能面に過ぎない。
泣きじゃくりたくなる感情の波が心を満たしていく。まるで涙の池のように。私は無性に腹が立って、彼の肩を思い切りひっぱたく。それでも彼はへらへらとした笑顔を崩さなかった。
これが八つ当たりだというのは自分がよく分かっている。原因は全て私にある。でも“真似事”なんてしないで欲しい。
「お休み」
ぶっきらぼうに言い放つと私は廊下に姿を眩ませた。
暗い室内。周りの風景すらよく見えない。
私はベッドと羽毛布団に挟まれるようにして固く瞼を伏せる。
忘れてしまえ。過去の罪など、原罪など。
そうやって私は背負って来た罪の重さに苛まれながら今日を終えた。