09
まるで他人の顔をしていた。
おまえは誰だ? 黒い目はそう語っている。
権藤雪男という名前まで持ち、髪を長く伸ばし、古着をきて喫茶店でアルバイトをしていた。約三年ぶりにみた文治は男らしくなっていた。
栗栖崎をみつめる目は冷え切り、嫌悪さえ浮かべている。
加西文治は栗栖崎周平のことを忘れ去り、元に戻ってくる気配などまったくない。
友好な会話さえできない。
宿泊していた磯路川の民宿のようなホテルの一室で、栗栖崎は失意でことばもなく、眼鏡をはずし浮いてきた涙を袖でふいて、また眼鏡をかけた。
窓の外は真っ暗だ。山陰と空の区別は星のまたたき。
室内灯は消したままで、鏡の電灯だけをつけその前に腰掛けた。
憔悴した若い男が映っていた。
学問の塔にもどればだれからも大歓迎され、賞賛され、研究費用と部屋を与えられる身分を投げ捨て辺境地にきてみれば、切れるような寒風より冷たく、凍りつきそうな拒絶にであった。
(文治……)
失踪人は生きていた。
この先、ときどきその姿をみにくることはできるだろう。
自分に許されることなどそれくらいだ。
だが、あの姿、あの声と形、あの動作と表情をみてしまえば、ときどき見るだけでいいなんてとてもおもえなかった。
揺り籠のなかの丸々とした赤ん坊を栗栖崎にみせながら、薄いピンクの部屋着に白いゆったりとしたカーデガンを着た北川は産後でいよいよ美しさが増していた。そんな北川がぽつりといった。
「この子は妖精の子供なの」
栗栖崎ははっと顔をあげた。そのことばだけで全てが了解できた。
ともに北川の実家を訪問していた能見は紅茶カップをソーサーにもどしながら、妖精? と首を傾げていた。
(どうしたらいいんですか)
だれに祈っていいのかもわからず、ホテルの一室でひとり、栗栖崎は鏡のまえで両手を組み、額をあてた。
妖精を取り戻すなんてこと、いよいよどうすればいいのかわからない。
*
あきらかに邪険にされながらも、田舎のさびれた商店街の小さな喫茶店に、栗栖崎は通った。
夜は栗栖崎がここに到着するまえまで、交替して通っていた北川と能見に定期連絡をする。
『どんな具合?』
かの女の電話の向こうから赤ん坊の声が響いていた。
「朝の挨拶にも返事をしてくれない」
『そこまで露骨というのは、反対にクリスを意識してるのよ』
「……だったらいいんだけど。純子ちゃんは元気?」
『元気よ。ミルクもたくさん飲むし、よく眠るし』
ホテルの部屋の窓際で、黒い影の塊となった山の連なりをながめながら、恋人の娘を産んだ母親と会話をかわす。
北川に感じた激しい苛立ちと怒りは、いまはもうなかった。
かの女とは加西文治という、平凡な顔をしているが、周囲の人にとってはとても特異な人物を挟んで対峙している。
いまでは共同戦線を張り、おたがいにとり特別な人を探し、取り戻そうと行動している。
『クリス、わたしは純子の父親を探して取り戻したいわけじゃないの。わたしが壊してしまったふたりの仲を取り戻したいの。ブンちゃんを、近くでみていたいのよ』
北川敦子は脆いのか強いのか、栗栖崎にはわからない。
ただ、あまりこういう女性は世にいないだろう。
「また電話するよ」
そういって通話を切った。
初冬は過ぎ去り、雪が降り始める。
この地方の雪は積もる。世界は一変していく。
願わくば、ひとの心も。