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ばたばたとあわただしい足音が静かな廊下にひびいた。
わたしはとっさに身をちぢめ、耳を両手でふさいだ。
(はやく――はやく――はやく! はやく、楽になるならはやくしてやってくれ、すぐ楽にしてやってくれ)
販売機の光をゆがんだ形でうつしている床の一点を見つめつづける。不穏な空気が建物に住みついてるように感じていた。もうすぐ、じゅうぞうが居なくなるのだろうとおもっていた。
そうすれば、わたしもここに居ることはないのだ。
何度も衝動にかられた逃亡をすればいい。どんなかたちであってもいい、ここでないところにいく。
からだは、その緊張の一瞬を予期するかのように硬直しながら小刻みにふるえていた。
耳をふさいでいた両手は胸のまえで、祈るように組まれている。
わたしはベンチからすべるように落ち、床に身をちぢめたまま顔をふせた。息をすすって、身をおこす。
のろのろとあるいて、おじいと男がすわっている場所までもどった。わたしが近づくと男がすぐに気づいて顔をむける。
「文治……大丈夫か……顔、真っ青だぞ……重蔵くんは、今な」
「おい、財布、貸して。中身へったぶんはまた返すから」
男は壁にもたれかかるようにして立っているわたしをじっと見上げ、コートから渋茶色の革の財布をとりだした。
それをうけとり、病室を見ないようにしてまた引き返した。
電気のついてない一角の隅。
緑の受話器をもちあげ、メガネの男の財布から十円をいれた。
頭にうかんでいる数字をひとつひとつ押していく。
呼び出し音がかかり、二十秒ほどして留守番メッセージがながれた。伝言をのこすまえに切る。
そのまま公衆電話を抱き倒してしまいそうになる。
意味なく、手で目をこすったり、顔をふいたりした。窓の外は真っ暗のままだ。まだひとの起きる時間じゃないのだろう。
「出ろよ…………」
そうつぶやいて、また十円をいれて電話番号をうちこんだ。
こめかみがドクドクいってるのがわかる。
五回くりかえした。
六回目。
『――はい?』
周囲の静けさをやぶるのを気にしたようなちいさな声だった。耳にしたとたん、息をのんだ。
『もしもし……どなたですか……いたずらなら迷惑なんですが……』
あ、とも、う、とも声がでなかった。
顔が紅潮し、一気に全身から汗がふきでる。
『もしもし、切りますよ』
心臓がとびだすような音が耳をつらぬく。わたしは大急ぎで百円硬貨をいれた。
(待て!)
「……まて…………」
相手は通話を切らず、とどまってくれた。
「お、俺…………」
そこまでいうと、つづかなくなり呼吸しかできない。口のなかがかわく、何度もつばをのむ。
はなしだせない自分にいらだって、公衆電話の台をなぐりつけた。身をよじらせる。
「俺は…………たすけ、たいんだ…………子供、たすけ、たいんだよ……なにかもっとできるんじゃないのか……俺は、それもしないで、それもなしで、あの子を…………み、見送って、自分も楽になっていいのかどうなのか…………俺は……」
耳と口元におしつけるようにして話していた受話器を見つめた。その機械に言葉がすいこまれていく。
「栗栖崎、じゅうぞうをたすけてくれ」
足音がするほうに視線をやった。
『心臓専門の教授をしっている。こちらの先生に重蔵くんの病状をメールでおくってもらったよ。日がのぼって雪がもうすこしましになったらヘリをだしてもらう手配もした。重蔵くんはいま落ちついてる。一刻を争うほどじゃないが、すぐ診察してもらったほうがいいだろう、おそらくむずかしい手術になる――そうだ、あきらめるには、そのまえにやることがある』
がっちりした紐靴が見え、ロングコートがさまになるながいからだがつづき、販売機の光を反射しているメガネをかけている顔がのっていた。気持右にかたむいている顔に右手で携帯電話をおしつけている。
その口がうごく。
「それで、いいかな文治」
すこし遅れて、耳に。
『それで、いいかな文治』
「うん――うん、栗栖崎、たのむよ」
通話が切れた。
栗栖崎は公衆電話にぶつかるようにしてかけよってくると、わたしを抱きしめた。
長身の男は、命がすくわれたみたいに嗚咽をもらし、濡れた頬をおしあててきた。
**********
じゅうぞうの病室のまえで三人ならんですわり、夜明けをまった。
栗栖崎にもたれながら、わたしはまぶたを閉じていた。
公衆電話のそばでわたしを抱きしめた栗栖崎は、からだを離すと、キスをしてきた。
かるくふれてはなれると、わたしの目と目があう。
「文治……また、いっしょにならないか……」
無言でいると、奴のまぶたがふるえるようにして半分とじた。
「その……ことわったからって、重蔵くんのことは別だから……あの子のことはちゃんと教授に執刀してもらうようたのむから……いいんだ」
わたしはそれでも無言でいた。
「文治?」
「ああ……」
「……僕のこと思い出してくれたんだろう……?」
「まあな――おまえの研究はすすんだか? ギリギリまでいったのに、俺、ほうってきたからな」
栗栖崎のながい指が頬にふれ、顎にふれ、今度は頬にキスをしてきた。
「結果がでたよ――だからもう、研究はやめてしまった。どっちみち、文治がいなくちゃ新しい発想もわいてこないし、それをかためてすすんでいくほどの執念の持ちようもないんだよ。
いまはもっとちがうことをしたいとおもってる。まえの同僚たちは、僕が抜けたことを認めたがらないけど……」
「いいのか、好きだったんだろ」
「いまでも好きだよ、でも応用より、基本と、配列をながめているだけで僕には十分だったんだよ……そのなかにあるもののかたちが見えるから、それをかたちにしたいだけなんだ……なにも、――自分の天才の証明なんて、しなくていいんだ……」
Aくんは、やさしいので、周囲の期待にこたえようとする。
Aくんは、たしかに天才だったから、それをつかわないと自分をわるくかんじる。
「おまえ、研究しないのに俺に居てほしいのか」
「……もうずいぶんまえから、友達以上に、好きだったよ……中学で離れて、文治が離れると僕のことだれか忘れるって気づいて、それから数日いっしょに街をぶらぶらしたろう? 夜、からまれて、走って逃げたことあったじゃないか。隠れようとしてもぐりこんだところで階段から落ちて、僕は助骨にひびがはいった」
栗栖崎は口の端に苦笑をうかべた。
「あの日の朝かな、文治が僕の名前を呼ぶ声で意識がはっきりして……またすぐなくなったけど、あの朝からだよ、文治が僕のことを忘れてしまうなんて耐えられないとおもった――文治、ほんとうに僕のことわかるか」
わたしはちょっと眉をしかめた。
「おまえ、栗栖崎だろう」
「ああ」
あの場所からわたしがあるきだすと栗栖崎は黙ってついてきて、ベンチにならんで、こうしてすわった。
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目覚めたのは朝だった。白いコンクリートのうえで、からだが痛く、自分を栗栖崎だとおもったのだ。
わたしと奴の一部が入れ替わり、おたがいがおたがいを持つ、分身同士となった。おたがいが傍にいるのは自然なことで、自分がそのままあることとおなじだった。
栗栖崎は友達以上としてわたしのことを好きだったという。だがそれはわたしもおなじだ。だれも奴以上の存在としてわたしに意識された者はいない。
小川や能見、北川、栗栖崎一家、ペットたち、じゅうぞう、おじい、店長、美希先生、一組の生徒たち、そしておそらく北川との子供でさえも、栗栖崎はまったく別な人間だ。
奴が欠けた日々を、わたしは自分が栗栖崎周平だとおもって過ごした。
栗栖崎周平があらわれて、わたしは加西文治であることが平気となった。
自分と認識していた奴の一部が欠けると、それをおぎなうようにして、奴はわたしだった。また、こうして一部がもどってくると、わたしはやれやれと呼吸して、ふさいでいた穴をそのまま差し出すのだ。
――分身よ、もどってこい。
こうして、おたがいの体温をかんじたなら、もう言葉はいらないはずだ。俺とおまえは分身同士、いっしょにいるのが当然だ。
さあ、また、生きなくては。