16/カタルシス
贄の池は一見無害な池(というよりもむしろ水たまり)にしか見えない。
だけどこの池は人界に繋がっていて、人間が悪魔の召喚をしたり、生贄を捧げる時に使われる。
この池の水に触れると、魔力の低い者は心地良い気持ちになって抵抗できないままに意識を奪われ、贄として強い魔族に食われることになる。
最も私みたいな最強クラスの魔族にとっては毒にも薬にもならないし、人間の方も私が生まれてからは一度も使っていないようなので完全に忘れ去られた存在だ。
そんな池の前に来たのも、魔城を余すところなく修復しきってしまって他に手を入れるところもなくなってしまったからだ。
ついでにヴィサから逃げようと思ったのになんでついてくるわけ。
「陛下におかれましては、もっと魔王らしく振る舞っていただかないと」
最近の口癖を聞き流して池の周りの草をむしり取っていたら、池の真ん中に何かが浮かんでいるのに気付いた。
「あ!?」
あれって人間じゃないの?
「ぎゃーー!!! 陛下!! 何をなさるんです!」
ザバザバ池に入って浮遊物に近付いてみるとやっぱり人間だった。
栗毛色の毛をした…。
「ジェンニ?」
勇者さまもいないし服も着てないけど、池の中で気持ちよさそうに寝こけているのはジェンニに違いなかった。
このまま眠らせても何の問題もないけど、一緒にいたはずの勇者さまのことは気になる!
バシバシと容赦なく顔をはたくとようやくジェンニはむにゃむにゃと不明瞭な声をあげだした。
意識を引き戻すように叩くことはやめずに岸まで連れて行き、池の水気を飛ばして目を覚ますまで叩き続けた。
「…リュリュちゃん?」
「んなー!? 陛下に対してなんて口の利き方を!! その上陛下の御前でなんという格好!! 服はどうしたというのだ!!」
「勇者さまは!!?」
ジェンニは自分の状況をいっこうに理解しないままぼんやりしていて、こっちはイライラが募るばかりだ。
ようやく口を開いたかと思えば「なんか…すごい気持ちよかったんだけど」ときたもんだ。
「そんなに気持ちよくなりたいんだったら一生池で寝てれば!!」
「なんでそんなに怒って…あれー、隊長?」
そうだよ、それ!!
「俺はたしか魔族を召喚する生贄にされて…」
贄の池のせいで頭がふにゃけたままらしく、全く埒があかない。
「ヴィサ、ちょっとでかけてくる」
このまますぐに飛び込めば多分召喚の儀式をやっているところに辿り着くはず。
「なぜ陛下がわざわざ行かれるのです。待っていればその者が贄として送られてくるのでしょう? そのまま下僕になさればよいことではありませんか」
贄として、下僕として、勇者さまが魔界に来る?
「いや! 勇者さまは勇者さまじゃないと嫌なんだってば!!」
ヴィサは怪訝な顔で、ジェンニは驚いたような顔で私を見た。
でも誰にどんな顔をされようと私は魔王だからやりたいようにやる。
私はジェンニを連れて池に飛び込んだ。
* * * * * * * * * *
置いてきたつもりだったのに、ヴィサは勝手についてきていた。
「ヴィサってば、なんでついてきたのよ」
「陛下! 下等生物などに遜るなど嘆かわしい!! おやめ下さいませ、我が陛下」
「…陛下? つーか、ヴィサ?」
半分くらい寝ぼけたままのジェンニは、むちゃくちゃ心許ないカッコなんだけど、リュリュちゃん絶対に見たよなコレ、などとぶつぶつ言っていたくせに肝心な話は聞いているらしかった。
「貴様のような下等な生き物が気安く触れることなどできぬお方だ! 我が魔王陛下がどんなに愛らしく魅力に溢れていようと貴様なぞ不埒な思いを抱くことさえ罪深く不敬に当たる……」
「魔王、陛下? え!? 魔王? 魔族の、王?? ヴィサが!? リュリュちゃんが!!? っていか…えええっ!!!??」
私はもう面倒くさくなって二人とも無視することに決め込んで術の跡を辿ることに専念した。
終着地に辿りついて、池の水を割るように私たちはそこに躍り出た。
まさか躍り出たその目の前で、今にも勇者さまが首を落とされようとしているとはさすがに予想しなかったけど。
でもそんなの関係なかった。
私の胸は震えて、体もうまくいうことをきかなかった。
勇者さまの胸に飛び込んでその熱と匂いとを深く感じるだけでこんなに気持ちがいい。
あんなに悶々としていた気持ちも全て吹っ飛んで消えてしまったみたいだ。
胸の震えは止まらないけど、それすらもただ心地良い刺激でしかなくて、ひたすらあたたかくて気持ちよかった。