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「おい、おまえ」
いかつい、というわけではないが無表情で愛想のかけらもない四十才前後の男に声をかけられたのは、何度目かの『喫茶牧』参りの帰りだった。
わりと長身で、黒々とした髪をオールバックにして、黒いジャケットコートのしたは、白シャツと黒のベストとズボン。
「あ、店長……」
見まちがうはずはない。『牧』の店長だ。
店長はわずかに顔をしかめた。
「おまえ、まえからずっと店のまわりをうろついてただろう」
営業妨害になっていたのだろうか。
答えないわたしの腕を店長がつかんだ。
「どうなんだ」
「そうです」
「――来い」
「え、どうして……!?」
「店を空けてきてる……、はやく来い……!」
そのままひっぱられて、『牧』にもどっていった。
店長は走るようなはやさであるき、そのスピードのまま店内に突進していった。
カウンターにはふたりの男客。わたしがのぞくと必ずいるふたりだ。カウンターのまえの椅子にからだをぶつけた。
「そこに座れ」
「……え?」
店長はいったん奥手のドアにはいってすがたを消し、コートを脱いでふたたびあらわれた。長身だし、無表情だし、どうしても怒っているように見える。そのまま無言で、火をつけたり、ビンをひきよせたり作業をはじめた。
「店長ってば乱暴じゃな、ほら、あんた座れよ」
「そうそう」
五十才代であろうふたりが声をかけてきた。セーターにパンツという似たような格好をしている。
「ブレンドでいいんですよね、長谷川さん」
「あいよ」
わたしは店内のようすをながめながら席にすわった。なかから見ても簡素だ。飾っている部分がすくないせいだろう。そう大きさのない店だが、余計なものがない分ひろく感じる。
店長のまわりにある道具は、ピカピカに磨かれている。新品というわけでもなさそうだが、使いこまれ、現役の存在感がある。
そとにまでただよう香りが店内いっぱいにひろがる。
わたしは目をとじた。
「どうぞ」
店長の声にまぶたをあけると、目の前にホットコーヒーが湯気をたてておいてあった。
店長と、横手にならんでいるふたりの客に視線をはしらせる。
「兄ちゃん、まえからここの店、気になってたんだろ。なかから俺らも見てたわけ。なんで入ってこないんかなって」
「そうそう、それでいいかげんしびれを切らしたってわけじゃ。お近づきのしるしにおごるよ」
おじさんたちにそういわれ、うれしくもあったが戸惑った。
まったくいい香りのするコーヒーだ。
黒い液体の表面に、自分の影がうつる。
「飲むなら熱いうちにしろ。長谷川さんたちはおごるというくせして、おまえを呼びに俺を行かせるんだからな」
「そりゃ店長、若いから」
「そうそう」
「仕事中ですよ俺は」
「俺ら留守番してたじゃろ。それにここ、昼は客おらんし」
三人の会話に耳をかたむけながら、カップをもちあげた。
口をつける。
(…………あぁ……)
予想以上だった。
『喫茶牧』のコーヒーへの羨望はたしかなものだった。
無言で飲みほしたわたしを、三人も無言で見ていた。
「ごちそうさまでした」
おごってくれたふたりに頭をさげた。
「どうじゃ」
「ここのコーヒーは最高じゃろ」
わたしは破顔した。
「ずっと美味いんだろうなっておもってた。その通りだった。いや、それ以上。香りからしていままでのと全然ちがうだろうなってわかってたんだけど、美味しかったです。ようやく飲めました。どうもありがとうございました」
おじさんたちも破顔していた。
わたしは席をたち、店長を見上げた。
「わざわざ呼び止めにきてくださってありがとうございました。ここのコーヒーはすごい」
店長の口元がすこし緩んだ。
*****
その日の夜、おじいとじゅうぞうで鍋をしながら昼間あった『喫茶牧』の話をした。
「――あの店の牧という奴は流れもんだったが、あのコーヒーの味でみとめられおった。そうじゃな、あのコーヒーはちょっとしたもんじゃな」
ひとのことを話さないおじいが珍しくほめた。
じゅうぞうはコーヒーは苦いから嫌いといって、興味のない顔をしていた。
*****
それが春のことだったが、その後はじゅうぞうにつきあって学校へ行くと、かならず『喫茶牧』に顔をだしにいった。
わたしはすっかり『牧』のコーヒーのファンになっていた。
べつだんつねにおごってもらいたかったわけでもないのだが、常連のふたりがいると声をかけてもらえ、いない場合でもわたしの座った席のまえにはコーヒーがでてきた。
店長の顔を見上げると、顎をうごかし視線をあわせなかった。わたしは自然とそのお礼に皿洗いをしだし、気づくと一日で一番いそがしいモーニングの時間帯でウエイターのようなことをしていた。常連のふたりに紹介されているうちに、店にくる客の顔をおぼえ、わたし自身も「権藤のじーさんとこの雪男」と紹介されていた。
夏になって小学校が休みになってもわたしは『牧』へ通い、ある朝、店長に白シャツと黒のベストとズボンのそろえをわたされた。
「今日から店でるときはこれを着ろ」
「……はい」
「それから髪、切るか結ぶかしろ」
「店長」
「なんだ」
「ゴムありますか」
髪を結び、店長とおそろいのユニフォームで店内にでると、モーニング目当ての常連たちがつぎつぎに来店し、わたしを一瞥して声をあげた。
「雪ちゃん似合ってる……!」
「かわいい顔してるとおもってたけど、そうやって着とると、えらい映りがいいなぁ」
「おー、かっこいいよ雪男くん」
コーヒーはすべて店長がする。わたしは運び、洗い、レジをし、掃除をする。その他なんでも。
モーニングは厚切りトーストにバター、ゆで卵、サラダ、ヨーグルト、コーヒーという定番が決まっている。これらをつくるのはわたしが手をだしてもよかった。
その店での給料は、わたしの感覚では『牧』のコーヒーが好きなだけ飲めることだったのだが、ユニフォームを着て手伝いだしてからは店長は毎月末に封筒をわたしてくれるようになった。
わたしはデビットカードを使用しないで、自分のおこづかいを手にすることができるようになった。
そのお金で、夜ご飯のおかずを買ってかえったり、じゅうぞうと食べようとラムネを買った。
じゅうぞうとおじいは夏休みだからと旅行などはしなかった。学校の友達とあそんですごしていたじゅうぞうは、たまに『喫茶牧』に顔をだした。
ひとりのときもあれば、友達連れだったり、美希先生と連れ立ってのときもあった。
わたしはじゅうぞうにウエハースがついているバニラアイスをだした。子供たちには全員おごり、給料から差し引いてもらった。
美希先生は「ダメです」といいはり、お金をはらっていった。
休日の先生は、淡い色のワンピースにカーデガンをはおっており、実に似合っていた。
「素敵ですね」
というと、頬が赤くなっていた。
先生たちが姿をけし、店内にふたりだけになると、並んで立っていた店長がいった。
「……雪男、おまえ女性にはいつもああか」
「ああって?」
「素敵ですね」
「……そうおもったら、そういうだけですけど」
「そうか」
なにか変だろうか。
店長のコーヒーは選ばれた豆と、丹精こめた作業によって特別な飲み物へと昇華してゆく。
間近で見る一連のうごきは、毎日の神聖な儀式のようだ。店内はその神聖な香りで満たされる。