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ひゅっと音がした。
びくっとはねあがり、わたしは部屋の電気をつけた。まぶしさに背をむけて、すぐさま子供の顔をのぞきこんだ。
「……じゅうぞう」
額に手をおく。
わたしは土間にはだしでとびおり、冷凍庫から氷をかきだし、ビニールにいれ、タオルを洗濯物の山からぬきだした。
コートをきこんだままのよつばいで、男は子供を見下ろしていた。近づくわたしにメガネをかけた面をむける。
「なんだ……この子どうしたんだ」
「病気だ。――じゅうぞう、大丈夫か。おにーちゃんがわかるか?」
氷嚢をタオルでつつみ首の両側にふたつ、額にひとつおく。背後に気配をかんじた。
「おじい、熱たかい。呼んでも返事しない。病院につれていこう」
「そうか、となりの田島さんとこまでつれていって、車だしてもらうのが一番はやいじゃろ」
わたしは寝巻用にしている上下のトレーナーに、靴下だけはきダッフルコートをひろいあげた。
「ジャケットきせるから手、かしてくれ」
男がじゅうぞうの背をおこし、ジャケットをきさせ、靴下をはかせ、毛糸の帽子をかぶせた。
「俺の背にのっけってくれ」
「文治、僕のほうが力がある」
「俺が背負う!」
「雪男、じゅうぞうはこのひとにおぶってもらって、おまえは先にはしって田島さんとこ起こしてこい。わしがこのひとを案内する」
わたしは抗議をして時間を浪費しなかった。靴に足をおとして、そのまま家をとびだした。
足が雪にしずんだ。
雲間からのぞく月で、一面の雪が見てとれた。わたしはわけのわからない声をあげながらはしった。
突き刺すような寒さだった。
三回くらいころんで、頭から雪につっこみ、そのすがたのまま田島さんの家の戸をたたいた。
となりといってもおたがいの家どうしが見える距離ではない。
「おじさん、おばさーん! 電話と車かしてー!」
おばさんに病院への電話をたのみ、おじさんに車庫から小型トラックをだしてもらった。
二十六日の未明。
ジャリジャリとタイヤが雪をかみ、権藤の家にむかう。
おじさんは白髪のまじったみだれた髪に帽子をかぶり、コートからパジャマがのぞいている。
「ありがとうおじさん」
「いいんじゃいいんじゃ、――お、あれか」
ぐったりしたじゅうぞうを背負った男と、おじいが見えた。
すわっていた助手席を、胸に子供をかかえなおした男にゆずり、おじいといっしょに荷台にうつった。
車はすぐにはしりだし、月が雲にかくれ、木々が闇より濃くよこにながれていった。さらなる冷たい風がおじいとわたしを襲ったが、ふたりとも無言だった。
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あの白髪でふとった医師は、パジャマに白衣をかけて家のまえでまっていた。
背のたかい男に診察室までじゅうぞうをはこばせ、聴診器や、ライトで様態をしらべ、用意していたらしい点滴をはじめた。
デスクの受話器をもちあげ、診断をまつわれわれを立たせたまま交渉をはじめた。
その内容で、じゅうぞうを他の病院にうつすのだとわかった。
そのご医師が手配した救急車が到着し、じゅうぞうについておじいがのりこんでいった。
病院の住所をきいて、わたしと男は個人タクシーを呼んだ。となりの町の病院までのあいだ、後部座席でならんですわる。
「……文治、大丈夫だ」
男が手をにぎってきた。おたがいの指が冷い。
「大丈夫だ」
低い声と、震動に身をまかせながら、夜のあけない道をすすんでいく。
(――いっそ、おたがい楽になるかじゅうぞう)
真っ赤になっていた顔を脳裏におもいだし、そんなことをおもっていた。
(いっしょに天にのぼっちまおうぜ)
そうしたら、どんなに楽だろうか。
想像したら笑みがうかぶほどだ。
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人気のない病院内で、どうにか当直の看護師を見つけ、はこばれてきた患者のいきさきを問う。
個人医院よりおおきいとはいえ、三階建てのちいさな建物だ。廊下の壁ぞいにおいてあるベンチにおじいのすわっているすがたを見つけた。
足早に近づく音で、顔があがった。
鐘のような声をもち、がっしりし、威圧感たっぷりのおじいが、肩をおとしている。
「そろそろ……腹ぁ、くくるときじゃ」
それだけをぽつっといい、黙った。
「手術してるのか?」
老人が首をふる。
「いま、じゃあ……様態を安定させているとかそういうの? それだけしかできないのか」
老人は答えない。
(そうか、そろそろか)
わたしは質問をやめ、あとずさった。
後方に立っていた男が、わたしのよこをとおり、おじいに身を折ってかたりかけ、ドアからでてきた赤い目をした若い医師に声をかけた。顔をよせ、医師にかたりかけ、耳をかたむけている。
わたしはそれを目のはしにうつし、電灯のけされている廊下のくらがりにさがっていった。
一階の階段口待合所は、四機の自販機と、数脚のベンチ、灰皿、緑の公衆電話があった。
窓のそとを見れば、暗闇のなかふたたび雪がふりはじめていた。寒さがいまさらのように雪でぬれた衣服ごしに、骨にこたえた。
手も足もかじかんでいる。
とっさに自販機であったかい飲み物をもとめたが、財布をもっていなかった。タクシーも男に払ってもらったのだ。それでも品揃えに目をはしらせていると、ミルクココアがあった。
自販機の明かりだけで照らされている待合所。嫌でも目はその光にひかれる。
ベンチに腰をかけながらそれをながめた。
病室でねているであろう患者たちのいびきさえきこえない静けさだった。
背もたれに身をまかすと、唇がふるえた。
「さむ……」
ミルクココアが飲みたかった。
出会った日に 太った子供がさしだしてくれた飲み物だ。あれは甘くてあったかかった。
頭のなかがかすむようだ。
天。天。天。天。天。
はやくいこうじゃないか。