26
寒さが本格的になってこようとしていた。
十二月にはいったとたんに雪がふったが、うっすらとつもっただけで、昼にはなくなっていた。
バイトをはやめにあがって、小学校の校門でじゅうぞうをまった。そのそばには自転車がある。常連客からつかわない、というので先週もらったものだ。
スピード切り換えもない、油のききがすくないぎしぎし鳴る中古だが、うしろにじゅうぞうをのっけてこぐぶんには支障がなかった。登校時間はいつもの半分ですむ。
しかしこれも雪がじゃんじゃんつもるようになれば春まで倉庫入りだ。
鐘がなり、五分もしないうちから、青いジャンバーをきたじゅうぞうが、ころがるようにして校舎からかけてきた。
街のはずれにある図書館まで自転車でついれていってやる約束をしていた。
学校の図書にはない漫画本が目当てらしい。
足がとどかずあぶなっかしいじゅうぞうに手をかして荷台にのせ、腰にしっかりつかまらせ、すっかり顔見知りになった生徒たちに声をかけられながら出発した。
ぎしーぎしーといわせるごとに、ぐいぐいまえにすすんでいく。
自転車にのるのはずいぶんひさしぶりのような気がした。それこそじゅうぞうの年のころ以来じゃないだろうか。
そのころですら、こんなにたのしいとおもっていたかどうか。
「とばすぞーじゅうぞう~つかまってろよ~」
「きゃ~!」
甲高い声をあげ、じゅうぞうが笑う。
前カゴにいれたじゅうぞうのランドセルがガチャガチャいった。
******
五冊の収穫をえて、ふたたび特急で自転車をとばして帰宅すると、すっかり日が暮れていた。
明かりのついている家のまえで自転車をとめ、酷使した足をのばす。頬にあたる風はつめたかったが、上昇した体温のわたしにはなんのこともない。
「ただいまー!」
さきになかにはいっていったじゅうぞうにつづいて、ランドセルを片手にわたしもつづく。
「ただいまぁ」
おじいは指定席である土間の奥手の椅子にすわっており、あいだに威力を発揮しているストーブをおき、男がすわっていた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
二十才代であろう若い、メガネをかけた男はじゅうぞうに声をかけた。
「――おじい、お客さん?」
玄関をガタガタいわせて閉め、ランドセルを畳のうえにおきながらきいた。
「ああ、おまえの客じゃ」
「俺?」
「にーちゃんの?」
男が席をたつと、予想より背がたかかった。しかし厚みはなくうすいからだだ。
「……こちらにいる雪男という人物が、自分の親しかった人物と似ているときいてきました――僕は、栗栖崎といいます」
茶色のセーターにジーンズの男は、そうなのった。
「クリスザキってきいたことあるよ俺」
沈黙したわたしに代わって、というわけでもないだろうがじゅうぞうが声をあげた。
「ああ、たぶん君のいう栗栖崎は兄だよ。俳優をしているシュウイチだ。僕はその弟で、周平」
「へえ」
ストーブのちかくによっていたじゅうぞうは男を見上げて感心している。
――栗栖崎周平というわけか、おまえは。
腹立たしさが、かくしようもなく顔にでているだろうとわかった。
安っぽく、くだらない芝居に巻きこまれている気持がしていた。
(……俺がいったいなにしたってんだ? 何なんだよ。俺のこと探してたってカップルがきて、毎週毎週、顔を見にやってきて、次は俺の名前をどうどう騙るやつの登場だよ。
あのシュウイチ・クリスザキは兄だってさ。
おまえが栗栖崎だっていうなら俺はだれだ? 探し人探し人って、おしつけてくんなよ……! 俺はあいつらもこいつもしらないよ)
「……にーちゃん……よんでるよ」
じゅうぞうの言葉に、わたしは窓にむけていた顔をなおした。じゅうぞうを見て、おじいを見て、男を見た。
「……雪男さん、あなたは僕の探していたひとだ」
「ふうん」
男が一歩ちかづいた。長い足なのでぐっと目前にせまってくる。
「…………やっぱり……わからないか……」
「なにが」
見上げた男の瞳はちいさいものだった。
「――か、……帰って、きてくれなんて……僕にはいえない…………ただ、また、会いにきたい……」
男は目をふせ、視線をはずし、くちごもりながら言葉をはきだす。
わたしは男と距離をとった。全身に悪寒がした。
(き、気持悪いやつ……っ! なんだこいつ)
青白い顔をして、ひょろひょろと顔もからだも長くて、俳優の弟だというのにたいしてハンサムでもない。額にやや賢そうな点はみられるが、どうにも陰気で覇気もなく、じめじめしたいいように嫌悪がつのった。
「わけわからん奴。俺、おまえに会いたくないよ」
どっかに行け、といわなかっただけわたしは分別した。
男ははっと目を見開き、まじまじとわたしを見た。
「ここに二度とくんなよ。能見や北川と知り合いなんだろ? あのふたりにも店はいいけどここはダメだっていってある、おまえもそうしてくれ。店だったら、まあ……本当はそこにも来てほしくないけど、どうしてもっていうなら、いいよ。もうでてけよ」
わたしは顎をしゃくった。
男はその場に立ったままだ。わたしはその鈍さにも腹がたち、見なれないコートを壁かけからはずし、男におしつけ、腕をひき、玄関のそとに押し出した。
「ブンジ!!!」
「うるせー! なにがブンジだ! なんだその名前、ひとのこと勝手に呼ぶなッ、どいつもこいつもいいかげんにしろよなッ」
わたしはとっさに足もとにあった、おじいのゴム長靴を男になげつけていた。
こんな三文芝居にはうんざりだった。
家のまえにおいてある自転車にでものって、いますぐどこかに行きたくなった。だれもかれもがどこかに行ってくれないというのなら、わたしが行くしかないじゃないか。
わたしはガタンバタンいわせて玄関をしめ、部屋の隅の壁に頭をあてた。
家のなかの沈黙と、ストーブのひくい音。のろのろととおざかっていく足音がきこえた。
壁に頭をあずけたまま、わたしはずるずるとしゃがみこんだ。
(うんざりだ、もう嫌だ。もう嫌だ)
そればかりが渦巻いていた。
しばらくしてからおじいに立たされ、男が座っていた席にすわらされた、顔をさげたままのわたしに、じゅうぞうがココアをさしだしてきた。とても甘いものを飲む気分ではなかったが、頬肉にうもれた目をみたら、つっかえすことなどできなかった。
なにかいいたげな目。
言葉にならない幼い口。
愛嬌のあるまるまるとしたからだ。
そんな存在が、わたしの変調に気をつかっている。
胸のうちでかるく笑った。
(ああ、まったく。可愛いやつだな)
「――あいつ、俺のことブンジって呼んでたよ。どんな字なんだろうな」
「元号じゃろ。文で治めると書く」
「げんごうって?」
おじいがじゅうぞうに元号の説明をしているあいだ、わたしはココアをすすった。
(文治ね――でも俺は、あいつが騙った栗栖崎周平なんだけどな)
「おい、雪男」
顔をあげた。
「それ飲み終わったら、わしの靴、拾いに行けよ」
わたしは吹き出した。