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じゅうぞうの様子をみながらの生活がはじまった。喫茶店での手伝いも事情をはなし、まえよりでなくなった。
朝はたいていいっしょに登校し、わたしは店にいき、美希先生になにかあったら電話してくれるようたのんでおいた。このことには先生はよろこんだ。というのも、あの家には電話がなかったからだ。
電話どころじゃなく、テレビもない。あるのはラジオくらいのものだ。風呂もシャワーはついていない。洗濯機も全自動じゃない。
そんな家のあるじのおじいが携帯電話をもってるはずもなく、じゅうぞうの担任になってから美希先生はいつも連絡面で困惑していたらしい。
日中の連絡となると、いったん漁業組合の事務所に電話をして、帰港してきたおじいにつたえてもらうのが一番はやい方法だという。
おじいは日中、漁にでているらしい。
組合から船をかり、ひとりで漁にでて、釣果があると何%かを納めて残金をもらうしくみだとか。
おじいは船にわたしをさそってくれたことはない。わたしを家に自然とうけいれながら、自分のことはかたくななままに話しはしなかった。
店で大好きなコーヒーの香りにつつまれながら、つねに電話の位置を意識している自分がいる。
客がよむ新聞紙は視界にはいらなくなり、話題は耳からとおざかった。
くろい液体が容器にたまっていくさまをぼんやりながめながら、店長のよこにならんでたち、わたしは昨夜したおじいとの会話をおもいかえしていた。
「おじい、じゅうぞうの病気って、どこかの医者とか病院にはこんでもどうにもならないものなのか」
「………………もう、わしがしてやれることはみなやった。それに」
「それに?」
おじいはなにもいわなかった。
それに、何なのだろう。話してくれてもいいのに。きっと力になるのに。そのためだけにここにいるのに。
かるく唇をかみ、カップにそそがれたコーヒーを盆にうつしてテーブルにはこんだ。
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電話が鳴った。
店長よりはやく受話器をとった。
「はい、喫茶牧です」
わたしは耳をかたむけ、電話をきった。店長に視線をやると、うなずいていた。わたしは奥へはしりこみ最短時間できがえ、そのまま裏手のドアから外にでた。行く先は走って二十分ほどの街で唯一の病院だ。
チェックのシャツに染みをつくって病院まえまで全速力ではしってくると、美希先生の見なれたシルバーの車があった。
ちょっとおおきめの家のようなその病院は個人経営で、医者ひとり、看護師の女性ひとり、受付ひとりしかいない。
玄関をあけるとすぐにソファにならんだ老人たちがみえた。靴を乱暴にぬいで、受付の女性に声をかける。
「権藤重蔵って子が、きてるはずなんですけど」
「いま診察中ですよ」
「身内なんではいっていいですか」
返事もきかないで、わたしは奥へすすんだ。
「――じゃあ、わたしが払います」
「しかしね、小杉先生、それじゃ……」
なかでの会話をたちきるように、ノックもせずに部屋にはいった。
椅子にこしかけた白衣の先生。メガネをかけ、白髪はおおかた後退し、でっぷりふとっている。右頬におおきな染みがあった。
そのまえの椅子にすわって、いつものようにみどりのジャージ上下で、美希先生は両手のこぶしを膝においていた。
「雪男さん」
「先生、連絡をありがとう、じゅうぞうは?」
「え、ええ……いつものように看護婦さんが全身に氷をあててくれて、それから注射を……」
「――小杉先生、こちらは?」
医者がわたしを見た。
「権藤雪男さん。重蔵くんの親戚のお兄さんです」
「そう、身内のかた。はじめまして」
「……どうも」
美希先生が見たさらに奥の部屋へいこうとおもったが、白髪の医師がものいいたげな目をしたのでそこにとどまった。
「じゃあ、ちょっとお兄さんにきいていただこうかな……どうぞ、小杉先生は重蔵くんについててあげてください」
「しかし……」
わたしは美希先生にうなずき、診察室で医師とふたりだけになった。
「ちょっとこちらに座っていただけますか、お兄さん」
「なんでしょうか――じゅうぞうの具合が悪化しましたか」
「いいえ、病状のことではなくて、ですね」
医師はいいにくそうにはしていたが、はやいはなし、滞納している診察代や治療費を払ってくれ、とのことだった。
「ええ、権藤さんが家も船も売って重蔵くんの病気代につぎこんでこられたことはしっています。こちらとしてもそれを承知して後払いをOKしてきたんですからね…………ですけども……額が額になりましたので、分割でも返済していただけたらと……あ、いや、その返済の意思があるかどうかという点をですね……」
白衣からでて机におかれている医者の手は、やわらかそうな白い、皺のおおい手だった。
この手はお金がほしいといっている。
おじいの無言はこのことだったのだろう。
つくった金でやることはやったのか。
(――俺なんか家にいれてる場合だったのかよ)
三人で鍋しててよかったのか。
もう、おじいはあがくだけあがいたのだろう。打つ手はなくなって、できることはじゅうぞうが望んだわたしを家にむかえいれてやるくらい、というわけなのか。
わたしは席をたった。
「受付で払ってきます」
うしろ手にドアをしめたとき、医師がなにかいってたようだがきこえなかった。
「権藤ですけど、いままでの費用はいくらになってますか」
女性がだしてくれた明細の金額は、わたしが喫茶店でかせいだお金では足りなかった。
うしろポケットに手をいれ、デビットカードをだした。
「これ、使えますか」
「はい。――じゃあ、こちらに番号を」
計算機におおいがついたような機具がでてくる。暗証番号をうちこんで認証キーをおした。
レジがかすかに音をたてながら震動し、レシートをはきだす。
背後で順番待ちをしながら世間話をしている患者たちや、レジのむこうにすわっている女性の存在も気薄だった。
あれだけ使う気がしなかったカードをつかったのに現実感がなかった。つかったとたんに落雷でもあるんじゃないかとおもっていたが、なにもおきない。
美味しそうなコーヒーを飲むためにつかったのではなかったからかもしれない。
はやくじゅうぞうと美希先生のところに行きたかった。
「はい、ありがとうございます」
カードと領収証をわたされた。両方をふたたびポケットにねじこみ、わたしは奥へむかった。
じゅうぞうがいるだろう部屋のまえにくると、くぐもった声がきこえた。
お金を払い、なんとなくやることはした気になっていたわたしは、実はなにもなっていないことに気づいた。
診察代をはらいつづけたところで、じゅうぞうのくるしみは軽くなりはしない。
(――いったい、どうしたらいいんだ?)
ドアをまえにして、じゅうぞうの声をきいていた。
去らないし、逃げないし、力になる。
だが、それだけではじゅうぞうは助からないのだ。