17
手をひかれたほうに顔をむけると、能見が眉をよせてわたしを見ていた。
「加西……大丈夫か」
「え、俺? うん。びっくりしたよな」
「ああ。俺が悪かったよ」
どうしてだろう。
なぜ能見が悪いのか。
「俺たちもでよう」
かるく腕のうしろを押されるようにして、わたしはあるいた。レジで店のひとたちと話しをし頭をさげた能見は、わたしのダッフルコートをさしだしてくれた。
フードがついていて木のボタン、この濃紺のコートは、栗栖崎が研究室からお金をもらいだした年の冬に、文治にはこれが似合うからと買ってもらったものだ。
毎年あたたかくわたしを包んでいる。
しっかりボタンをしめて、店のそとにでた。白い息がでる。
まだ陽はあって、いくぶんうすい青空の日だった。
「加西、ちょっと話をしながらあるかないか。通りにでたらタクシーを止めるよ」
ふたりならんで静かな住宅街をあるきだした。
話があるといいだしたくせに話さない能見純一。店にきたときと同じだ。黙って肩をならべながら、わたしはそれがおもしろく、微笑んだ。
「――能見、手、痛くないか」
「え、ああ、そうだな、すこしな」
「ああいう肉体をつかうのは小川にまかせないと」
「だが奴はアメリカだ。待てない」
小川は高校卒業と同時に日本のプロ野球選手となり、三年目にしてメジャー契約を結び、彼はこのとき、すんなりと身につけた英語とスペイン語をはなしながらあっちでキャンプをしていた。
「……悪かったよ加西。俺がおまえたちをこじらせちまった」
「そうかな」
「そうだ。……小川が帰国するまで待つべきだった」
わたしはかるく笑った。
そのまま視線を空にむけた。電信柱と屋根のむこう。
「いいんだ。能見は悪くない。俺がしたことで栗栖崎が失望したなら俺が悪いんだ。俺はあつこと寝たことを悪いとはおもってないけど、栗栖崎にはショックだったんだな。…………そのショックが、なんでかわからない俺は、さらに悪いのかもな」
「加西……」
「俺とあつこが寝て、子供ができて、それで俺と栗栖崎とがどう変るっていうんだろ……」
つぶやいていた。
おたがいに一部をもちあうわたしたちに、他に誰がどうだろうと、一体なんの関係があるというのだろう。栗栖崎は「特別」といい、「相手」といいながら、「離れた」といった。
離れるはずがないのに。
「離れた。離れたよ」と。
コートのポケットに両手をつっこみ立ちつくした。気づかずすすんでいた能見がふりかえる。
「加西」
「ああ」
――離れたか。俺たち離れたか、栗栖崎。
いっしょが当然。
そうじゃなくなるんだな。そういうことなんだな。
おいついたわたしの顔を能見がのぞきこんでくる。わたしは視線をあわせなかった。
「加西。家はどうする……マンションのあの部屋に帰るか。奴がああいってたとしても一時の感情だとおもうが……なんなら俺のとこきてもいいぞ。北川のとこでもいいし、親のいるとこにだって……どこも嫌ならホテル代をだそう。どうしたい?」
車の往来のはげしい道りにでた。
「うん、そうだな……パパさんとママさんのいる栗栖崎の家に行くよ。あそこ好きなんだ。犬とか猫とか鳥とかいるし、庭ひろいし」
わたしのいうことをきくと、能見は手をあげてタクシーをとめた。
車内で、
「加西のご両親には妊娠のこと話すか?」
能見にそうきかれるまで自分の両親のことはかんがえもしていなかった。
わたしはうなる。
「父さんにはしてもいいけど、母さんはまずいかも」
わたしの子供ができたなんてきいたら、どれほど彼女は取り乱すだろう。表面で変化がなくとも、きっととどめとなるような追い討ちをかけてしまうだろう。
「そうか、じゃあ、お父さんにだけ話しておこう……俺が話しておくよ」
「うん……」
窓のそとをながめながら返事をした。
(栗栖崎もタクシーで帰ったんだろうな。大学に直行したかな)
そんなことをおもった。
車でそんなに距離はなかったが、待ち合わせの時間が夕方だったせいもあり、タクシーからおりると日がかげっていた。
「じゃあ、俺はこのまま北川のとこによっていくから。加西、また電話するからな」
「ああ。あつこによろしく」
手をふって能見をのせたままのタクシーを見送った。
ほんの十メートルさきに、中学、高校と居候した家がある。大好きな家だ。
木造の二階建て。土地はたっぷりあるのにちいさくて、そのまわりの空間がゆたかだ。
庭の奥手にある木々はちいさな林とも呼べる。
サシミの産んだ子犬たちがそのあいだをかけまわっていたのを、マンションにこもりきりになるまえまで、よくここで見ていたものだった。
日が沈みだして風がでてきた。
気温がぐっぐとさがりだしている。門を見つめたまま立っているわたしを、容赦なく寒気がまといついてくる。
(風、つよいなぁ…………)
家のまえで、そうおもったとこまでは覚えている。