風雲児魔理沙
何しろ大きな石だった。手にすっぽり収まってしまうような可愛いものでは決してない。両腕で抱えても持て余すような、いっそ岩と表現していいくらいの石である。
「ふい~」
抱えた石をどかりと置いて、魔理沙は大きく息をついた。さっきからずっとこんな調子だ。五歩歩いては休み、三歩歩いてはしゃがみ、それでもどうにかこうにか魔法の森の小道までこの石を運んできた。転がすという手段も考えたが、やはり白昼堂々と行えるものではなかった。
誰が悪いのかと言えば、責任の一旦は間違いなく太陽にあった。これが夜だったなら、日が沈んでいたのなら、この仕事はもう少し容易く実行できたはずなのだ。
霧雨魔理沙は魔法使いであり、少女である。非力な要素をふたつも背負っている彼女にとって、これまでの道のりはけして楽なものではなかった。誰か助っ人を呼ぼうかとも考えたが、最後の最後でこの石を持ち逃げされたらたまったものではない。そう考えて、魔理沙はひとり孤独な運搬を続けてきた。
何しろ地蔵の頭である。
見れば誰もが欲しがるに決まっている。
元は人里近くに落ちていたものだ。道のど真ん中に、何とも思わせぶりな形で、それは落ちていたというより置かれていた。
初めは大いに驚いた。まず頭だけという点が何とも愉快である。首の辺りからもぎ取られたような造形だったのが少し気になったが、その程度の不審が霧雨魔理沙の好奇心に影を落とすはずもない。むしろそそられるくらいだった。
次に魔理沙は地蔵の彫りの深さに目をつけた。道祖神というのは往々にして顔が薄い。風化も原因としてはあるのだろうが、元から顔があるのだかないのだかわからないようなつくりをしている。しかしこの地蔵ヘッドに関しては、彼女はそのような印象を受けなかった。見開いた目、高い鼻、引き結んだ口、どれも圧倒されるほどに自己主張が強い。地蔵というより不動明王に近い面構えだった。
「いいじゃないか」
思わずそう口に出してしまったものだ。
これをこのまま置いておく手はなかった。辺りを見回しても地蔵の胴体らしきものは見当たらないし、通行人の邪魔にもなる。邪魔なものはどけたほうがいい。
考えた魔理沙は、
「よし、持って帰ろう」
そう決めた。
一目惚れだった。
というわけで、汗と疲労と好奇の視線にまみれながらもここまで歩いた霧雨魔理沙である。
「腰痛いなあ」
魔理沙は一度決めたことを絶対に曲げない。その強靭な意志が、時として腰の痛みを誘発することもあるのだ。
「でも、まあな」
魔法の森に入ってしまえばこっちのものだ。木は人を隠してくれるから。こんな辺境の森まで入ってこようとする物好きは少ないはずだし、仮にいたとしても魔理沙が出し抜かれる道理はない。森の手なずけ方はこの身に嫌というほど染みついている。
地蔵の頭をイスにして座り、魔理沙は魔法の森のいっとう高い梢を見上げた。
昼間でもほとんど光の射し込まないこの場所では、普段と違うものの見方をする必要がある。そうでなければ生き残れないのだ。慣れない環境に悪態をついている間に命は失われてしまうものだから。
鳥が鳴いた。魔理沙の左後ろの梢だ。声はうるさいが人に危害は与えない。似たような声で鳴く妖怪がいるがこちらは要注意だ。人を食う。見も知らぬ同業がやられたという話をかなり前に聞いた。確か名前は何だったか――
「魔理沙」
唐突に名前を呼ばれ、渦巻いていた思考が停止する。
「へ……?」
声の先に向けられた魔理沙の目は、まだ半分以上物思いの海に浸かっていた。
バンダナよろしく巻いた頭のリボン、手には魔導書、おまけに少女。
「……何だ、アリスか」
「どうしたの? こんなところで」
言って、アリス・マーガトロイドは小さく首を傾げる。短い金髪がかすかに揺れた。
魔理沙はとっさに地蔵を隠そうと試みたが、アリスはすでにこちらを認識している。まず隠しおおせないだろう。
逡巡する。これは最悪肉弾戦に持ち込むしかなさそうだが……。
いや、アリスになら何か手伝わせられるかもしれない。とっさに発想を逆転させ、魔理沙は立ち上がり、自身のイスを指して言った。
「地蔵の頭だ。私がここまで運んできた」
「頭……?」
このとき、相反するふたつの思考がアリスの脳内を瞬間的に支配した。
『あらあら』
先んじたのはアリスの善性であった。また魔理沙が変わったことを始めたようだけれど……地蔵の頭? もし本当ならとても罰当たりなことだわ。すぐにでも言い含めてやめさせないと。
善性はあくまでも善性であり、その言い分はどこまでもお人よしのそれであった。
もちろん隙だらけである。
続いて飛び出したアリスの悪性に、いともたやすく塗りつぶされてしまうほどに。
『やれやれ』
先制攻撃が有利だとは限らない。脳みそお花畑な甘ちゃんに現実を教えてやると言わんばかりの勢いで、アリスの悪性は善性に喰らいついた。
またよ、まただわ。問題児が問題を抱えてやってきた。こんなのどう考えたって災いの種じゃない。地蔵の頭? 魔理沙が壊したのね。それで証拠隠滅のためにここまで運んできたんでしょう。そうに決まっているわ。下手に関わったら私まで事件の片棒を担がされるかもしれない。ここは逃げるが吉よ、アリス。
悪性とは、言い換えれば自己防衛本能の発露である。アリスの善性はまごうことなき本心でこそあったが、本能に勝てるほど強靭でもなかった。
彼女の下した決断はこうだ。
「頭、ね……ではごきげんよう魔理沙」
殊勝な顔の魔理沙にくるりと背を向けて、その場を立ち去ることを選んだアリスである。はためくスカート、ひるがえるリボン。来た道を戻る不自然さを少しも感じさせない、優雅で無駄のない動き。幻想郷一美しい敵前逃亡といえた。アリス・マーガトロイド、貧すれど鈍せず。この辺り、魔理沙とは生まれも育ちもまるで違う。しとやかに歩を刻む背姿には、何人もその後を追わせまいとする気品があった。
勘違いしてはいけない。なんだ、アリスはこういう冷たい女なのかと思う向きがあれば、いまここではっきりと否定しておく。彼女は基本的にお人よしだ。いつもなら魔理沙を食事に誘っていたかもしれない。手ずから料理を振舞っていたかもしれない。しかし今回は状況が状況だったのだ。
アリスの真骨頂は、その危機管理能力の高さにある。常に身の回りで起きるできごとを把握し、少しでも自分の領域が侵される気配を感じれば即座に距離を置く。賢明を絵に描いたような魔女である。
無論、魔理沙程度の実力では賢者アリスの目をごまかすことなどできはしない。地蔵ヘッド。見え透いた火中の栗だ。そのうえ肝心の栗は腐っているときた。ハイリスクノーリターン。可及的速やかに立ち去るべし。その初期判断は揺らがなかった。アリスの悪性は極めて優秀である。
しかしながら敵もさるもの、霧雨魔理沙は怯まない。
「おい待てよ」
声と同時に手が出ていた。突き出された右手はアリスの手首をがっちりと掴み、容易には離そうとしない。常識知らずの型破りな行動が、賢者の機転を屈服させた瞬間であった。
捕まった。
一瞬で察したアリスは、これ以上じたばたすることをよしとしなかった。魔理沙が何の意図もなく人を引き止めるはずがない。これは一波乱あるわねと頭の片隅で思いつつ、首だけで振り返る。
「何かしら?」
「手伝ってほしいことがある」
そのとき魔理沙が浮かべた笑みを、アリスは生涯忘れないだろう。
魔理沙にとっての嬉しい誤算は、アリスの操る人形がどれも身の丈に合わない力持ちということだった。
「ほおー」
感嘆のため息も出るというものだ。何せ、魔理沙があれほど手を焼いた地蔵の頭を片手で軽々と持ち上げ、なおも余裕しゃくしゃくの表情を見せているのだから。確か上海人形と言ったか、緻密に作り込まれたその顔は、木々の隙間から覗く木漏れ日を受けていっそう涼しげに見えた。
「すごいな、お前の人形」
「そう? これくらい普通よ」
「……そうか、普通か」
えらい普通があったものだなという思いと、こんなことなら初めからアリスに声をかけとくべきだったなという後悔が時間差で魔理沙の脳裏を過ぎった。さっきまでの自分が馬鹿みたいだ。慣れない力仕事をひとりでやろうとして、あげく空回り。
「何だかなー」
結果オーライということで構わないのだが、どうにも煮え切らない思いが胸のうちではくすぶっていた。
「魔理沙?」
返事の代わりにちらと隣を見ると、怪訝なアリスの視線にかち合った。どうやら自分はよほど難しい顔をしていたらしい。
「どうかしたの?」
「ああいやいや、何でもない何でもない」
手を振って否定したが、何でもないことにしておきたいというのが偽らざる魔理沙の本音だった。しきりに脳内を泳ぎ回る悩みのタネを自制心の銛で串刺しにして、魔理沙は頭上に揺れる地蔵菩薩の生首を見上げた。
「でもなあ、やっぱもったいないよなあ」
このまま家に持ち帰れば、地蔵ヘッドは正式に霧雨魔理沙コレクションとしての席を与えられる。それは別に構わないのだ。独り占めは嫌いじゃないし、いまさらこの石を元の場所に返すつもりもない。だが、喉につかえた小骨は一向に消え去る気配を見せなかった。
もったいない。漠然とした感情だけが先んじて、それを説明する言葉が追いつかないのだ。
「ついたわよ」
している間に到着してしまった。見慣れた自宅の外観である。魔理沙は今度こそ一切の思考を振り払うことに決めて、
「よし、そこに置いてくれ。中には運ばなくていいから」
「ここでいいの?」
「とりあえずはな。この後どうするかはおいおい決めるさ」
「そう。上海」
アリスの指示が飛ぶ。上海人形は音もなく地上に降り立つと、頭上に抱えていた巨石を丁寧に地面へ降ろした。
「おう。サンキューな」
魔理沙が頭をなでてやると、上海人形は実に嬉しそうにするのだった。これもアリスの仕込みだというのなら彼女の技術には舌を巻いてしまう。
「何もないけど、入って休んでくか?」
「何もないようには見えないけれど……」
「もてなすものがないって意味だ」
「ああ、そういうこと。ではお言葉に甘えさせてもらって」
断る素振りさえ見せなかったアリスである。やはり疲れていたのだ。人形が仕事をしていたからわかりにくかったものの、魔理沙に見えない部分で彼女は相当の負荷を負っていたに違いない。アリスの普通はやはり普通じゃなかったということだ。まったく、私の前だからって強がって、可愛いとこあるなアリスも。
「きつかったなら言ってくれたってよかったんだぜ。さ、入れ入れ、入って休め」
「普段ならこんなに疲れることはないのだけれど……行くわよ、上海」
そのとき、確かに上海人形は二、三歩よろめく気配を見せた。が、その姿はついに誰の目にもとまらなかった。
「苦い」
舌を拷問にかけられている気分だった。これならまだ石鹸を頬張った方がマシかもしれない。アリスは真剣にそう思った。
「良薬は口に苦しって言うだろ。特別製の薬湯だ、私が調合したんだぜ」
「……念のために言っておくけれど、それは薬が苦ければ苦いほど効き目があるという意味ではないのよ」
「え、そうなのか?」
本気で信じていたらしい。
「ともかく、これはさすがに飲めないわね。お気持ちだけいただいておくわ。ありがとう魔理沙」
「そうか……まあ、しょうがないか」
残念そうな魔理沙の顔は目に痛い。いっそ無理にでも薬湯をあおってしまいたい衝動に駆られたが、いかにせんこれは『飲む拷問』である。身体にはよくても、最悪ショック死だってありえる。際限なくふくれあがる自己犠牲の精神を無理くりねじ伏せ、アリスは手にしたハンカチで額の汗を拭いた。
それにしても埃っぽい部屋である。
品定めをするつもりもないのだが、雑に積まれた魔導書やらクモの巣やらを見ているとどうしても不快な印象が先に立つ。物置と化した部屋は狭く、取りつく島もないほどに暗く、アリスは今すぐにでも部屋中のカーテンを開け放って新鮮な空気を吸い込みたくなる。彼女がそうしないのは窓に手が届かないからであり、窓に手が届かないのはこの狭苦しい掘っ立て小屋が山のようなガラクタで満たされているからだった。
「魔理沙は、掃除とかしないのね」
それとなく水を向けてみる。
「掃除?」
何だそれは、と言わんばかりに目を丸くして、魔理沙はアリスを見すえたまま手にした湯飲みの中の液体を、
「にが! これにっが!」
「だから言ったでしょう」
醜く口をひん曲げる魔理沙を見て、アリスは顔中に血が集まるのを感じた。さっきまでの自分もこれと同じような顔をしていたのかもしれない。
「だいたい、自分でも味がわからないものを何で私に飲ませるのよ」
「……苦くなることは材料を選んだ時点でわかってたから、自分で試す必要はないと思ったんだ」
「で、そこに都合よく私が現れて」
「すまん」
悪気はないのだと思う。薬湯だと本人も言っていたことだし、毒になるようなものは入っていないだろう。しかし苦味は心の毒だ。せいぜい反省してもらうに如くはなかった。
「好奇心もほどほどにね」
「肝に銘じておく」
アリスは一度大きく伸びをしてから、部屋の中を見渡してみた。伸びをするだけの空間が残されたこの場所は、彼女が以前本で読んだことのある、人類最後の楽園を思わせた。
この影と湿気と埃とに支配された十畳あまりの空間は、霧雨魔理沙の飽くなき好奇心が創りあげた特注の要塞に他ならない。アリスにはただのガラクタにしか見えないあれやこれやが、魔理沙の目を通すことでようやく意味を持ち始めるのだ。雑に並んだ薬品ビン、べったり貼られたドクロのラベル、下あごのない頭蓋骨、付箋まみれの洋書。ウサギの剥製はうつぶせのまま放置され、その下にあるクモの標本を押しつぶしてしまっている。散らかし方にも作法はあって、魔理沙のそれは物の見事に退廃芸術の美をなしていた。部屋は人の内面そのものだという俗説を、アリスはできれば信じたくなかった。
考える。
「運び込めないわよね、この有様じゃ」
「何のことだ?」
「あなたが忘れてどうするのよ。あの大きな石。ほら、上海に運ばせた」
「あれは石じゃない、地蔵の頭だ」
そこだけは譲れないらしい。今の今まで忘れていたくせに。
「どうするつもりなの、結局」
今度は返事がなかった。立ち込めるカビと薬の匂いに沈み、魔理沙はひとり腕を組んで考えごとを始めた。
「それなんだがな」
足元を這う得体の知れない虫を、彼女は気にも留めない。
「何だかもったいないような気がするんだな、私のところにこれを置いておくのは」
「もったいない?」
ああ、と魔理沙は頷いて、
「今は頭だけになってるけど、あれも元は神様だったわけだろ? 人気があったかどうかは知らないが、あがめたてまつる人がいたわけだ」
「……それで?」
アリスの脳内に、これは長くなりそうだなという思いが渦巻き始めた。もちろん思うだけで顔には出さない。
「しかしだな、これが私のものになってしまった場合、その信者たちはどうなると思う?」
「どうなるって……」
そんなもの、
「また別の神様をあがめるんじゃない? お地蔵様なんて、信仰の中心にすえるものじゃないだろうし」
「いや、私はそうは思わない」
面倒くさいなあ。
「私が思うにだな、あれは地蔵でも、相当位の高い地蔵に違いないんだ。私が目をつけたぐらいなんだから」
ついには返事をする気も起こらなくなって、アリスは黙って話を聞くことに決めた。
「たとえ数えるほどしかいないにしても、あの地蔵の信者たちはみな敬虔だった。自分の食べ物をニコニコ笑顔で供えるようなことだってあったかもしれない。しかし御神体は消えてしまった。しかも頭だけが忽然と。なぜだろう」
「あなたが持ってきたからでしょう」
こらえきれず返事をしてしまうアリスである。
「う」
魔理沙はそこで一度硬直した。図星をつかれ、気休めにもならない咳払いをひとつ、
「……ともかく。信者は困っただろうな。何せ自分たちの心の拠り所がなくなってしまったわけだから。加えてこの地蔵は位が高い。幻想郷の信仰には大きな穴が空いてしまった」
「大げさなんじゃないかしら」
「さあ大変だ。幻想郷の神様事情は今や一触即発の急展開。穿たれた穴を埋めるのは一体誰なのか。……とまあ、こうなるわけだ」
「ならないわよ」
妄想は、思えば魔理沙が口を切った瞬間から始まっていた気がする。
「そこでだ」
半ば魔導書に埋もれた戸口をずびしっ! と指さして魔理沙は、
「あの地蔵の頭を、私が新たな幻想郷の神様として再生させるわけだ。斬新だろ?」
「……すごいことを思いつくわねあなた」
おかしな頭を拾った頭のおかしい魔女が、ついには新興宗教を始めようというのだ。アリスはあきれてしまって、乾いた笑いのひとつも発することができなかった。
「面白そうだと思わないか? 頭だけの神様なんてなかなかいないぜ」
「奇抜だとは思うけれど……」
不気味だ。ただその一言に尽きる。
「でもどうするのよ。お地蔵様の信者が頭を取り返しに来たら、言い逃れできないわよ」
「言い逃れなんてしないさ」
魔理沙は自信の笑みを顔中に浮かべ、暗い部屋の中、張りのある声で言い切ってみせた。
「私の辞書に不可能の文字はないんだぜ」
翌日のことである。
「……というわけで、この『オルメカ地蔵』は空から降ってきたのであります。なぜ降ってきたのか? それはこの頭が一度天に召されているからです。つまりこうです、元々は地上にあったこの巨石『オルメカ地蔵』は、天界で聖なる力を会得して再びこの地に帰ってきた。我々に大いなる恵みをもたらすために、わざわざ帰ってきてくださったのであります……」
聴衆の実に九割が年老いた人里の面々だった。しわくちゃの顔、三歩歩けば倒れてしまいそうな足腰、見えているのか疑いたくなる目、まことに失礼ではあるが、『いつ亡くなっても』という表現がこれほどしっくりくる人々もいないだろうなとアリスは思った。
「幸せになる権利は誰にでもあります。そこのあなた、老い先短いからと人生をあきらめてはいませんか? いけません。六十七十は鼻たれ小僧といいます。あなた方はまだ若い。若いのです。もう遅いなどと思わないでください、せっかくのチャンスを無駄にしないでください。ああみなさまに幸あれ、幻想郷に幸あれ」
よくもまあそんな歯の浮くような科白が次から次へと出てくるものだなあと、アリスは感心せざるを得なかった。
目下、村はずれに集めた聴衆の前に演壇を置いて立ち、かれこれ十五分近く話し続けているのは誰あろう霧雨魔理沙その人である。どこから引っ張り出してきたのか、日頃の魔女ルックとは一線を画す和装に身を包み、ブロンドの髪をアップにまとめて一心に長口舌をふるっている。かたわらにはオルメカ地蔵もとい頭巾を被せられた地蔵菩薩の頭が置かれ、無遠慮な視線を注いでくるジジババどもに睨みをきかせている。アリスはといえば、里の老人方の注目を逃れ、並べられたイスの最後列のそのまた後ろで腕組みをして立っていた。
「……それでは最後になりますが、私たちの掲げる理想は『幻想郷に住むすべての人間、妖怪の救済』であります。決して自分たちが得をしようなどとは思っておりません。少しでも多くの方が幸せになってくださること。それが私たちの幸せなのです。しかしながら私たちの活動にはここにいる皆さまのご協力が欠かせません。お帰りの際はあちらに用意した木箱の方に、ぜひともあなた方の『お気持ち』を投じていって下さいませ。本日は長らくのご清聴、まことにありがとうございました。みなさまに『オルメカ地蔵』のご加護がありますように」
作法だけを見れば、彼女の態度は実に堂々としたものだった。最初の挨拶に始まり、視線の方向、身振り手振りのタイミング、声のボリューム、果てはその去り方に至るまで、まったくの無駄がなかった。少なくともアリスにはそう見えた。
拍手喝采のうちに講演は終わりを告げ、老人たちは三々五々にバラけ始めた。地蔵の頭をなでる者、手を合わせる者、ハンカチで涙を拭う者、律儀にも木箱に『お気持ち』を投じて帰る者。中には地蔵にひれ伏す者まで出る始末だった。よほど彼女の演説が効いたらしい。
「魔理沙、あなたすごいわね。こんな才能があったなんて知らなかったわ」
気の張りどおしで疲れたのか、魔理沙の歩調は酔漢のようで、今にも路上に倒れてしまいそうだった。手近なイスに腰かけ、がくりとうつむいたきり顔を上げようともしない。無防備にさらされたうなじは雪のように白く、アリスは期せずして胸の高鳴りを感じた。しばしその姿から目が離せない。
「ちょっと、大丈夫?」
「……何とかな」
かろうじて答えるも、それ以降が続かなかった。顔を上げるまでに三十秒はかかったはずで、立ち上がるにはその倍の時間を要した。
「いやはや、さすがにこたえるな。やっぱり大勢の前で喋るのは疲れ……お、みんなお布施を入れてくれてるじゃないか。信仰心があって大変よろしい」
「……あなた本当にがめついわね。何だか心配して損しちゃったわ。さっきまであんなに立派だったのに、内容は別として」
「いやいや、そんなに大したことはやってないんだぜ。あれは全部親父の真似だ」
「お父上の真似?」
魔理沙の父親ならアリスも知っていた。道具屋で、職人で、人里に自分の店があって、今は魔理沙と絶縁状態にあるという父親。しかしその父親と演説とは、どうこじつけても結びつかないものだ。
「魔理沙のお父上って、道具屋さんでしょう? それも道具作りをするのが専門で、普段はあまり外に出ないと聞いたけれど」
「それがそうとも限らないんだな」
まとめた髪を、魔理沙はあっさりとほどいてしまった。長くつやのある金髪が風に流れる。
「親父はこの地域のまとめ役をやってるんだよ、昔からな。もちろん自分から立候補したわけじゃないんだが、里一番の道具屋の主人ってことで周りから持ち上げられて、しぶしぶ請け負ったってわけだ。だから親父は人前に立つことが多かった。母さんに連れられて、私もよく集会に行った」
「へえ……何だか意外だわ」
「実際、親父は人前で話をするのが上手かった。ほんと、職人にしておくのがもったいないくらいでさ。本人は嫌だったみたいだが、子ども心にすごいと思ったよ。だから、さっきまでの喋りも全部親父の猿真似で、私の技術じゃあないってこと」
魔理沙は謙遜して見せたが、それでも彼女が人並み外れていることに変わりはなかった。すぐれた演説を見ただけで技術が身につくのなら、聴衆の数だけ弁舌の士が生まれることになる。そうならないということは、魔理沙にのみ与えられた天分が存在するということだ。
「十分すごいと思うけれどね、あなた自身も」
「いやいや」
どれだけ賞賛しても、魔理沙はけして取り合おうとしないのだった。
が、その謙虚さと金欲とは別である。
「それにしても、」
アリスは木箱に群がる老人方をちらりと見て、
「これじゃ悪徳商売と同じよね。洒落で置いてはみたけれど、あんなにお金が集まるなんて思ってもみなかったわ。どうするつもりなのよ、魔理沙」
「どうするって?」
「このままじゃ名前ばかりが知れ渡って実が伴わないでしょってこと。あれはもうただの石ころなのよ。あなたがいくら『これは神様です』と言い張ったって、ご利益なんて少しもないんだから」
「それは大概の神様がそうだろう。誰の目にもそうとわかるご利益なんて見たことがない」
「そ、それは……」
とっさには言い返すことができなかった。
「そうかもしれないけれど、さすがにやり方が汚いわ。見なさいよあれ!」
アリスが突き出した細い指の先には、『救済信仰』の名のもとに脳みそをとろかされた愚かな目暗どもの姿がある。蜘蛛の糸はすでにして垂らされたのだ。みじめな老いぼれどもは救いを求め、なけなしの財産を余すことなく集金箱にねじ込んでいく。そこにあるのは、魔理沙の家に眠っていたころのみすぼらしい木箱ではすでにない。今をもって枯れた老人どもの欲望を吸い尽くし、『お気持ち』という名の契約金を無限に喰らい続ける地獄の釜だ。
人だかりは絶えない。
演説に酔った信者の誰もが、自分たちの頭上に降り注ぐ神の祝福を信じて疑わない。蜘蛛の糸が実はどこにも繋がっていないことに気づこうとしない。
「不当にお金を巻き上げたりして、あれじゃ詐欺と一緒じゃない!」
「詐欺ではないさ。不当でもない。あの募金はご老人方の意思だ。誰も強制なんかしてないし、金を入れなかったからといってペナルティを科すようなことももちろんない。それに見ろよ、金を入れてない人だっているじゃないか」
いよいよもって悪人面に磨きがかかってきた魔理沙が示した先には、そそくさと講演会場を後にする人々の姿があった。顔ぶれは、聴衆の一割にも満たなかった里の若者たちだ。聞こえてくる声を拾ってみると、
『何だよあれ、ただの石ころじゃないか』
『見え透いた悪徳宗教だな』
『期待して損したわ。まるっきり時間の無駄だったわね』
云々。
「ほらな、帰る人は帰るんだよ。個人の自由意志に基づいた集金に悪はないだろ?」
「…………」
腑に落ちないながらも、もっともらしい反論を思いつくことのできない自分が何より悔しいアリスであった。
「……だいたい、オルメカ地蔵って何なのよ。ネーミングからして胡散臭いわ」
語調にも覇気がない。それはもはや詰問ではなかった。
「そうか、胡散臭いか」
「胡散臭いわよ」
魔理沙は余裕の笑みでアリスを見て、
「外の世界の本にな、書いてあったんだ」
「外の……世界……? え、」
ということは、つまり、
「オルメカ地蔵って実在するの? 外の世界にあるってこと?」
「らしい」
冗談で言っているとは思えないが、かといってすんなり飲み込める話でもなかった。
「海の向こうの墨西哥という国には、その昔オルメカという文明が栄えていたらしい。今でも遺跡が残っていてな。いろいろ見つかるそうなんだが、」
魔理沙は演壇にすえられた地蔵菩薩を振り向いて、
「その遺物のひとつに『巨石人頭像』なるものがあると本には書いてあった」
「キョセキジントウゾウ……?」
アリスは首をひねった。これもまた、巧妙な魔理沙のペテンではないのか。このまま話を聞いて平気なのだろうか。
「石でできた人の頭。読んで字のごとくだな。実物はあれよりもっと巨大で、小さいものでも私たちの身長ぐらいあるんだそうだ」
「はあ、それはまた……」
とんでもないものをお作りになる人もいたものだ。
「で、それを参考にして私が名づけたのがあの『オルメカ地蔵』ってわけだ。本物は頭に何か被ってるらしいから、真似して頭巾を乗っけてみた」
「へえ……」
作り話にしてはよくできている。いっそ信じてもいいような気がしてきたが、しかし疑いの靄はそう簡単には晴れてくれない。アリスの視界にはだらしなく緩んだ会場の空気があり、魔理沙のしたり顔があり、背もたれのないベンチがあり、強張った地蔵のしかめっ面がある。無条件に信じられるものなどどこにもなく、自己防衛の殻は幾重にもアリスを取り巻いていく。
「まあでも、」
魔理沙の目は遠く老人の隊列を見ている。その目は欲望と好奇心とを半々に持つ、誰よりも少女の資質に愛された目だ。
「まさかここまで儲かるとは思わなかったよな。よし決めた、アリスにも分け前をやろう。――特別だからな」
おそらくは、これが最後の引き際に違いなかった。
「あの、魔理沙」
「ん? どうかしたのか」
簡単なことだ。相手の目を見て一言、『もうあなたの宗教ごっこにはつきあえません』と叩きつけてやれば、それがそのまま三行半になる。心がけることは三つ。いさぎよく、きっぱりと、明白に。言い淀むことは許されず、別れに際して少しの後腐れも残してはならない。わずかでも情に流されればすべてがオジャンだ。アリスには『オルメカ教副教祖』の肩書きが与えられ、悪評はすぐさま定評に変わり、黒魔女『アリス・マーガトロイド』は悪事の片棒を担いだ存在として永劫後ろ指をさされることになるだろう。それだけは何としても避けなければならなかった。
言ってしまおう。
「私、もう――」
しかしその続きが発せられることはなかった。
「面白そうなことやってるじゃない」
近すぎる声だった。
アリスの背後、それも真後ろである。血が沸騰するような一瞬の戦慄。目をむく魔理沙、冷や汗、脈打つ心臓、白熱する脳裏、叫ぶ本能、危険だ防御、何か身を守るもの、何でもいい早く、
上海。不意に飛び出した人形の名を無我夢中でつかまえて、
命令、
送る、
『威嚇しろ』、『私を守れ』、『私を――』
否、私たちを――
その時だった。
「あ」
魔理沙が言った。
「誰かと思ったらお前――霊夢じゃないか」
――――え。
「………………霊、夢?」
その一言が、何より高度な魔法の呪文だったと思う。
アリスはいまだ冷めやらぬ意識の中、ゆっくりと首を巡らせ、その目に映った少女の姿をたっぷり十秒かけて咀嚼した。
なるほど霊夢には違いない。おかしな点など何もない。しかし異様なのはその間合いだった。
「あの……近いわ、霊夢」
「あ、ごめん」
互いの鼻がこすれあう位置に立っていた霊夢は、アリスの注意を受けてようやく一歩退いた。
と同時に、アリスの身体を拘束していたありとあらゆる緊張が、吐息となって流れ出た。
「ふう――――――――」
魂まで吐いてしまいそうな長い長い息をついて、アリスは腰砕けに崩れ落ちた。がっくりと肩を落とし、しばし立ち直れない。
「もう、びっくりさせないでよ……」
「ごめんって。あんた驚きすぎよ。大丈夫? 立てる?」
けらけら笑いながら手を伸べてくる霊夢はきっと少しも本気にしていないが、アリスには心臓が止まるほどの衝撃だったのだ。もう少しその辺りを斟酌してほしいと思う。
「私も驚いたぜ。と言うか何時からいたんだお前」
「最初からいたわよ」
「え?」ふたりの声が重なる。
魔理沙は怪訝な目をした。「何だお前、ずっとアリスの後ろに立ってたのか?」
「違う違う。そうじゃなくて、最初からここでオーディエンスやってたって意味」
「嘘だろ?」
「ホントよ」
霊夢は髪を指先でもてあそびながら、
「やっぱり気づいてなかったのね、まったく……あー、あんたらアレでしょ、私が巫女服着てないからそれでわかんなかったんでしょ。言っときますけどね、私の本体は巫女服じゃないからね。これを機に覚えてよね」
ホント失礼しちゃうわ。
一息にまくしたてた霊夢は、言うだけ言って気が済んだのか魔理沙とアリスにくるりと背を向け一歩を踏み出し、
「ってそうじゃないわよ」
すぐさま半回転して再びふたりの魔女に向き直った。
「私はあんたらに言いたいことがあるのよ」
びしりと魔理沙を指差して、
「特にあんたには言って聞かせなきゃならないことが山ほどあるわ。博麗の巫女として」
「でもいまのお前巫女じゃないじゃん」
「巫女よ! だから服が肩書きを決めるわけじゃないって言ったでしょ!」
「そんなことは言ってないと思うが……まあ何だ、聞こうじゃないか」
魔理沙もしまいには面倒くさくなったようで折れたが、たとえアリスが同じ立場でも結果はそう変わらなかったに違いない。普遍的に面倒くさい巫女、博麗霊夢である。今日は趣向を変えて、魔理沙とは柄違いの和装を華やかに着こなしている。
「と言ってももうわかるでしょ、魔理沙。心当たりがないとは言わせないからね」
「さあ~私には何のことだかさーっぱり」
「いますぐ布教をやめなさい」
「やなこった」
驚いたことに舌まで出して徹底抗戦の意志を見せる魔理沙である。その目は対峙する霊夢の視線とぶつかりあって、見る者に白い稲妻を幻視させる。
「せっかくの儲け話で、しかもほとんど成功しかけてるんだ。ここまで来てみすみす手なんか引けるか」
「もう一度だけ言うわ。いますぐその狂気じみた布教をやめなさい。さっきの忠告は博麗の巫女として。今のは――あんたの友人としての忠告よ」
「余計なお世話だ。巫女だろうが友達だろうが関係ないね、私の仕事の邪魔するやつはみんな敵だ」
「……交渉の余地は、つまりないということでいいのね?」
「あったり前だ。だいたいお前は私たちをカルト教団みたいに言うが、それは大きな間違いなんだぜ。な、アリス?」
アリスは泣きそうになった。どうしてここで私に振るのだ。
「いや、あの私は、その」
本音を言えば魔理沙のやり口は立派なカルト教団のそれだ。信者の利益は保証しないくせにがめつい。納金の自由を謳いながら、その実集団意識を利用したお布施の強要も忘れない。こうしてみると相当悪どい手口である。
やはり魔理沙に賛同するわけにはいかなかった。
「やっぱり、魔理沙のやってることは間違ってると思うわ」
「……そうか」
魔理沙の瞳に失望の色が混じる。そしてすぐさま目を伏せ、
「お前なら、私についてくれると思ったんだがな」
胸が張り裂ける思いだった。いくら相手が間違っているとはいえ、数少ない魔女の友人にそんな顔をされて無感情をつらぬけるアリスではない。
「いいさ、私は私のやりたいことをやる」
「魔理沙……」
「アリスに裏切られたのが相当こたえたみたいね。もう意地張るのやめたらどう? それにあの御神体――」
霊夢はいまや人影の存在しない演壇を指差して、
「中に悪霊入ってるわよ」
「え?」
驚いたのはアリスだけではなかった。
「あ、悪霊だ?」
むしろ三人の中でもっとも戸惑ったのは、初めに地蔵を見出した霧雨魔理沙自身であった。
魔理沙は目を丸くしたかと思うと、唐突に腹を抱えて笑い出した。
「おいおい勘弁してくれよ。あれはもともとちゃんとしたお地蔵様だったんだぜ。悪霊なんか入るわけないだろ。嘘つくにしてももちっとマシな嘘をだな、」
「嘘じゃないわ」
霊夢の視線は真っ直ぐ魔理沙を射抜いたままぴくりとも動かない。彼女の嘘がそうさせているのなら、あまりに誠実すぎる嘘だとアリスは思った。
「そんなんだからいつまで経ってもあんたは私に勝てないのよ。少なくともあの悪霊が見えないうちはね」
「何だと……?」
魔理沙の眉がピクリと動いた。
「ほらそうやってすぐ挑発に乗る。怒りは人の目を曇らせるわよ。もう少し落ち着きを持ちなさい」
「くっ」
「霊夢、さすがにそれは」
「いいのよ」
霊夢は涼しい顔でアリスにウインクしてみせた。
「あ……」
これは何かある。アリスは一瞬でそれを察した。
魔理沙は鋭い目で霊夢を睨みつける。瞳の奥に闘うふたつの感情、怒気と冷気、その葛藤は誰の目にも明らかだった。
「じゃあ証明してくれよ。私みたいな間抜けにもわかるように、あの地蔵の中の悪霊をはっきり証明してくれ」
かかった。その時、霊夢の口は確かにそう動いた。
「いいわ、証明してあげる」
誘い込んだのだ。魔理沙のコンプレックスを的確につくことで、霊夢は話の流れを巧みに誘導した。本当に詐欺に向いているのは魔理沙ではなく霊夢なのかもしれない。アリスは内心怖れを抱かずにいられなかった。
霊夢はぺろりと唇を舐めて、
「って言っても証明の必要なんてないと思うんだけどね。ここにあの頭があるってことは、あんたらのどっちかがここまで運んだんでしょ?」
魔理沙の目がアリスに向いた。どうやら言えということらしい。
「……ええ、私が運んだわ。正確には私の人形だけれど。どっちみち魔理沙には運べなかったわね。あれ相当重いし、私も生身じゃ簡単には動かせないし」
「じゃあアリス、あんたに聞くけどさ。あれを運んでいる時、まあ運んだ後でもいいんだけど――妙に疲れたりしなかった?」
「え……?」
いまの「え」は疑問の「え」ではなく図星の「え」だ。なぜ霊夢がそれを知っているのか。
「霊夢、あなた私たちのこと尾けていたの? 確かに疲れはしたけれど、何でそれがあなたに」
「尾けてなんかいないわよ。まあ信じる信じないはあんたらの自由だけどさ。ともかく、あの石を運んだアリスが疲れたという事実。これがミソなの」
「別に何もおかしくないだろ。重いものを運んだから疲れた。そんなことにいちいち目ぇつけてたらそれこそ疲れちまうぜ」
「だから言ったでしょ、『妙に疲れなかったか』って。あんたは何を聞いてたのよ」
「む」
魔理沙は黙り込んでしまった。言いたいことは山ほどあるはずだが、それら数多くの主張を丸ごと飲み下して生まれた沈黙がそこにあった。
「私が疲れたこと……それとあの石が関係しているのね」
「そうよ」
アリスには思い当たる節があった。確かに妙だと思ったのだ。いくら石が重いといってもあれは割に合わない疲労だった。身体の芯がぶれるような、やけに後を引くあの感覚。そう、あれは――
「魔力を使い切った時の感覚に似ている――」
「鋭いわね、その通りよ。あの石は、あの悪霊は――触れた者の魔力をかき乱す」
「かき乱す、だと?」
信じられない様子で魔理沙は霊夢の顔と地蔵の頭を交互に見つめた。オルメカ地蔵。名付けたからには愛着も湧くもので、やはりあの仏頂面の内側に悪霊が隠されているなどとはとても思えなかった。本当は霊夢がおかしいのではないか。真摯な彼女の口ぶりだとか状況証拠が物語る論理の妥当性だとかそうしたもろもろを丸ごと全部置き去りにして、魔理沙は無条件に地蔵をかばいたい衝動に駆られた。
霊夢は続ける。
「前にも一度戦ったんだけどその時は退治し損ねてね。半年ぐらい前だったかしら、どこに逃げたのかと思ってたけど、まさかこんなところで根を張ってたとは驚きだわ。でも今度はこれがあるから」
そう言って彼女がふところから取り出したのは数枚の呪符であった。悪霊を封印するつもりなのだ。その動作には微塵の容赦も感じられない。悪霊だから、害になるから封印する。単純ゆえに取りつく島のない感情、冷徹な使命感。魔理沙には、霊夢のその機械的な感情こそが真の悪霊であるように思われてならなかった。
「じゃあちゃっちゃと封印しちゃうわね」
霊夢が演壇に向かって歩き始める。次第に狭められつつあるその距離は、動けない地蔵にとっては死神の射程にほかならなかった。
止めなければ。魔理沙の心臓が早鐘を打つ。出自はどうあれあのオルメカ地蔵は今や立派に魔理沙の所有物であり、保護の対象であり、他者の蹂躙を受けてはならないコレクションだ。このままでは、このままでは取り返しのつかないことになる。
両者の距離はもういくらもない。霊夢がお札を構えた。くそ、何だって自分は商売道具に愛着なんて持っているのだ。冷静な自分はそう言うが、もはや止めようとして止まるものではなかった。
「待ってくれ」
声は、踏み出す一歩より早かった。霊夢がぴたりと動きを止めた。首だけでこちらを振り返り、口の動きだけで『何?』と問うて見せる。
「私が何とかする。元々私が撒いたタネだ、落とし前は自分でつけたい」
ひたとすえられた霊夢の瞳は微動だにしない。魔理沙は息を呑んでその威圧に立ち向かう。
「私がそれを信じると思う?」
「頼む、この通りだ。もし私が怪しい動きをしたら後ろからばっさりやってくれて構わない」
沈黙が降りた。遠く老人の話し声が聞こえてくる。――あれは博麗神社の霊夢ちゃんじゃないかえ? どうしてまた教祖様と一緒にいるんだかなあ。神様どうしの約束でもあるんかなあ。
睨みあいの六十秒が過ぎた。
「……ふーん。あ、そ」
霊夢は軽く腕を振った。その先に握られていたはずの呪符は、すでにどこにもなかった。
「妙なことしたら袈裟斬りだからね」
「心得た」
魔理沙は一度大きく深呼吸をしてから、しりぞく霊夢と入れ替わりに地蔵の前に立った。こうしてみると、やはり精悍な顔立ちをしている。
おそるおそる問いかける。
「……私がわかるか?」
五秒待つ。返事はない。
「聞こえてたかもしれんが、このままじゃお前はどうあっても封印される運命にある。霊夢は強い。前に戦ったからわかるだろ。たぶんお前じゃかなわないんだ。だからこれは相談というより忠告なんだが――このままおとなしく成仏してはくれないだろうか」
やはり返事はない。しかしここであきらめるわけにはいかなかった。辛抱強く待つこと三分と十秒、
『それはできない相談よの、霧雨魔理沙よ』
ついにオルメカ地蔵はその重い口を開いた。
「うそ、喋った……」
両手で口を覆うアリスとは対照的に、魔理沙はさほど驚かなかった。霊夢の言うことだし、おそらく虚言ではないだろうと踏んでいたのである。
「そうか……いやしかしだな、どの道お前は封印されるぞ、それでもいいのか」
『無論、このままおとなしく封印されるつもりもない。博麗の巫女とて何ほどのことがあろう。わしは断固として戦うつもりだ』
「血気盛んなのは私も嫌いじゃないがな。しかしオルメカよ、今回はいささか分が悪いぞ」
『何、向かい風など百も承知よ。我が誇りをかけた戦の果てに命尽くるならば本望』
「死人がそれを言うかね。ったく、」
何なのだこいつは。魔理沙は振り返り、
「なあ霊夢よ、こいつ本当に悪霊なのか?」
「悪霊よ。大昔の落ち武者。出遅れた武士道なんて悪以外の何ものでもないのよ」
「……お前のその判断基準も、どうかと思うがなあ」
霊夢の思想は一旦脇に置くとしても、魔理沙にはこの霊が悪霊だとはどうしても思えなかった。多少武家的な考え方の偏りがあるものの、だから悪人というわけでもない。むしろ誠実な気風さえ漂っているくらいだ。
総じて厄介なのは『魔力をかき乱す』という性質一点のみなのであって、つまりはこの能力さえ何とかできればいいのではないだろうか。こいつを悪霊と呼ぶ理由はなくなるのではないだろうか。魔理沙はそこまで考えて、
「なあおい、オルメカお前、その厄介な能力を引っ込められないのか」
『厄介な能力とは何だ』
落ち武者は、オルメカの名で呼ばれることに難色を示さなかった。
「さっき霊夢が言ってたやつだよ。魔力をどうこうっていう」
『魔力とな? はて……わしには皆目見当がつかぬが』
「……あー」
だめだこりゃ。魔理沙は落胆したが、ここであきらめるわけにもいかない。せめてもの抵抗を試みる。
「魔力ってのはだな、魔法を使うための力……って言ってもわからないか。何て言ったらいいんだろうなあこればっかりは私にも説明が……なんとかならんかな、アリス?」
やはり来たか、という顔をアリスはして、
「魔力というのは不思議を起こす力のことですわ、落ち武者さん。たとえばそうですね、陰陽師が使うような力を思い浮かべていただければ」
「それだ」
『不思議を起こす力……するとおぬしらが申しておるのは気のことか?』
「気……ああ、たぶんそれだと思う」
『ふむ』
落ち武者はそこで一度言葉を切り、しばらくの間をおいてから、地蔵の目にあたる部分をぴかぴかと光らせてみせた。
「あ、すごい」
アリスが素直な驚きを見せる。
『ふん、これくらいは造作もないことよ。こう見えてもわしはだな、生前は「あやかし刃之進」と呼ばれておったのだからな』
「へえ、おまえ刃之進っていうのか」
『左様。姓は早乙女、名は刃之進にて候』
「名前なんてどうでもいいのよ。重要なのは私と戦う気があるのかどうか、それだけ」
「まあ待て霊夢。もう少し話を聞いても構わんだろう」
正直に言って魔理沙は限界だった。背後には抜き身の刃物を思わせる霊夢の殺気、正面には何を口走るかわからない落ち武者崩れ。そしてその中心に立つ魔理沙は、これらふたつの相容れない力場を上手く調和させて、この場を丸く収めなければならない。もはや冷や汗も出ない。その一挙手一投足に責任が問われる局面である。
「おいオルメ……じゃなかった、刃之進。おまえ自分が死んでるってことはわかるんだよな?」
『無論だ』
「なるほど、つまりおまえは幽霊としての自覚を持ったうえでこの世にいるってわけだ」
『そうなろうな』
「なぜ成仏しない? おまえは何のためにここにいる?」
今度は、返事がなかった。
この問答に正解があるとすればまさにここだ。魔理沙は直感した。
「この世に未練がないのなら成仏してもいいはずだ。そうだろ、霊夢?」
「そうね。私がこいつを悪霊と判断した理由のひとつはそれよ」
『ほう』
刃之進が小さな吐息をもらした。その内なる感情に呼応するように地蔵の両目が妖しく光る。
『では、それを聞いておぬしらはどうするというのだ? 知ったうえで封じこめるか?』
「馬鹿言うな」
魔理沙は大きく息を吸い込み、直後、誰より壮絶な笑みを浮かべて言った。
「手伝ってやる」
『……手伝う、とな?』
地蔵の眼光が戸惑いの黄に変わり、次いで警戒の赤へと移ろう。
「霊夢は知らんが、私は手伝ってやってもいいぜ。助太刀ってやつだ。まだこの世にやり残したことがあるんだろ? だからおまえはここにいるんだろ? だったら力を貸してやろうじゃないか、刃之進」
刃之進の目から光が消えた。沈黙の底に沈み、引き結んだ巨石の唇からは一言も発しようとしない。しかしそれも束の間、やがて大昔の落ち武者は辺り一帯を震わせるような大声で笑い始めた。
魔理沙は大笑の風をその身に受けてなお、怯まない。
「……何がおかしい、落ち武者」
刃之進はさらにひとしきり笑ってから、
『威勢ばかりの小娘が粋がりおって、片腹痛いわ。おぬしの力など借りたところで米粒ほどの足しにもならん』
「なめてもらっちゃ困るぜ。あいにく力には自信があるんでね。そう……お前にも負けないぐらいのパワーが、私にはある」
だから力を貸してやる。
無論強がりには違いなかった。合わない歯の根、頬を伝う一筋の汗、小刻みに震える両手。どれもが隠し切れなかった魔理沙の内なる緊張の具現であり、それを隠そうとすればこそ、周囲にはその姿がますます不恰好に映るのであった。
だが、彼女には退いてはならぬ理由があった。
これはあくまで武者震いなのだと、そう言い張らねばならぬ理由があった。
目下、霧雨魔理沙が正面切って対峙する地蔵菩薩の頭には、かつて昔日の戦場を所狭しと駆け抜けた英傑、「あやかし刃之進」こと早乙女刃之進の魂が吹き込まれている。彼には自我があり、語る言葉があり、譲れない信念がある。死してなおこの世にとどまるだけの未練がある――
だがそれがどうした。
魔理沙にとっては死人の能書きなどどうでもよかった。そこにあるのは、ただ自分の欲しいものを欲しいままに手に入れたいという底なしの物欲のみ。
それが世界だ。
いつの日も、生きた人間の欲求が世界を創ってきたのだ。
欲を知る者すなわち欲を制す。自分なら必ずやこの落ち武者の願いを成就させられる。魔理沙には自負があった。速やかに刃之進を成仏させることで、空っぽの巨石は滞りなく魔理沙の所有となる。
いや、やはりそれではつまらない。
「これは取引だ、刃之進。お前の願いを叶えることで、私は私の願いを叶える。霊夢が宗教をやめろと言うならやめてやるが、この石だけは私のものだ。それで文句はないだろう」
魔理沙は、あえて背後の霊夢に聞こえる声で言った。霊夢は何も言わなかった。
「どうだ侍。呑むも呑まぬもおまえ次第だ。だが、もし呑むと言うのなら、」
着物のふところから特製の八卦炉を取り出し、
「この力をおまえに貸す」
遠く離れた茂みに向けて、青白く輝く光線を放った。
大爆発が巻き起こった。
暴力的な音と光と振動が、巨大なうねりとなって辺り一帯に吹き荒れた。霊夢とアリスは一支えもできないままに、彼方へと吹き飛ばされていく。
「ふふ」
魔理沙は、いまだ止まない爆風のさなか、そのあまりにも華奢な両腕を大きく広げ、刹那、
「さあ、どうする!」
大音声をあげて呼びかけた。
『…………面白い』
その甲高い叫びが、落ち武者早乙女刃之進の魂に火を点けた。
『面白いではないか! 讃えるべきは何と潔いその心意気よ! かような小娘がかくも豪放な気概を秘めておったとは知らなんだ! いやはや痛快、まるでかつての御屋形様を見るようだ!』
燃える瞳を爛々と輝かせ、刃之進はひときわ大きな声で笑った。
「乗るんだな、刃之進」
我が意を得たりとばかりに凄みのある笑みを浮かべ、魔理沙は再度問うた。
『……よかろう。おぬしにつけば我が望み、必ずや成就されようぞ』
直後、地蔵菩薩の頭がふわりと浮き上がり、魔理沙の正面で停止したかと思うと、その両目から黒々とした影を噴き出し、影はひとしきり渦巻いた末に茫洋とした人型をなした。
『我が七百年来の宿望は回天。偽政に膿んだこの天を、正し回らすことにあり』
「よし、ならばおまえは今日から私の従者だ。ついてこい!」
『承知!』
止みかけていた風が、再び木々を揺らし始めた。