15
また昼過ぎにおきた。
居間のソファベッドで寝ていたので、這うようにしてトイレにいった。そこで吐くと、しばらくトイレの壁に気をうしなうようにしてもたれた。
しばらくしてから洗面所に移動し、口をゆすぎ、蛇口から水をのんだ。キッチンのテーブルには白いおにぎりが三つ皿にのり、ラップがかけられていた。
無感動の目でそれらを見ると、居間の隅に積んである衣装ケースからTシャツをひっぱりだした。ジーパンはソファのしたに落ちていた。
(……やっぱり、そろそろバイトも行かないとな……)
それを理由にして、わたしは家をでた。鍵もわすれずにかける。からだは寝ていろ、と訴えていたが、気分がすぐれなかった。
(蝉)
まだ蝉がわんわん、鳴いている。外にでるとむわっとした空気がまといついてくる。帽子もかぶってない頭が、じりじりとやけてくる。額から汗がながれてくるのはからだが痛いせいだけでなく、暑さも荷担しているだろう。
駅まで徒歩十分。日差しを反射するアスファルトのうえを、たしかめるようにしてあるいた。子供の声が、並んでいる住宅からきこえてくる。その声がやむと、遠くに車のはしる音がするのと、蝉。自分のあるく音。それだけ。
(暑い……)
いつの間にか駅だった。日差しにはいったら意識が生きかえった。いつも財布をいれているお尻のポケットに手をいれて、忘れてきたことに気づく。
四つならぶ改札口をながめた。入っていけない。
掲示板のよこにもたれる。
(もう、引き返すのは嫌だなぁ……のど渇いた……財布がない。飲めない。行けない。――栗栖崎に迎えに来てもらうか)
栗栖崎は携帯電話をもっていたが、大学では電源を切っていた。奴に連絡をとるには研究室にかけるしかない。
わたしは携帯電話をもっていない。何度もたされてもなくしてしまう。必要な電話先の番号は暗記していたので周囲もそれでしぶしぶ納得したものだった。
売店に近づいた。おばさんがひとり。
「十円ください」
****
『――はい、北川です』
「あれ、あつこ……?」
わたしは握っていた緑の受話器をおもわず見つめた。
『ブンちゃん!? そうよ、わたし。どうしたの』
「え、いや、間違った。いま天竺駅なんだけど、栗栖崎に迎えに来てもらおうかって……ごめん、切るな」
『待って、わたしが迎えに行ってあげる。すぐよ。待っててね』
「あ……」
通話が切れた。
もらった十円で、いまさら栗栖崎にかけることもできない。待つしかない。
日差しのなかにあるガードレールに腰をかけた。顔をしかめる。腰掛けるのはやめて、また壁にもたれる。
(おかしいな……研究室の番号にかけてたはずなんだけどな)
駅のむかい側には大型スーパーがある。
(……タクシーで家まで帰って、待っててもらって財布とってきたら良かったのかな)
頭が回らなかった。もともとそういうことには回らない質だ。それにタクシーより、あつこの迎えのほうがいいに決まっている。あつこは車の免許を持っている。栗栖崎は免許を持っていない。奴に迎えに来いといったところで、やはりタクシーなのだ。
スーパーまえをクラシックでかわいい車がとおった。円を描いて、駅のターミナルにはいってくる。
「ブンちゃん!」
車窓をさげて手をふった女性に、周囲にいた何人かがふりかえった。しはらく視線がそのままになっている。
「あつこ、ありがとう」
わたしが助手席にのりこむと、あつこが息をのんだ。
「――ブンちゃん、どうしたの……病気……?」
「ううん」
ゆっくりと車がうごきだす。左座席で運転するあつこは、ノースリーブだ。腕と脇が見える。
「家に行ったらいいのね?」
「うん。バイト行こうとしたのに財布わすれちゃって」
「バイト……今日はやめたほうがよくない?」
「でもなー」
流れる景色を見ていた。あるいて十分なのに、車だと回り道しなくてはならず倍かかる。
「――あつこ、今日、学校は」
「休みよ。まだまだ夏休み中。ちょうど実家に帰ろうかなって外にでる用意してたとこなの。ね、バイトやめてわたしの家にこない?」
「そうだな――ね、俺、のどすごく渇いてるんだ」
背もたれにふかく沈んで、よこを見れば、あつこがこっちをチラッとだけ見て、破顔した。
わたしがあつこの部屋に行く気になったのは、緑ヶ丘サンハイツの部屋にいるには、疲れていた。
****
耳がみえる長さのヘアースタイルもあつこに似合っていた。すこし染めているのか、顔があかるく、活発に見える。
あつこのマンションの部屋は、全体が、淡いグリーンで統一されていた。そのなかにゴツゴツとした機材が棚に並んでいる。
「あれ、まえ来たときより、増えてない?」
つづけて麦茶を三杯のんで、わたしは周囲の変化を見つけた。
「そうなの、これ、まえから欲しくてね。ライカよ。バイトして貯めてね」
棚から、大事そうに黒いカメラを手にとると、あつこは構えて、ガラスコップをもったままでソファにおさまっているわたしを見た。
ファインダーごしにわたしのなにを見たかは知らないが、カメラをおろしたあつこの顔は、スイカを持ってきた日の周介に似ていた。
(――そういえば、あれって昨日だな)
膝に手のひらのぬくもり。
あつこが並んでこしかけて、わたしをのぞきこんでいる。
「……ブンちゃん……」
わたしの髪をなでると、肩に額をおしつけてきた。
「どうかした?」
「ううん……。ただね、わたしブンちゃんのこと、高校のときから好きだっておもってた。いまもおもってる。いまもすごく好きだなーっておもってる」
「ふうん……」
わたしもあつこのことが好きだ。昔も、この時も、今も。
「わたしとも寝て、ブンちゃん」
壁にかかった雪原の大きな写真が涼しげで、わたしは目を奪われていた。腕にやわらかい感触。よこをむくと、あつことキスをしていた。
手をひかれて奥の寝室に行ったのは、疲れていたから本当に眠りたかったからかどうなのか。
あつこの胸を頬にして眠れたら、さぞ気持いいだろうとはおもっていた。
ベッドに腰掛けたわたしの服を脱がしながら、あつこは息をのんだり、小さな声でなにかいったりしていた。
「なに?」
「ううん、これ、痛くない?」
「ちょっと……」
「だよね……」
わたしの頬をなで、キスをすると、立ったまま手早く服を脱いだあつこが、ゆっくりベッドに押し倒してきた。
あわいグリーンのシーツ。柔らかいからだ。いい香り。痛くないキス。
わたしは目を閉じた。