始まった後の物語
森の奥深くに存在するその屋敷は、一人の女性が主として住み、それを執事服の男が支えていた。
屋敷の奥に位置する主寝室、その真ん中に置かれているベッドで主たる女性が健やかな寝息を立てて眠っている。そこへドアをノックし、中に執事服の男が滑り込むようにして入り、女性に近づいていく。
「マスター、起床のお時間です」
「……あと、五分……」
「駄目です」
毛布を引き剥がそうとする執事と、引き剥がされまいと抵抗する女性。しばらくその攻防が続いて、最初に諦めたのは執事のほうだった。
「仕方ありませんね。実力行使に出させていただきます」
執事はベッドの上に乗り込み、主である女性の上に覆いかかる。そして顔をゆっくりと近づけて女性の唇を己のそれでふさいだ。そっと彼女の鼻を白い手袋で包まれた手で覆いながら。
しばらくそうしていると女性の腕が持ち上がり、執事の背中をばしばしと勢いよく叩き始める。執事はそれを受けてようやく女性から唇と手を離す。
「〜〜〜〜!! あんたは私を殺す気ですか!?」
「まさか、そのような」
濡れた唇をぬぐい、女性に顔を近づけてその手に忠誠を誓うように口付けた。
「……俺の身も心もあんただけのものだ」
執事は蕩けるような笑みを浮かべて囁く。それがきっかけでその場の空気が朝には似つかわしくない濃密なものに変化していく。だが。
「もう目ぇ覚めたから朝食で」
「マスター……」
がくっと執事の肩が落ちる。
「私を起こしに来たのでしょう?」
小首をかしげて問う女性に、執事は小さくため息を吐いて用意してあった当日分の服を女性の横に置いた。纏う空気も最初の礼儀正しい執事の空気へ。
「本日も中庭になさいますか? 雨が降りそうですが」
「なら温室で。みんなに小さくなって来てって言っておいてください」
「かしこまりました」
「――ねえ」
「はい」
「おはよう」
女性は執事の頬に朝の挨拶とばかりに唇を押し当て、執事もまた同じように返してから寝室を出て行った。
魔法でつけられた明るい光が温室内を照らし、植物が育つのを手助けしている。
光あふれる温室の中央に備え付けられたテーブルに主である女性が座り、綺麗に盛り付けられたモーニングセットを食べている。
女性の向かい側で執事が同じように朝食を食べている。
普通の屋敷でなら考えられないことだが、ここではそれが当然だった。
「マスター、本日はどうされるおつもりで?」
「……特にいつもと変わらずです。あなたもそろそろ執事を脱いで本職に戻ったらどうです? そこで部下が泣いてますよ」
女性が指差す先には水晶球がおいてあり、そこからしくしくと泣く男性の姿が映っている。
『へぇぇい゛ぃぃぃがぁぁぁぁぁ……』
「あー……うぜぇ」
「戻ればいいじゃないですか」
「戻ったら戻ったでうぜえ。大体戻ったらしばらくマスターに逢えなくなるじゃねえか」
「私はあなたのマスターになった覚えはありません」
「契約は結んだだろ」
「無理やりですけどね」
「契約は契約だ。諦めろ」
「まったく……魔王陛下の肩書きにふさわしい俺様っぷりですね」
「惚れ直すか」
「寝言は寝てから言ってください」
『へぇぇい゛ぃぃぃがぁぁぁぁぁ……』
「うるせえ。黙れ、マエマル」
『いい加減帰ってきてください! 帝国が新しく勇者を召喚したんですよ!?』
「確かにその気配はするが、マスターよりは弱いから大丈夫だろ。マスター以外に負ける気はしねえ」
『それは、まあ、そうですけど……ですが神の加護は侮れません』
「面倒くせえなぁ……俺はマスターの執事をするっつー役目があんだよ。マエマル、お前が魔王やっとけ」
『無理です!! なんて無茶振りするんですか!』
「マジでうるせえ……」
「――シエル」
「っ」
「マエマルさんが可哀想だから戻ってあげて。用が終わればまたこっちに来ればいいでしょう。私はここにいるのだから」
「……わかった。すぐに救世主殺して戻ってくっから待ってろよ、マスター。いや、アキラ。俺の片翼」
シエル=ブラッディダーク=ディアブロス。魔族が治める魔皇国の皇帝にして、邪神の愛し子。聖神の愛し子たる救世主の鏡の存在。
アキラ=ヒムロ。日本名、氷室晶。男神に間違って救世主として召喚された存在。役目を放棄したために世界は混乱の途を辿っている。
聖神と邪神も対の存在であり、どちらかが消滅するということはない。そして、その愛し子である魔王と救世主も一定の周期でそれぞれ現れるのだ。
基本的には救世主が勝ち、魔王が負けるという構図で戦いは終了する。時々逆転もあるが。
しかし、今回のように召喚されながらも役目を放棄した者はいない。
もともと晶は聖神の片割れである男神に間違って召喚されたのだから仕方ない。もう一人の聖神である女神の許可も取って、晶は森の奥の専用の屋敷でのんきに暮らしていた。彼女が持つ力はまさに救世主にふさわしいほどのチート。
そんな彼女と魔王が出会ったのは、魔王であるシエルが役目を放棄した晶に興味を覚えて会いに来たことがきっかけだった。
晶には彼が自分に見も心も捧げるほどの何かがあったとも思えず、原因も思いつかない。彼女にとって彼が主従契約をして執事にまでなって尽くす理由がまったくわからなかった。彼も理由は何も言わない。
それでも、この空気が心地いいため聞くことはしない。
「じゃあ行ってくる」
ふわり、と啄ばむようなキスを晶に落としてシエルは消えた。
晶は不意にどこか寂しいような感覚を味わい、自分で自分の腕を軽くさする。それを慰めるように近くで丸まっていた魔獣が擦り寄ってくる。
「ありがとう。大丈夫よ」
微笑みながら毛並みと首元を優しく撫でる。魔獣はごろごろと喉を鳴らしながら、うれしそうにしていた。
「シエル、怪我しないでよ……」
数日後、無傷で笑顔で屋敷に帰ってきたシエルがおり。彼は新しい救世主についてこう語る。
頭が弱い、思い込みが激しい、男を侍らしている、無駄な正義感、などなど。
それを聞いた晶はテンプレートどおりの女子高生救世主なんだろうな、とシエルに抱きしめられながら思うのだった。
『始まる前の物語』続編です。
最初はわりと王道に皇帝とか王様とかの恋愛エンドを考えてましたが、ヒロインは王道ではないので相手も非王道。
……いや、今は魔王ルートもありっちゃありだからこれも王道なのかな?
でも悪魔な執事はいるけど、魔王な執事はいないよね。