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分身  作者: みやしろちうこ
番外編 父と子
35/56

01

 栗栖崎にうながされながら、腰を低くしてスーツを着た男は居間にはいってきた。

 わたしはソファから立ちあがった。おたがいの視線があうと、ふたりしてぽかんとしてしまった。

 男は右手を肩まであげたかとおもうと下げ、またあげたかとおもうと下げ、そしてようやく、父はいままで見たこともない形相をして近づいてきて、右手をふりあげ、わたしの頬をはたいた。

「おじさん……っ」

 栗栖崎が父とわたしのそばに台所からかけよってきた。

 わたしは何度かまばたきして、父を見つめた。たたかれた頬は熱くなったが、躊躇のすえにだされた平手など痛くない。

 躾で一度も手をだしてきたことのない父だった。そんな父だったから、なんとなく新鮮だった。

 父よりわたしのほうが少し背が高い。いつもそれを着ていた印象の深いスーツ姿、痩せたように見える。白髪も増えていた。

「おまえみたいなやつは俺の息子じゃないっ。どれだけ周平くんや、北川さんや能見くんたちに迷惑をかけたとおもってる。文治、このバカ!」

「う、うん……」

 栗栖崎の家だった。

 わたしと北川の子供である純子と対面してから四日後。陽気は夏にちかく、桜前線は北上しきっていた。わたしの発見を栗栖崎から知らされた父は、平日の午後、車をとばしてやってきた。

「おじさん、どうぞ座ってください。いま紅茶いれてますので」

「あ、ああ……すまない、いつも本当に君には文治が迷惑ばかりかけて……」

「どうぞ、おじさん、どうぞ」

 栗栖崎にまたしても何度もうながされて、父は謝罪を口にしながらようやくソファにすわった。

「ほら、文治もすわってろよ」

「うん」

 こころもち父から離れてすわった。膝のうえにおいた手をながめ、横にいる父の横顔を見た。

 わたしには父と母がいる。

 純子に、わたしと北川がいるように。

 わたしはこのよこにすわっている父と、あの母のあいだの子供だ。

 また改めて父を見た。

「どうぞ、ハーブティーです」

「ありがとう。いい香りだね」

 テーブルにそれぞれ三つ、栗栖崎はティーセットをならべた。小皿に二枚づつクッキーもそえてある。わたしはさっそくその一枚に手をのばした。

「あ、これガトンのだろ。美味いよなぁ」

 笑顔で栗栖崎にいうと、奴はうなずいた。爽やかな香りの紅茶をすすり、また栗栖崎を見ると、L字のひとり掛けにすわっていたメガネをかけて紅茶をいれるのに凝っている男は、穏やかな顔をしていた。

 視線を感じてよこをむくと、父がわたしたちを見ていた。父の背後には窓をあけたベランダがあり、広い庭の奥手で、木々の影でまるくなっている犬のつくねが見えた。

「――文治、一度、家に帰ってこないか」

「え」

 声をだしたのは栗栖崎だった。

「お母さんいま病院なんだ。半月前にはいってな、当分でてこれない。だから一度、帰ってこないか」

 わたしは返事をしなかった。

「北川さんのご両親にも挨拶に行かなくちゃならないだろう」

「純子には会ったよ」

「ああ、かわいい子だ」

 父はおもわずといった感じで相好を崩した。だがすぐに、もとの疲れのにじんだ真面目な顔になる。

「父さんも会ったよ。かわいい子だ。だから文治、父親として責任はとらなくちゃならいぞ。おまえ、北川さんとは結婚するんだろう? 妊娠が判明してから行方知れずになって彼女がどれほど苦しんだか。ご両親の反対を押し切ってひとりで出産して、認知さえしてくれればいいなんて、そんなの本気じゃないさ。彼女と子供を守っていく責任がおまえにはあるんだぞ」

 いささかわたしはびっくりしていた。父がわたしの肩に手をおく。

「北川さんは素晴らしい娘さんだ。子供をつくったんだから、おまえも彼女が好きだったんだろう? だったらおまえから切り出せ、ご両親に頭をさげるんだ。俺も一緒に行くから」

「あの……おじさん」

 遠慮ぶかく栗栖崎が声をかける。

 わたしは父の口からきいた社会の常識に頭がくらくらしていた。

「おじさんのおっしゃることはごもっともなんですが、その……子供のことを考えるとそれこそベストではあるんですが……あの」

 博士号をもつ男がくちごもっている。頭を揺らし、髪をいじり、目をふせたりメガネをなおしたり。

「どうしたの周平くん」

「――はい、すみません。その……北川と文治の結婚は許してください。申込んで断られましたが、純ちゃんは僕がひきとってもいいくらいです。僕はですから、その」

「ど、どういうことかな……?」

「父さん。俺、栗栖崎と離れさえしなければ結婚してもいいよ」

 きょとんとしていた父は、だんだん目をすがめ、眉をよせてわたしと栗栖崎を見た。

「おまえ……」

 そういったきり、黙り込む。

 三人とも沈黙していると、父がいきなりわたしの腕をつかんだ。ひっぱられ、中腰のままついていく。父は無言のまま玄関にわたしをひきずっていく。

「おじさんっ、おじさん待ってください」

「文治、靴をはきなさい」

「おじさん、話を聞いてくださいませんか、僕たち」

「――周平くん。俺は息子と先に話合うよ。俺はこの子の父親としてろくなことをしてやれなかった。こいつがろくでもないのは俺たち親のせいだろうとおもってる。君はすばらしい学者だ。いままで文治の面倒をみてもらって感謝してるよ。だけどね、俺も親としていわなくちゃならいことがある――ほら、はやく靴をはきなさい文治」

 わたしは靴をはいた。ボーダーの長袖シャツとジーンズ姿のまま、わたしは父に助手席に押しこまれ、もうひとつの家に行くことになった。栗栖崎は車のあとを追うように、ニ、三歩ふみだして見送っていた。


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