兎と足枷
僕は森の中にいた。木々の隙間から僅かに差す細々とした明かりを頼りに、黙々と草木を押し分けながら進んでいた。
まるで海底のようなその景色の先に一匹の兎がいた。足にはきつく絞められた足枷。痩せ細った彼の回りには一片の草さえ生えていなかったし、ほとんど身動きの出来ない彼の目は干し葡萄のようにカラカラに乾いていた。
あとは餓死を待つばかり。僕にはそんな風に見えた。
「ここまでが夢の話なんだ」
放課後の静まった教室の中で僕達は話していた。
梅雨に入ってからまだ間もないが、今夜辺りに一雨降りそうだった。たまりにたまった埃のような真っ黒い雲が僕達を観察していたからだ。
「その兎を見て、君はどうしようと思ったの」と間を置いて、彼女は尋ねた。
「正直なところ、どうするのが一番いいのか分からないんだ。彼は生きたがっているようにも見えたし、死にたがっているようにも見えた。足枷はとれそうに無かったし、とても僕には抱えられそうになかった」
目が覚めてからどうすれば僕も兎も幸せになれるのかと考えていた。たかが夢の話じゃないと言われればそこまでなのだが。
悩んだ僕を見かねて、彼女は言う。
「夢のなかの話だったら、その状況を変えてみたらどうかな。うさぎは私。あなたはどうするの」
少し考えて僕は答える。
「どうしても君と帰る」
「だったらそうすればいいじゃない」
即答されて呆気にとられた僕を見て彼女はふうと溜め息をついた。真剣に悩んでいた自分を一瞬で忘れてしまうほど、彼女は爽やかだった。
彼女はそろそろ帰りましょうと言った。黒い雲がごろごろと僕達を急かしているようだ。今にも雨が降りだしそうな様子を見て、くだらないことで彼女を引き留めてしまったことに申し訳なく感じた僕は、ありがとうと伝えて帰路に立った。
幸運にも彼女が家に帰るまで雨は降らなかった。
その日も僕は夢を見た。
昨日見た夢と状況がかわっていることに、僕はすぐに気付く。
土砂降りの森の中。
横たわる彼女。
足枷は鎖になって彼女の足を繋いでいた。
劇的に違うこの状況に夢のなかの僕は酷く困惑した。爽やかな彼女の面影は微塵も無く、唯一の救いは彼女が口を利けることだけだった。
僕は泣きそうになっていた。どうしても帰ると啖呵を切った自分を思い出して、ひどく情けなく感じた。
重くなった足をなんとか彼女まで運び、彼女に声をかける。土砂降りだというのに瞳は乾いていた
。その様子は昨日の兎を僕に思い出させた。
「僕はどうしたら君と帰れるんだろう」
そんな呟きさえ、大自然の打楽器隊は掻き消してしまった。口が利けたところで、聞き取ってもらわなければ意味はないのだ。
僕はどうしようもない気持ちでいっぱいだった。
しかし、あることに気付いた。彼女の口が僅かに動いている。聞き取ることは出来なかったが、確かに何かを伝えようとしている。
僕はそれをどうにか受け取ろうと、すがる思いで彼女をじっと見つめていた。
数分の時を経てようやく分かったとき、僕は悲しくて仕方がなくなった。彼女が伝えたかった言葉はこうだ。
わたしはいきたくない
それが行きたいなのか、生きたいなのかは分からなかった。どちらにせよ帰ることを拒んだという事実だけが僕にのしかかってきた。僕は彼女の手を痛いほどきつく握り締めて、今の気持ちを伝えようと足掻いた。
言わないでほしかった。伝えないでほしかった。
溢れる悲しみを全て掌に込めた。
しかしその言葉が伝わったと分かると、彼女はぴくりとも動かなくなってしまった。すでに死を選んでいた彼女にとっては、身動きをとることさえ無意味だったのだろうか。
そして僕は目を覚ます。
大雨に打たれたかのように汗をかいていたが、酷く憂鬱な気分だった僕はそのまま何もせず朝日を待った。
その日彼女は兎がどうなったかを僕に尋ねた。
僕は助けたよとだけ答えて、ひたすらに押し黙った。
それでもあの時の兎は乾いた瞳で僕を見つめるばかりだ。彼も彼女と同じことを思っていたのだろうかと兎を呪った。
いつしか彼女から距離をとるようになってしまった僕は、再び夢の中で兎に出会う。
足枷をした兎は相変わらず遠くを見つめるばかりだった。それを見て無性に腹が立った僕は、足枷を抱え兎の上に落とした。どうして、という声が聞こえた気がした。
連れ帰れなかった彼女と連れ帰らなかった兎。
いつのまにか僕の足にも冷えた鎖が繋がれていた。それが兎の怨念か、彼女の呪いかは分からなかったが、身動きの出来なくなった僕は豪雨を待つことにした。
夢の彼女が結局あの後どうなったのか知る由もなく、同じ結末を辿るのかも分からない。
繋がれた足を眺めながら、僕は生きて彼女に会いたいと願うのだった。