2/勇者さま
誰かの腕の中だと気付いた。
またどこかでうたたねでもしていたのだっけ?
「ヴィサ?」
私を抱き上げるのはヴィサくらいのものだけど、ヴィサの長くて鬱陶しい白髪が顔にかかってこない。
「ん? お目覚めかな、お姫様」
見たことのないような屈託のない笑顔を浮かべた若いオスと目が合った。
私を抱き上げるなんて何者?
けれど、その男の頭上から低くて硬質な声がした。
「ジェンニ、早くお前も手伝いに来い」
「そうしたいのは山々なんですが今このお嬢さんがお目覚めになってしまったもので」
ジェンニと呼ばれた間抜けな笑顔のオスの人間はへらへらと喋った。
声の主を探して視線を傾けると、魔界にはけしてない鮮やかな青葉色の瞳にぶつかってまた体中が泡立つかと思った。
さっき隙間から見た人間!
オレンジに近い金髪、猛々しい体躯に対して穏やかなで涼やかな目鼻立ち。
大剣を軽々と扱える太い腕も逞しい背筋も引き締まった足腰も全てその人間自身の努力によって鍛え上げられた輝きを放っていて、人間が崇めている神とやらはこんな姿をしているのかもしれない。
ずっと見ていたいと思ったのに不愉快な邪魔が入った。
悪戯好きの悪魔が好みそうな太り気味の人間が唾を飛ばしながら話しかけてきた。
蝦蟇にでも変えてしまおうか。
「勇者様! どうぞ我が家までお越しくださいませ。ほんのあばら家ではございますがご出立までぜひごゆるりと」
* * * * * * * * * *
その言葉を聞いた時の衝撃はこの人間を見た時の衝撃に劣らなかった。
昔語りで聞いたことがあったじゃない。
人間は魔王を殺す人間を勇者と呼ぶって。
この人間は私を殺しに来たの?
この人間の大剣にかかって血を流して死ぬの?
とても……
とても魅惑的な響きじゃない?
今すぐに殺されてしまうのはもったいないけれど、この人間以上に興味を持てるものはきっと見つからない。
これは魔王の直感だから限りなく確かなこと。
だから、最高に楽しんでから最高なクライマックスを迎えたらいい。
ああ、そうだ、もしも途中で飽きてしまったら勇者を殺してしまえばいい。
それもおもしろい。
この人は他の人間と違って強いのだし。
どう転んでもきっと死ぬほど楽しい。
人間はこれを一目惚れと呼ぶことを、私は知らない。
* * * * * * * * * *
私が楽しい旅の計画を立てているあいだに蝦蟇の話は終わっていた。
「それで、ジェンニ。お前がさっきから抱えているのはどこの娘なんだ」
勇者さまの眼差しを一身に受けて体がむず痒い。
「着ているものは上等だし、髪は絹みたいな手触りでただの村娘には見えませんよねえ」
「大体なんでお前はずっと抱えたままなんだ。怪我でもしているなら医者に見せろ」
「あんなに怖い目にあったのにほっとけないじゃないですか。今だって隊長の目つきに怯えてますよ、かわいそうに」
「降ろせ!」
誰かに見られて身が震えるほど楽しいなんて初めて!
低く鋭い声にぞくりと戦慄が走ってなんだか気持ちがよくなってきた。
「ほら、隊長! そんなに怒鳴るから震えちゃってるじゃないですか」
「うるさい。お前の声の方がよっぽど喧しいだろう」
眉間によっているシワの線を見ているのもいいけれど、そろそろ黙っているのも変かもしれない。
それよりも、なぜだろう。
私ってば、魔王なのに勇者さまを目の前にすると自然に傅きたくなる。
「あの、勇者さまは魔王を倒しに行かれるのですか?」
「俺は勇者じゃ…」
「めっちゃ可愛い! 俺も勇者様!って呼ばれてえ!」
この小うるさいハエが!
本当にハエにしてやったら勇者さまは喜ぶかな。
でもまだここじゃ魔界に近すぎて魔力を使ったら確実にバレるよね、残念。
ここでバレると勇者さまを魔城まで連れて行けなくなっちゃう。
それにヴィサも人界でむやみに魔力を使うと都に連れて行かれて魔術学校という退屈なところに入れられるから気をつけるように言ってたし。
「魔王を倒しには行かないんだよ。俺たち視察の途中でこれから王都に帰るとこ」
「ジェンニ、部外者にペラペラ余計なことをしゃべるな」
「王都に…!?」
「王都、行ったことある? 綺麗なとこだよ」
なんてこった。
魔界の目前で魔王を無視して帰るなんて!
どうにかして都までついて行かなきゃ…ん?
都…
あ。