07
文治が自宅の部屋で無造作にパジャマに着替える、その裸の背中を正視できなくなったのは、加西文治が正式に両家の話し合いで同居するようになってからだ。
その自覚となった中学生ふたりの連絡済みの家出から、栗栖崎は胸のなかで文治に対する好意、友情と愛情が複雑さを帯び、性的なものへと変容していこうとしている情動を抱えていた。
あの事件以来、文治のほうも栗栖崎といっしょにいることを当然という言動をとり、その当人を嬉しがらせていた。
そう、ふたりは離れられない仲――。
***
長年おもいつづけ、身近で見守り手助けし、慈しみ、家を出てついに関係を結んだ恋人に手ひどく裏切られた物理学者は、その苛立ちと絶望をしゃにむに研究にぶつけた。
「ここのところの栗栖崎の気合は違う」
「そうだ、もう一歩だものな」
スタッフからはそんな声をきいた。
小学生四年生での出会い。
中学一年生での家出と自覚。運命の朝。そして同居。
大学生になって実家をでて、ふたりの暮らしにおける恋の成就。
順調な研究、前途有望な未来。
(…………なにがいけなかったっていうんだ……?)
髪も髭も伸び放題で緑ヶ丘サンハイツに戻っても、待つ人はいない。
居間のベランダへと続く窓をあけると、屋根越しに桜がみえた。
年明けに住宅地の喫茶店で能見とお茶をして決別して以来、栗栖崎がこの家に戻ってきたのは一度だけだ。文治のいない寒々とした空間に入る気にならず、研究所に逃げ出した。
数日後、実家を訪問した能見から文治が不在だと連絡を受けたのだった。
実家にも、サンハイツのマンションにも、友人宅にもいなかった。
文治は成人していたので、保護者の承諾なしに能見がてきぱきと失踪者届けを警察に届けた。
研究所に捜査員が尋ねにきたものの、男ふたりに女ひとりの痴情のもつれによる失踪として、あまり本気のみえる捜索とはいいがたかった。
(文治、桜が咲いてるぞ……)
もうほとんど研究は完成し、論文も英語で書き終え、イギリスの雑誌に原稿を提出してある。
喜びと充実ではちきれそうな時であるはずなのに、散る花びらよりも空虚でしかない。
紅茶専門の喫茶店で、北川の妊娠をきき、それに対して栗栖崎が煙毒のようなことばを吐き出している最中の、文治の顔。
口を小さくあけ、目をみらひき、じっと背の高い栗栖崎をみあげていた。
栗栖崎のことばにいいかえしてきていたのは能見だった。
赤ん坊が生まれたら見に行くと微笑みさえ浮かべていっていた様子から一変し、文治は驚いたような顔をして栗栖崎と能見とのやりとりをみていた。
黒い目は、本当か、どうしてなんだ、と語っていたように、いまならおもえる。
あのときは栗栖崎のほうこそ、本当なのか、どうしてなんだで頭がいっぱいだった。
いまはこうおもう。
――どうして自分は加西文治を失ってしまったのだろう。
あれだけ大切にしてきたのに、かれだけが特別だったのに。
そばにいるだけで、インスピレーションを刺激し、生の喜びを喚起してくれていた。
常識や既成概念などお構いなく、どこにだって風に吹かれるみたいに旅立ってしまいそうな気軽さがあった。
(…………ああ……)
ベランダのサッシに片手を置いたまま、栗栖崎は長い足を折りしゃがみこんだ。
おれはおまえと離れるのか?
喫茶店での別れ際、コートを受け取りながら盗み見た文治は、まじまじと栗栖崎をみつめていた。
黒いまっすぐな目がそう尋ねていた。
あのときまで、加西文治のなかで栗栖崎は確固たるものとして存在していたのだ。
けして文治のほうから離れようなどという意識はなかったのだ。
そう、北川とのあいだに子供ができたとしても、文治はいままでどおり栗栖崎とともにある自分しか意識していなかったのだ。そういう、既成概念にとらわれないかれを愛していたというのに、頭に血がのぼり、嫉妬のあまり許せなかった。わずらわしいことは全て切り捨ててしまいたかった。