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第40話 釣り嫌い

作者: 山中幸盛

 名倉憲也には五歳の息子がいる。その諒太が保育園で園児から自慢話を聞かされ、魚釣りに行きたいとせがんできた。憲也は高校時代まで名古屋市郊外に住んでいたので、まあ、平均的な釣り好き少年だった。実家の物置にはバス釣り専用のリールザオと、ハゼや小鮒を釣る時に使った渓流ザオが捨て切れずに残してある。

 妻の英理子の場合は一度たりとも釣りをしたことがない。結婚してまもなく諒太を妊娠し、共働きなので出産、育児、保育園への送り迎えなどで慌ただしく過ごしてきた。それに、本を読むことが好きなのでどちらかといえばアウトドア派ではない。きめ細かい白い肌が自慢なので、外出するとなると日よけ止めクリームを念入りに塗らなければならないし、帰宅してからも手入れが大変なのだ。それでも諒太が可愛いので、釣りに連れて行くのはやぶさかではない。

 二十年ぶりの釣りに憲也は張り切って行き先を検討した。妻と子が一緒なので第一に安全な場所、第二に公衆トイレが整備されている場所を探した。職場の釣り好きから「初心者はまずハゼ釣りから始めろ」とアドバイスを受けて選んだのが知多半島にある半田亀崎港だった。憲也もかつて庄内川河口までハゼ釣りに行って少なからず釣れた経験があるし、ハゼは唐揚げにすればなかなか美味な魚だから。

 七月のうだるような暑さの中、隣接する海浜緑地公園の駐車場に車を駐めて亀崎港に向かった。さすがに県下でも名高いハゼ釣りポイントだけあって、海岸に出たとたん釣り人がずらっと並んでいる。子供連れの場合は海水を入れたバケツを置いていてほとんどのバケツに数十匹のハゼが泳いでいる。一人の老人がハゼをクーラーに入れる場面に通りかかったのでのぞいてみると、牛乳パックで作った自家製氷の脇にハゼがびっしりひしめいている。憲也は声を掛けた。

「すごいですね、百匹以上はいそうだ」

 老人は曲がった腰を伸ばし胸を張って応える。

「朝六時前から釣っとるでね、今日は少ない方だ」

 なるほど、妻と子をせかせて精一杯早めに出てきたつもりだったがすでに九時を回っていて、立錐の余地がないほどに釣り人がひしめいている。この人達はいったい何時に家を出てきたのだろう?

 結局、漁港まで行ってようやくサオが出せる場所にたどり着いたのだが、しかしここでも小さなハゼが面白いように釣れた。港内に係留してある漁船と漁船の間にエサを落とすと、干潮の時にはハゼがエサに食いつくところがつぶさに見て取れた。憲也は諒太につきっきりでハゼ釣りのイロハを教えながらも二人で三十匹以上釣り上げたし、英理子もタイミングが遅すぎるせいでほとんどのハゼがエサを喉の奥深くまで飲み込んでいたが一人で二十匹以上は釣っただろう。漁船を係留してあるロープに二度も針を引っかけて外すのに難渋したが、三人とも満足のゆくハゼ釣りだった。


 ところが、家に帰ってからが大変だった。英理子は一息つく間もなく、洗面台の鏡の前に陣取って肌のケアに入る。洗顔料は良く泡立てて泡を顔の上で転がすように優しく洗う。泡を肌に乗せている時間をいつもの半分くらいの時間にし、そしてすすぎの回数はいつもの倍の八回だ。化粧水は普段から五回繰り返すと決めているので、灼熱の太陽の下で長時間肌を傷めた今日の場合は十回ほど取り出してはつけ、また取り出してはつけと、じっくり時間をかけねばならない。

 一方、憲也は缶ビールを飲みながら釣ってきたハゼを台所でさばく。帰りの車の中で熟睡して元気を取り戻した好奇心旺盛な諒太も、椅子の上に乗って父の手元をのぞき込む。

 まな板に七、八センチのハゼを載せてササッとウロコをそぎ取り、腹を割って内蔵を取り除いてザッと流水で洗ってキッチンペーパーの上に載せて水を切る。最初のうちはぬめりで手がすべってぎこちなかったが、だんだん慣れてきて手際良くなったものの数が多いのでなかなか終わらない。そのうち諒太が飽きてきて公園に遊びに行こうと父を誘う。しかし、途中でやめるわけにもいかないので作業を続けると、やがてあきらめてテレビゲームを始めた。

 憲也がやっと全部のハゼの調理を終えてまな板を洗っている時に、肌の手入れを終えた英理子が台所にやってきた。あとは唐揚げ粉をまぶして油で揚げるだけなのだが、二人とも疲れがどっと出て来ていたので、ハゼを冷凍庫に収め、この日の夕食は近所のファミレスに行くことと相成った。

 翌朝、英理子は鏡を見て驚いた。前日あれほど念入りに手入れをしたというのに、鼻の両側と顎の先にニキビが出現していたのだ。ショックだった。昨夜のファミレスで、夫と諒太は来週は三時間早く起きて今度はサオを三本用意しよう、などと意気軒昂だった。まずい、これはまずい展開だ。何とかして、釣りに行かずに済む口実を考えねばならない。 

 月曜日の朝、英理子が出勤してニキビを作ったことの言い訳話をしていると、地獄耳の男性社員が口を挟んできた。

「そんなに釣りに行きたくないのなら良い方法があるよ」

 英理子が「どうすればいいの?」と小首を傾げると、男性社員はニコニコ笑いながら提案した。

「一度、子どもを海に突き落とすだわな」

 なるほど、それは名案かもしれない。


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