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人は、あまりに他人を特別視してはいけない。
それが栗栖崎周平の実感だった。
その他人が、一風変わっているとなると、さらに事態は深刻で、ときどき滑稽にもなる。
雪男と名乗る人物は、雪深い日本のとある地方で老人と小学生の住まいに居付き、その地域に馴染み暮らしていた。
(……おまえはどこででも生きていけるんだな)
かれのこの逞しさはどうだろう。
特別な特技があるわけでも、愛想がいえるわけでも愛嬌があるわけでもないのに。
このことばにできない力を、北川がいう存在に当てはめて考えてしまう。
(どうすればいいんですか)
また、だれとも知れないまま祈る。
せっかくかれと結んだ縁を断ち切ってしまった自分に何ができるだろう。
(何もできない)
でも、こうして待つことはできる。
田舎の小学校のまえで立ち続けることはできる。
喫茶店に通い、帰宅するかれを見送ることはできる。
足元から冷気が立ち上ってくるが、行方不明でいた時期のことをおもえば、いまは居場所がわかっている。
こういう形でさえ、傍にいることはできる。
遅々たる歩みが、いずれ目的地に到達するように、行為を重ねていくことを栗栖崎は考えた。研究は実験の試行錯誤の繰り返しだ。だがいま試されているのは、頭脳の優秀さではない、栗栖崎周平というひとりの男の人間性なのだろうとおもう。
文治が振り返り、以前のように自分を受け入れてくれるのかどうか、そんな奇跡は起きるのか。
だが、こうして少しでも傍にいなければ、とうてい奇跡などおきようもない。
*
奇妙なメンバーと過ごした聖夜が更けていく。
こたつと着込んだコートのあいだで露出している耳が、痛いほどの寒さのなか栗栖崎は眠りに落ちていた。
人間より自然や動物にたいしてのほうが優しい兄、周太が文治に犬との接し方を教えていた。
「犬は群れで生きる動物なんだ。だから面倒でもこちらがよい上位者としてリードしてあげないといけない、そうしないと犬は混乱して人間とうまく暮らしていけなくなるんだよ」
文治はベランダのコンクリートのうえで寝そべる雑種の犬をみろしていた。
「周太さん、でもそんなのおかしいよ。犬は自分とこいつどっちが偉いかなんて見てないとおもうよ。こいつは自分に優しくしてくれるかな、だとおもうけどな」
周太は、どこか野生の無防備さを抱えている文治にもよく優しい一面をみせた。
「ブンちゃんがそう感じるならそれでいいよ。ブンちゃんはおれがみているかぎり、おれの愚弟たちより動物との付き合い方がわかってるからな」
あいつらはわかっていないのだ、と。
そこで周太は背後でのっそり立っているすぐ下の弟に気づくと、片方の眉をあげて目の表情だけでいった。
そう、でも、とくにおまえはわかってないよな。
翌日未明、栗栖崎のほろ苦い夢は破られた。
**
「栗栖崎、じゅうぞうをたすけてくれ」
十二月末の冷えた病院の、ひとけのない廊下の片隅で、栗栖崎はずっとききたかったことばをきいた。
きいた耳がじんじんするような、熱いことば。
しかし疑いは晴れなくて、元いたベンチに並んで座ってから、おもわず自分のことをわかっているかたずねると、文治はちょっと眉根を寄せていった。
「おまえ、栗栖崎だろう」
黒い瞳が、髪の毛を乱したままの栗栖崎を映していた。
「ああ」
ちゃんと自分をみてくれるその瞳。
自分が何を手放し、そして何を取り戻したのか、栗栖崎にわからせてくれる瞳だった。