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分身  作者: みやしろちうこ
番外編 存在しうる世界の幸福
45/56

05

 妊娠したとわかったとき、頭にはただひとりのひとしか浮かばなかった。ひとり暮らしをしている部屋のなかでぽつんと座りながら、すがるように電話をかけてみたものの、なにもいいだせない。

 そんな敦子に、携帯電話のむこうの男はいった。

「北川、高校のときにいったことばおぼえてるか」



 卒業を間近にひかえた日、おたがいとっくに入学する大学もきまり、たまたまふたりで学生服のまま喫茶店でお茶をしていた。

 そろそろこの学生服を着るのも終わる。

 そんなとき、ずっと会長とよんできた能見純一にいわれた。

「北川はときたま、加西のうえをゆく無鉄砲だよな」

「ブンちゃんがいつ無鉄砲をしたのよ」

「返事はそっちか」

 敦子はシナモンティーをすすり、カップをもどした。

「北川の血縁に冒険家っていないか」

 頬杖をつきながら敦子は能見の顔をみた。

「平凡な妻、平凡な夫、平凡な会社員、そうね、芸能事務所社長とカメラマンあたりが変わり種くらいかな。どうして、わたしって冒険しそう?」

「いや、すでに冒険してるんじゃないか。これからもその道をそれることはないだろう。その道そのものが北川という気がする」

 琥珀色したアールグレイをみつめながら、能見はいう。

 敦子は能見の白い額をみつめながら両手でカップをにぎった。にわかに血が顔にのぼってくる。

 いってしまいたかった。

 加西文治をとくべつにおもっている。

 たぶんかれにとてつもない夢をみている。

 しかしそれは夢とはいいきれない。

 望みようがない願いを抱いている。

 ――いつかすべてを壊す。

 敦子は唇を引き結んだまま、ティーカップに視線をおとした。

「べつに……ひきとめる気なんてなくてな。ただ、なにか困ったことがあればおれに話したらいいぞってこと、おぼえておいてくれ」

 かれは周囲にいる困ったひとを……。

「会長だめよ。そんなに、なんでも引きうけてたら会長がもたない」

「おれがなにを引きうけてる?」

 顔をあげると、目をぱちくりとさせた能見がいた。

(ああ、このひとはほんとうに)

 敦子は能見に笑貌をむけ、いつのまにかうなずいていた。


「会長……わたし……すごくうれしいんだけど、すごく……どうしよう」


 高校最後の日々での会話をおもいだしたとたん、敦子は口走っていた。部屋の壁にかざってある、額縁にいれたおじの撮影した雪山写真が目にはいった。視界が涙でにじんでくる。

 能見はもちろん周囲にいる困ったひとを見捨てない。それは敦子自身もふくまれ、損な役をひきうける。

「どうした?」

 能見に話したことにより、事態はさらに進み、懊悩と苦渋のなかで出産し、生まれてきた子が状況を変えた。

 それはおもってみなかった好転の数々。両親の軟化、栗栖崎の改心、つづく捜索、口座から引き落とされたことによる居場所の発覚。

 まるで生まれてきた子が魔法をかけてくれたかのようだ。

 それともかけられていた呪いを解いてくれたのだろうか。



 五月生まれの純子はすくすくと育ち、二才となった。

 あいかわらずことば数はすくなく、うごきももっそりとして緩やかだ。とくに先天的な疾患はなく、発育はいたって順調だった。そのまま見守るようにと医師からのアドバイスをうけていた。

 大事な子なので親として敦子の心配は尽きないが、目をみれば自分がどれだけささいなことで心配しているかとおもわされる。

 純子の瞳はとても澄んでいる。

 敦子は娘をベビーシートに乗せて、職場へとむかう。

 シングルマザーとなった姪をおおいに励ましてくれたおばは、敦子に事務所で働かないかと声をかけてくれた。赤ん坊を連れてきてもいいという好条件も提示され、ほとんど悩むことなく受諾していまにいたる。

 事務所ではそれこそ事務仕事から電話や客の応対、人手がないときはタレントの付き添いや現場へ同行するマネージャー、それにカメラマンのアシスタントまで勤めた。

 母と同伴してくる純子は、事務所ではトップアイドルだ。

 だれもが出勤してくるとまずは純子に挨拶をする。とりあえず純子がどうしているかをチェックしてからでないと話がはじまらない。

「おはよう純ちゃーん」

「おはよう純子姫ー。あーん今日もかわいい」

「元気でちゅかあ」

 美少女も美少年も美人も美男子も関係ない。

 そしてまたそんな美形に囲まれた純子の、いたってそっけない態度が笑いをさそう。

「ああ、今日も冷たい態度。笑って純ちゃん」

「ほらほらおねえたんがお土産もってきましたよ~」

 北川純子は毎日ちやほやされてすごしている。

 そんな純子の父親がたまに事務所に顔をだす。

 外出をしていた敦子が事務所にかえってくると、ソファに腰かけた加西文治が娘の純子を膝にのせて、こっくりこっくり居眠りしている。

「――どうしたの?」

「しっ、静かにして」

 純子のあとからドアに入ってきたタレントを黙らせ、周囲にも眼光ひとつで静寂を要求したあと、敦子はそろそろとバッグからデジカメを取り出して、父と子の眠りをフレームにおさめる。

 はじめて加西文治をこの目でみた日に劣らない、心のすべてをもっていかれそうな情景。すべてが柔らかく輝いている。

 何枚か撮ったあと、フレームのなかの加西文治が目をさました。まぶたが震え、焦げ茶色した瞳がのぞく。敦子はちょっと息が苦しくなって、自分が息をとめていたことに気づいた。

 午後の柔らかい日差しがかれと、かれの娘に降り注いでいる。

「あつこ、お帰り」

「ただいま、ブンちゃん」

 床に膝立ちして撮影していた敦子はそのままソファににじりより、文治にかるく抱きついたあと、おなじく目をさました娘をだきよせて頬に音をたててキスをした。


 妖精はいる。


 魔法はある。


 すべてのふしぎは存在する。


 この幸福はその証明。






終わり

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