1 憂鬱な午後
『面倒臭がるな』とは言う。だが、疲れたのだ。呼吸をする事に、世界を見る事に。
書類の山が床に積み上がっている殺風景な事務所に私はいる。
薄暗いブラインドの隙間から覗くのはオレンジの光。何処にでもある古ぼけた事務机と、喫煙者が居ないにも関わらず仄かに香る脂の臭い。今ある状況を想像すればするほど気分が低下していく。
「紅葉ちゃん暗いよぉ~?そんなんで死体を狩れると思っているのかなぁ?」
彼は小馬鹿にしているようにも聞こえなくはない物言いで、私に尋ねてきた。
パイプ椅子にふんぞり返ってハンケチを乗せているにも関わらず、何故暗いと判断出来るのか。外見だけ見るのならば『だらしがない』の方が明らかにしっくりくる。
ポニーテールに結いた髪はボサボサ。着崩し、乱れた制服は女子高生とはとても思えない小娘だ。
直すのは……怠い。
「煩い。五月に喚く蠅みたいに五月蝿い」
「相変わらず冷たいな。絶対零度並みに冷たい」
同じような言い回しで返してくるのは、彼なりの皮肉ととっても構わないだろう……。そんな気持ち……あるはずも無いのに考えてしまった。
私は重すぎる自分の体を無理に起こし、顔に掛かったハンケチを摘む。憎々しげに彼を見ると、彼は反対に嬉しそうに笑った。
塊。茶色の短髪、黒い瞳、同色のスーツ。初対面の女はその整った顔立ちに目を奪われ、暫くは見とれている。まるで御伽話の王子でも見るかのように……。しかし前述からも理解出来るように、此奴の性格は人を、特に私を苛立たせる。とんだ詐欺師である。
……まぁ、自業自得か……。
「んっ、まぁ呼ばれたから来たのに所長は死体を発見したみたいで此処に居ない。でも呼ばれた理由が知りたいから帰るに帰れない。難儀だね」
「死体を狩る前にお前を狩るけど?」
「嘘。君は俺を……殺せない」
瞳が細くなり、にたりと笑う。人を小馬鹿にした笑みだ。
だが当たっている。私はお前を殺せない。気持ち悪いのだ。肉が裂ける感触も、生暖かい生き血の感触も。怠惰に、そして穏便に暮らしたい私には過ぎた真似だ。
だが、だけど、私が普段行っている真似は人殺しとなんら変わりないのではないかと思ってしまう。いや、変わり無いのだ。
「なんてね。殺したい程愛されているなんて相当な幸せ者だ」
……前言撤回。やはりあの時見捨てていれば良かった。
こいつの歪んだ愛は私には理解出来ない。
猫のように瞳孔が拡大し、唇が弧を描く。組まれた指の上にちょこんと乗せられた顎……。
うん。やはり殴りたい。しかしそんな事をする気力も、エネルギーも、私の体には残ってはいないのだった。
私が今成すべき事はこの倦怠感との戦いだ。
──がちゃり──
「……こんにちは」
「氷室、どうしたの?」
「いえ……どうと言う訳では……」
氷室。ボブカットにした黒髪に、右目が隠れるようにかかった前髪。僅かに垂れ下がった目尻は人の気持ちを宥めるかのように優しい。制服を着ている所を見ると直で此方に来たらしい。
そんでもって一年前にこの事務所に入った私の後輩であり、学校の後輩でもある。常におどおどしているが優しく、周りを気遣ってくれる。
氷室は初めて来たわけでもないのに辺りをきょろきょろと見回し、汚れたソファに腰掛けた。
「先輩、塊さん……」
「うん」
氷室は少し落ち込んだように俯く。鬱な空気が周りを囲う。
氷室はしばしば加害妄想的な所があるので、『大事な時間を割いてすみません……』などと思っているのだろう。
「大切な時間を割いてすみません!!」
「……」
ドンピシャだった……。
「うん。で、どうしたの?」
塊が事務机に手を付き、首を傾ける。
「死体を見かけたのですが、見失ってしまいまして……」
「棺が無いのに応戦しちゃ駄目」
「すみません……」
私はだらけた体を起こすと、剥がしかけたシールの糊で更に汚く見える自身のロッカーに歩み寄った。シールの糊を人差し指でなぞるように擦りとり、親指と共に擦り合わせるとべたべたする。
「……」
「紅葉ちゃん。遊んでないで早くする~」
とまぁ、ムカつく男の声が聞こえた為、ある物を引っ張り出し、楽器ケースのような物に放り込む。ケースの中と、重くも大切な代物がぶつかって嫌な音を立てた。
――ガツンっっ!!――
自分の私物は大切に扱わなければならない。増してや“コレ”は無いと困るなんて物ではない。命に関わると言っても過言ではない。
しかし今回ばかりは八つ当たりしてしまう。……少々申し訳ない気分になる。
私は雑に入れられた其れを、きちんとクッションの上に乗せてやり、そっと金具を止めてやった。肩に背負うようにして持つ。
氷室も同様に商売道具を長方形のケースに入れ、背負っていた。準備万端である。
「んじゃ、動きたくないけど行きますか……」
事務所の古臭い引き戸の前、欠伸を噛み殺す。いざ出陣しようと、ノブを手にしたその時。
「あっ、忘れ物した」
空気感が一瞬にして崩壊した。緊張感の欠片もない。
無駄なエネルギーを無駄に消費するのは私ではない。何処までも有効活用するのが私である。故に私は渾身の怒りを込めて、辺りに響くように舌打ちした。
「うわっ……、舌打ちとか……。美人が泣いちゃう」
「さっさとして。あと先行っている」
大して気にした様子もない塊を無視して、氷室と共に足速に階段を降りる。錆びついた階段からは金属質な音が出て鼓膜に刺さる。とても不愉快である。
そして、この時既に所長の呼び出しなどとうの昔に忘れていた。
主人公は紅葉ですが、滅茶苦茶に怠惰です。
書いておきながらなんですが、『主人公務まんのか……?』と言うのが序盤からの不安でした……(;´Д`)
(今となっては笑い話です)
きっと主人公役がやりたい人が居たら、高値で売るのだろうなぁ……(;´Д`)