03
生徒会室に忘れものをとりに、ひとり夕日がさす廊下を北川敦子は歩いていた。
ドアに手をのばしたとき、声がきこえた。
「だいじょうぶだ」
「…………そうだろうか」
生徒会長の能見と小川貢の声であることが、敦子にはすぐにわかった。どうやら深刻な話のようだ。
(どうしよう)
期末試験の近いいま、できればなかにはいって現国のプリントをとってきたい。
「おれはバカで、もうなにも頭に入らないんだ」
「なんでもかんでも詰め込まなくてもいいんだぞ」
「どれが重要かがわからない」
「小川」
「能見は頭がいい」
容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群の学校一優秀で人気のある生徒のことばとはおもえない。敦子は耳を疑うおもいがした。
「おれより成績がいいやつのセリフとはおもえんな」
「わかってるくせに……」
小川の声は悲愴なものをふくんでいた。
とてもドアをあけてちょっとごめんなさいと入っていけるものではない。だからといって立ち聞きしつづけるわけにもいかない。
敦子はうろうろと視線をさまよわせた。
リノリウムの床が、琥珀色に染まっている。電灯はいまだ灯らず、薄暗くも明るい。試験一週間前で部活動は中止となっており、放課後、突き当たりの奥の壁まで人影はみあたらない。
「おれはバカだ」
「――バカだとしても、おれはおまえがどれほど努力しているかしってる。小川貢はすごいやつだ。それが真実のおまえだ」
野球部の四番打者がどうこたえたかはきかなかった。
足音を殺しながら敦子は生徒会室から遠ざかった。
*
中学時代に生徒会の役員をつとめたことがあった。それに目をつけたクラスの担任に口説かれて高校でも生徒会に入ることになった。
生徒会会長となった能見純一の容貌をひとことでいうなら「狷介」である。
和合しない意思のかたさ。
それでいてかれは不義をしない。
ある部活で交通事故にあった子猫を拾ってきた部員がいた。だれも積極的に世話をするという声があがらず、もう家に犬がいるから、家族にアレルギーがいるから、ペット禁止のマンションだからといういいわけがつづき、部活の顧問も先生たちも、結論がでなければ保健所に連絡するだけだという。
猫は傷つき、前足が曲がり、痩せて震えている。
相談が生徒会に寄せられると、能見は立ちあがり部屋をでていった。そのあとにつづいたのは生徒会室で小川貢ファンクラブの運営を手伝っている加西文治だ。加西がうごくと、栗栖崎周平もうごく。敦子ももちろんついていく。
プレハブの部室に到着すると、生徒会長は有無をいわさずタオルが敷かれたダンボールにおさまっている猫を箱ごともちあげ、背をむけて出ていった。
「栗栖崎、学校付近で動物病院を検索してくれ。加西、箱をもっててくれ」
そういうとまた背をひるがえして部室のドアをあけて、部員たちをまえにがん首をそろえている顧問や教師たちにむかっていった。
「先生がたのご指導には痛み入ります。われわれは社会にでて、血も涙もないまったく完璧な社会人になれるでしょう。弱きものは切り捨て、命などかえりみず、規則を盾に思考を停止すればいい」
「能見くん……!」
「いいすぎだぞ」
「われわれはな……っ」
先生たちの抗議やいいわけをききながし、パイプ椅子に腰掛けている部員たちにその鋭い目をむけて、小川人気で当選したといわれる生徒会長はいった。
「自分より弱いものを助けるのに躊躇はいらないんだよ。そのおもいをさまたげる規則に従う価値なんてない」
子猫を拾ってきた男子生徒がたちあがった。
「おれ、今月のおこづかいの残りぜんぶ治療費にあてるよ」
「おれもカンパするよ」
「おい、連絡網まわそうぜ」
部員たちはつぎつぎにたちあがると、椅子をおしのけて電話をかけたり部室をとびだした。
「――猫は?」
ふりむいた能見に、
「小菅動物クリニックっていういちばん近いところへ、クリスとブンちゃんがもう行ってる」
敦子はこたえた。
能見は部員たちに代表者を決めさせ、有志によるカンパのよびかけと、病院へいっしょにいくひとりを選ばせた。
*
陰気とさえいえる容姿。鋭くて威圧感のある眼差し。横柄な口調。
それでいて間近でみる能見の瞳は、森の奥深い場所に隠されていた泉のように澄んでいる。
かれは周囲にいる困ったひとを見捨てない。
いつのまにかだれかのさりげない支えとなり、援護をし、それと気づかせないで励ます。
同じ年の異性で、北川敦子が心から尊敬したのは能見純一だたひとりだった。かの女の大好きは、すでにあるひとりに独占されていたが、それでも負けないくらい能見のことも好きだった。