06
最初に、夜の繁華街で因縁をふっかけられたのは栗栖崎だった。
「おい何、ひとの肩にぶつかっておいてシカトくれてんだよ」
長身のわりに厚みのない体格の栗栖崎は、あきらかに高校生以上であろう三人の男たちに店と店のあいだの細い道に連れ込まれた。
「何のことでしょう」
中学生とはおもえない落ち着いた口調で栗栖崎はたずねた。
いままでかれと接してきた年上や大人たちはインテリが多く、こういったことに対面したのは初めてのことだった。
「すましてんじゃねえよ」
「慰謝料払えっていってんだよ」
「いつぼくが加害者になったんですか」
そう自分が加害者なら、刑事責任(刑罰)の追及のほかに、民事責任(損害賠償)も課せられる。
しかしそもそもどこに事件が? そして弁護士はいつ立てたのか。
「いまついさっきだろうが」
「ぐだぐだいってごまかしてんじゃねえよ」
染めた髪ときつい洗髪料、発散される体臭、威嚇する無骨なジャケットのむこうに、繁華街の人波とネオンがみえた。
(文治はどこだ?)
そうおもったとき、ついに胸倉をつかまれた。
「金払えっていうんだよ!」
ああ、これが恐喝かとようやく栗栖崎が合点したとき、背後にまわっていた男が悲鳴をあげた。
「いてえ!」
「栗栖崎、逃げろ!」
「文治?!」
絡んできたひとりに肩からぶつかった文治は、たくみに体勢を立て直しさらに残りの向う脛を蹴り上げ、出来た隙に栗栖崎の背を押した。
「行け、走れ」
栗栖崎はようやく長い足をいかして路地を飛び出し、走り出した。
「文治」
「ついていくから、おまえは前みて走れ」
すぐそばで返事がきこえ、人波を縫い、怒号が追いかけてくるなか、栗栖崎は人生で一度もないほど必死で走った。
*
目の裏で、チカチカと白と赤と黄色の明かりが飛んでいた。
跳ねる呼吸。ぶれる視界。
(――文治……!)
手を伸ばして腕をつかもうとしたが無理だった。
「待てえ」
「なめてんじゃねえぞ」
「ぼっこぼこにしてやる」
ききなれない暴言を背後から投げかけながら深夜の街を逃げに逃げ、気が付くと寒さが骨に堪える早朝の、コンクリートの上だった。
「……栗栖崎、大丈夫か」
自分を呼ぶ声がきこえた。
冷え切った指はじんじんとした痛みを通り越し、もはや何も感じない。胸に抱えたであろう怪我も、いまは痛覚が麻痺しておびえなくて済む。
(おまえって、窮地に立つとなかなか果敢なんだな)
親しい友人の顔を薄暗い視野のなか探しながらそうおもった。
外界の照明が乏しいだけじゃなく、眼鏡がないことにもようやく気づいた。
(でも助かったよ)
普段はぼうっとしている癖に、危機に敏感な文治がいてくれて。
殴られ脅され財布を盗られるより、逃げた結果、怪我をしたとしてもよほどこちらのほうが気が楽だった。
「――ぶんじ……」
腕を動かそうとして、恐れていた痛みが胸を走った。
「あ……ああ……。った……いた……」
それは血が噴出したかとおもうほど生々しく、自分が人間で生きているということを実感させた。
息が詰まり、視界に斑点が散った。
「ぶんじ」
おまえは大丈夫か。ぼくたちは結構な高さから落下したとおもう。
ここはどこだろう。
好奇心は疼いたが、胸に走った痛みにひるむ。
それでも文治の顔をみたくて、なんとか体を仰向けにした。
「ぶんじ……」
もう意識も呼吸も止まりそうだ。
「うん。ここにいるぞ」
「ぶんじ……」
みあげると、求めた顔がみえた。
ぼやけているが小さく丸く、親しみが湧き出てくる顔に、おもわず腕をのばしひきよせる。
無事でよかった。文治が無事でよかった。かれは自分にとりとても大切なひとだ。
離れて忘れられていいような相手じゃない。
加西文治のなかから自分の記憶も存在も消えていいなんておもえない。
「ぶんじ……」
声がふるえる。
「ぶんじ……」
もう十分に思索に時間はかけた。自分はもう自覚をしなくてはならない。
夜の街を冒険したこの相棒を、自分はだれより愛しくおもっている。生涯、かけがえなく、親友以上におもっている。
「Aくんは、加西文治とともだちになるだろう」
出会った小学四年生の授業のとき、文治は宣託をくだすように発言した。
しかしいま、Aくんはともだちでは満足できない。
そのともだちがあまりに特別で、忘れられたくなくて、こうした痛みのなか、ただひとりほんとうに傍にいてほしい。
Aくんは、加西文治を誰にもわたしたくない。