16
あつこと寝たのはその日だけだ。
二十時頃、帰るというと車でおくってくれた。
家は電気がついてなくて、とうぜん栗栖崎はいなかった。そのまま暗い居間の中央に裸足で立って、ぼんやり色のカーテンを見ていた。
からだから甘い香りがしてくるようだった。
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その後、いつまで続くのかというくらい出口のない日々がつづいた。堰とめておくそばから、なにかがぼろぼろと流れていく。
ふたりで腕をのばし、とどめようとする。
もう少しだ、という気はしていた。
もう少ししたらなんらかの結果があらわれる。
わたしは栗栖崎のなかの自分を必死でさがし、それを見つけ出しては、分身だと確信し、邁進していくなにかにふみつけられても耐えていられた。
夏から秋になり、冬がきて、また年があけた。
どこかの省で研修中だといっていた能見純一が、その知らせをもってきた。
栗栖崎とわたしは近くの喫茶店によびだされていた。
アンティークの家具しかおいてない紅茶専門店。
住宅街の奥にあって、目立つところが全然ない。宣伝はまったくしておらず、近所で知るひとぞ知る店だった。
グレーのロングコートに、黒のマフラー、その下は休日だというのに隙のないスーツすがたの能見が待ち合わせ時間ぴったりにあらわれた。
コートを入口であずけ、冷たい容貌のまま、店員に「ロイヤルミルクティ」とつげる。
丸テーブルに四脚椅子。木枠の窓からは葉のない木々がのぞめる窓際の席。
「明けましておめでとう、というのも時期おくれだな」
ずれたメガネを指でなおしながら能見は口をひらいた。一月下旬、わたしはセーターにウールパンツ。栗栖崎は綿のタートルネックにボトム。
「それで、わざわざ文治と顔をそろえさせて、なにを知らせたいって?」
休日返上で研究室にこもっている栗栖崎は、こうやってひっぱりだされてきたのが不本意らしかった。なんでも大学に電話があって強行されたそうだ。
「ああ」
そう返事をしながら、視線をすこしおとしたまま能見は話しださない。
やさしい香りのする紅茶がテーブルにおかれ、ずっと待っているわれわれに頓着せず飲みだす。
「――本当に、美味いな」
「ここ、あつこにきいたんだろ?」
わたしはいった。わたし自身もここへはあつこが最初に連れてきてくれたのだ。
「そうだ。北川にきいたんだ。ここの店も、子供のことも」
「子供?」
「ああ。北川はいま、妊娠五ヶ月だ」
カップを鳴らしたのは栗栖崎だった。じっと能見を見ていたかとおもうと、よこにすわっているわたしの腕をきつくつかんできた。
「痛っ、なんだよ」
「栗栖崎、加西の腕をはなせ」
「文治……なぜだ……?」
つかむ手をゆるめず、わたしの顔に顔をちかづけてくる。わたしはゆっくり顔を能見にむける。
「――その子供って、俺とあつこの?」
落ちついた店内で、黒い木の丸テーブルごしに座っている能見は、見なれないスーツを着こなし、感情などもたないひとのように見える。
だが、彼はそうではない。
彼が冷静であるように努めるのは、つねにひとのためなのだ。
「ああ」
「そうか……」
「能見、能見、くわしく……話してくれ……」
わたしの腕から手をはなした栗栖崎は、折れたように頭をたれた。
「北川から相談があった。できれば自分の口から話したいのだが、ふたりの反応によっては精神を乱してしまうから俺から告げてほしい、と。お腹に加西の子供ができた。それは間違いないそうだ。だが、加西に父親になってもらうつもりはない。結婚はしない。ひとりで産んで育てる、と」
いったん口を閉じ、わたしたちの様子を見る。
「あちらの親御さんには加西のことはいってないそうだ。おろせともいわれたらしいが、本人の産む意思はかたいな。誰にもくつがえさせることはできないだろう。加西――北川は喜んでたよ」
「そうか」
わたしは微笑んだ。あつこが喜んでいるのならそれでいいとおもった。
「赤ちゃん産まれたら、俺、見に行くよ」
「ああ。そうしてやれ。――北川が気にしてたのは、おまえたちの関係だ。自分の妊娠で亀裂がはいらないかってな」
わたしを見ていた能見の視線がよこにうごく。わたしもつられる。
栗栖崎はテーブルに肘をついて、両手で頭をかかえていた。
「……栗栖崎……どうした」
奴はこたえない。
能見は紅茶に口をつけ、わたしと目が合うと、首をよこにふった。わたしの手元にダージリンと、食べかけのケーキがある。つづきを食べる気になれない。
しぼりだすような声がよこからした。
「文治…………おまえは……僕から離れたよ。文治は、わかってくれてるっておもってたのに……こんな僕にずっとついてきてくれてて…………どうしてだよ…………っ。なんでだ……!? 僕だろう!? 文治の相手は僕じゃないか。いくら文治がふらふらしてても、僕ら、おたがい特別だろう。それで、なんで、他に手をだすんだよ。信じられないよ」
わたしはからだを硬直させて、きき入った。血の気がひく。なにかが急速に遠ざかる。
「栗栖崎」
言葉のないわたしのかわりのように名を呼んだのは能見。
「加西がどうだっただろうと、いまもおまえたちは特別同士だ。それは、俺も、北川も、まわりのみんなが知ってるよ。加西の一番はおまえだ。北川もそれはわかっているし、そんなおまえたちが好きなんだ。高校のときから、おまえたちの繋がりをうらやましがってた。ふたりはずっといっしょだろうってな。俺もそうだ。おまえたちは離れないよ」
「――いや、離れた。離れたよ。結婚したらいいんだ、ふたりで。子供までつくったんだ。家庭をつくったらいい。僕には研究がある。ひとりでもやっていける。文治のことが心配だったし、いっしょが当然だっておもってたけど、もう、そんなの、当然でもなんでもない……。文治が家庭におさまるならそれでいい。僕の相手でなくなったのなら、すきにすればいいんだ」
顔をあげ、目を真っ赤にした栗栖崎が言い放つと、能見が身をのりだし、頬をなぐった。
長い足をのばして、椅子ごと栗栖崎が横転する。
「な……!? お、おい!」
とっさにわたしも立ちあがったものの、唖然とするだけ。
店内のすくない客も店員も、もちろんこちらに注目している。
「自分の相手だったら、好き放題していいのか!? 自分が加西にしたことを棚にあげて、なにを被害者面してやがる。見損なったぞ。なにが日本の最重要頭脳だ。若きエリート科学者だ。頭でっかちで、研究と自分のことしか考えられない人間に、なにごとができるっていうんだ……!
加西を他にくれてやってもいいんなら、そうすればいい。誰もが欲しがるだろう。知ってるだろう? 手離して後悔するのはおまえだ、栗栖崎」
「――能見、文治がほしいならおまえが持ってけよ。おまえなら北川さんも、文治も、ふたりの子供も抱えて世話してやるのなんかお手のものだろう」
頬を押さえながら立ちあがった栗栖崎は、能見を見下ろす。髪が乱れ、目が血走っている。そのままテーブルを離れた。
「栗栖崎!」
店内にひびく大声は能見。
わたしは出口にむかう大きな背中を立ったままながめていた。
コートをうけとり足をとめた栗栖崎は、メガネごしにこっちを見た。いつか見た日のように、左頬が赤い。
低い声が、ここまでちゃんときこえた。
「文治。家に帰ってこなくて、いいから」
レジに金をおいた栗栖崎は、コートをはおり、ドアをくぐって、すぐに見えなくなった。わたしは見えない方向になお首をめぐらした。