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分身  作者: みやしろちうこ
第3部
22/56

22

 夏がそろそろ終ろうとしていた。

 この土地の夏はすずしく、わたしは気持よくすごした。

 

 『喫茶牧』のカウンターに新聞がちらばっている。店では各種新聞紙とスポーツ紙をとっていた。客は自由に見ることができる。TVもラジオもない店だ。かかっている音楽もクラシックかジャズ。

 所定位置にもどそうとしたスポーツ紙の大見出しが目にはいった。


 小川逆転サヨナラ


(…………オガワ……)

 大文字のよこに、野球のユニフォームをきた男がゆっくりはしっているのだろう写真がのっていた。

 赤い色の帽子のしたの顔は、すごく端正だ。

 さわやかで、しっかりしてて、ちょっと照れ屋のような気がした。

(……かっこいい男だな……)

 なぜか胸がドキドキしていた。

(なんだろ。なんで男の写真みてドキドキしてんだろ俺)

 はやくかたづけてしまえばいいのに、手がはなれない。


「どうした雪男」

「あ。……あの店長、この新聞、俺、もらってもいいかな」

「ああ、どうせ捨てるからいいぞ」

「ありがとうございます」

「小川がまた活躍したんだってな、あっちに行ってもすごいな奴は、日本の外に出しちまってもったいない」

「て、店長、小川って店長の知り合いですか」

 カップを布でみがいていた店長の手がとまった。

「――どうしてそうなる」

「小川って呼び捨てじゃないですか」

「野球選手やタレントや有名人は俺は呼び捨てだ」

「ああ……」

(びっくりした)

 店長はちょっと肩をすくめ、すこしうごいた表情をまたもとにもどした。

 帰りにもらう予定のスポーツ紙に目をはしらせた。


 小川貢(二十二)――マッド・ジー所属は、プレーオフをかけての大事な試合で四打数四安打……。




*****


 カウンターにはいって注意していると意外と小川貢についての話題が客のあいだでかわされていることがわかった。

 スポーツ紙をまわすようにして、みんな笑顔で小川の活躍を賞賛し、我がことのように自慢する。



 カウンター席に男女でならび、男のほうが新聞をひろげてよむのに夢中になっている。ふたりとも崩れたような雰囲気がある。

 午後の客足のとだえる時間帯で、女性は男にもたれ暇そうにあくびを何回もしていた。

 テーブルをふいてカウンターにもどろうとしていたわたしは、ある記事が目にはいった。


 栗栖崎周一 次はギャング



(――クリスザ……キ? え?)


 わたしは男にぶつかるようにしてその記事に顔をちかづけた。

「な、なんじゃ?」

 

 ハリウッドで活躍中の日本人俳優、栗栖崎周一(二十五)の次の出演作品がきまった。新鋭のドイツ出身のケストナー監督がメガホンをにぎるギャングものだという……。


「俳優……周一……」

 そこまで一気によんでつぶやいた。

「あれー雪男くん、クリスザキのファンなの?」

 男の連れが声をかけてくる。

「え、いや……めずらしい苗字だとおもって……」

「ま、そういやそうよね。でも彼、かっこいいわよねー次、ギャング役でしょ? テレビでもニュースしてたわ。たのしみよね、それに彼の弟……」

「そうですね……!」

 まだ話したげな女性を避けるように、カウンターにひっこんだ。

 頭から血がさがっている気がした。


 小川貢というメジャーで活躍している選手の見出しをよんだときとはちがう、胸の動悸がする。


(栗栖崎周一だって……)


 似すぎている。

 わたしの名前と似すぎている。

 それがわたしを落ちつかせない。


 栗栖崎周一はアメリカを中心として俳優業をしているらしい。記事についていたちいさな惰円の写真は、うつりがわるくて顔がよくわからなかった。目はくっきりしていたようだ。

 きっと形がいいのだろう……。


 わたしは洗い場に片手をおいたまま、しゃがみこんだ。

 ――野球の小川。

 ――俳優の栗栖崎。

(だめだ……)

 小川の載っているスポーツ紙を店長からもらいうけて家にもってかえるのがたのしみだったのに、いまは小川の名も苦しいものとなった。

(だめだ……)

 ここには居られないとおもった。

 奥の部屋で休憩している店長のもとへいった。

 ソファの背もたれに頭をあずけ、目のうえにハンドタオルをおいている。

「店長」

「――ん……?」

「店長、すみません……あがらせてください」

 タオルをどけて顔をあげた店長は、わたしを見て目をみひらいた。

「――どうした。具合でもわるいのか……いいぞ、あがっても」

「はい、すみません」

 視線をあわさないよう頭をさげた。



 ジーパンに薄手のシャツに着替えると、わたしはやみくもにあるきだした。

 栗栖崎周一。

 きっと他人じゃないだろう。

 なにかがわたしに近づいてくる気がした。追ってくるものだ。胸をさわがす名前が周囲にあらわれる。

 熱せられたフライパンに水をたらすみたいに、わたしははげしく反応していた。このままではわたしはどうにかなってしまう。

 その、恐怖にいちばん似たおもいが、逃走をけしかけていた。



 背後からクラクションが鳴った。

 一心不乱にあるいていたわたしは、自分が街の果ての海側へむかっていたことに気づいた。

 とおくに家が一軒あるくらいで、あとは山や大地しかないところだ。

 小型トラックがよこでとまった。運転席には喫茶店の常連である、農業をしている原田さんだ。

「雪ちゃんどうしたのこんなとこあるいて。珍しいね。それよりさ、さっき川崎さんにきいたんだけど、宮田さんとこの渚ちゃんとあそんでた重蔵ちゃんが倒れったって! またあの発作らしいよ。宮田の奥さんが車だして街まで先生のとこはこんだらしい。

 けどあの病気、治らんじゃろ? しばらくして権藤のじーさんがむかえにきて、いまは家らしいよ。

 重蔵ちゃんも雪ちゃんがおるほうが安心だろう、なんなら家まで送ってってやろうか?」


 ただただきいていたわたしは、しめされた助手席にのりこんだ。




******



 たよりなげに建っているように見える家につくと、礼をいって車をとびおりた。

 ドアはあいていた。

 おじいは帰ってきたわたしに視線をあげただけで、すぐ手元にもどした。土間の椅子にすわり、網を手入れしている。

 家の窓は全開になっていた。


 じゅうぞうはうすい敷布団のあいだで、顔をまっかにしてうなっていた。

「……じゅうぞう……」

 いつも赤い頬が全体にひろがったようだ。肌が熟れているトマトみたいになっている。汗のつぶがいくつもできている。

 わたしは傍においてあるタオルでふいてやった。

「じゅうぞう……」

「あつい――……あつい――」

 目はじゅうぞうにむけたままいう。

「おじい、じゅうぞうって自分のことどこまでしってる?」

「全部はなしてあるわい」

「どうしたら楽にしてやれる?」

「あつがりだしたら、安静にしておくほかはない」

「冷たいのとか、涼しいのとかは効かないのか」

「多少じゃな。いまも全身に冷却シートはられとるよ。こっちのすずしい気象でこれでもまだだいぶいいほうだ」


 じゅうぞうは夜中までしきりとあつがり、たまに目をあけてわたしを見上げた。口に水差しをさしこむとごくごくと飲み、また目をとじる。日がしずむと汗はとまったが呼吸があらい。

「……にーちゃん……」

「……じゅうぞう」

 わたしは一睡もできなかった。おじいに交替して寝ようといわれたが、首をふった。

 じゅうぞうのあつい手をにぎり、枕元にすわりながら頭をたれた。


 この家にはいったのは、じゅうぞうがわたしの袖をひっぱったからだ。「こっち……」といったからだ。

 胸をさわがす名前がある。

 風に背をおされるようにしてどこかに行くべきなのだ。

 ここにいるべきじゃない。


 ひゅう、ひゅう、と呼吸音。


(――くるしいか、じゅうぞう)


(俺も、くるしい。おまえを置いていかなけりゃならないなんてな……にーちゃんこのまま居られないよ……なんだか、怖いんだ……怖いんだよ…………)


 置いていきたくない。


 この小太りでちいさい子供を置いていきたくない。

 もっと三人でご飯がたべたい。


 わたしの脳裏に泳げないじゅうぞうをビーチボードにのせて、海にのりだす自分のすがたがうかんだ。

 どこまでもどこまでも押していってやる。

 夏休みに海に泳げないからいかないといっていたじゅうぞうに、わたしは浮き輪の船にのっけてひいてやる、と話していた。

 海にのりだすまえに夏がすぎてしまっていた。


(どうしよう)

 からだ中のあちこちから声があがっていた。そのどれもが自分の声だ。欲求の声。

 去れ。とどまれ。


 生きてきたなかでこんなに胸がつぶれそうなおもいをしたことがあっただろうか。

 こんなにどうにかしたいとおもったことがあっただろうか。

 わからなかった。

 わたしは自分をただよう人間とさだめて、掘り下げようとも、探ろうともしなかった。どうでもよかった。

 気持や、心をひとつに置いたからといってそれがなんだというのだ。ひとはたやすく忘れるものだ。そんなものなのだ。ひとの心にとどまっていたいなんて望んでもどうにもなるものじゃない。


(――俺が居なくても、いいよな……じゅうぞう……どうってことはないだろう?)

 畳のうえでころげまわりたくなった。

 そとにとびだして叫びたかった。



 窓に朝日がさしてきても、わたしは自分にこたえがだせなかった。




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