08
相談できる相手はひとりしかおもい浮かばなかった。
その相手は、都内のとあるバーを指定してきた。
遅れて店に入ってきた能見純一は、栗栖崎の顔を一瞥するなりいった。
「憑き物が落ちた顔をしている」
地下一階の瀟洒なバーは、三十代前半のバーテンがシェイカーを振っていた。
女性歌手の生ボーカルとピアノの伴奏が決まった時間にある。二十時の回が終わったばかりだった。
照明の絞られた隣と隔てられたテーブルブースで、スーツに眼鏡をかけたいかにも硬い職業の男と、スーツが着慣れない眼鏡で長身の男が向かい合って座った。
「こういう店、よく来るのか」
栗栖崎はきいた。
「おれはおまえとは違って、大学へいって勉強だけをしていたわけじゃないからな。何を飲んでる?」
「ブランデーのロック」
飲めないわけじゃないが酒を嗜まない栗栖崎は、注文をきかれてとっさに目についたものを頼んでいた。
「美味しいか」
「いい香りがするな」
「一気に飲むなよ、舐める感じでな」
そう忠告した能見は、ウエイターにマティーニを注文した。
華奢な脚のグラスが届くと、それぞれに酒を飲み、しばらく沈黙が落ちた。
初夏にあわせて、まばらな客たちの装いも明るく軽い。
「北川と加西の子供は女の子だ」
ふいに能見がいった。
中央ステージの造花に飾り付けられているセピア色の鈴をみつめていた栗栖崎は、ゆっくりと視線をうごかした。
そう、では能見は出産に付き添ったに違いない。
なんのてらいも裏もなく、能見は無償でそういうことをする。
「名前は?」
グラスをテーブルに置いた能見がはじめて顔をしかめた。
「どうした」
「いや……おれはやめておけといったことを忘れないでほしいんだが」
「だから何だ」
「純粋の純に子供の子で、純子だ」
栗栖崎の手のなかで、氷がグラスに当たった。
目の前の人物をみつめると、能見は視線をさけるように顔を横に向けた。
「なるほど」
おもわず声がでる。
能見は険の走った視線をよこしたが何もいってこなかった。
なるほど、北川敦子がだれをこの世でもっとも信頼しているのかがよくわかる。
北川と文治の子供。
「…………かわいいんだろうな」
襟に指を入れで緩ませて背中をソファに預けた能見が、ちょっと見下したような顔をした。
「世に生まれてくる赤ん坊でかわいくない子なんているわけないだろう」
「まあ、それはそうだが」
だがその子は間違いなく、栗栖崎にとっても特別な子だった。
「北川はぼくにも会わせてくれるだろうか」
「相談したいことっていうのはそのことか」
国家公務員となった能見は新人として激務の日々を送っている。
目の下に隈をつくり、くたびれたようにソファに身を預けていた。
それでも、その眼鏡の奥の瞳は高校時代と変わらない。
「――文治を探したい」
栗栖崎はグラスをテーブルの端に置き、両手をついて頭をさげた。
「能見、文治を探す手助けをしてほしい」
文治は風のように消えてしまった。
もはや栗栖崎の元から旅立ち、日は過ぎ、かれは愚かな同居人にして恋人のことなど忘れてしまっているだろう。
「見つけても、加西はおまえの元には戻らないかもしれない」
マティーニのオリーブを舌で遊んでいた能見はいった。
頭をあげた栗栖崎はまさに図星をさされてことばもなかった。
「だが、いいだろう。おれも加西の生死は気になっている。なんにせよおれが最後の目撃者というのは気持ちが悪いからな」
そういってちょっと息を吐くと、能見はにやりと口の端をあげた。