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分身  作者: みやしろちうこ
第2部
12/56

12

 栗栖崎の病状はすすんだ。

 病気というか、わたしの目からはむしばまれているように見えていた。だんだんと本人にもわかってきたのか、居間のベランダから外を、ただじっと立ちつくし、ながめていた。

 大学に入って三年。

 いっしょに家をでて、マンションの一室にうつって三年。


 栗栖崎がおしつぶされるようになって三年。



****




 わたしは夜中に目がさめた。

 しばらくしてとなりの部屋のドアがひらき、黒い影がでてきた。キッチンのほうへ行き、わたしの眠るソファベッドに足音を殺して近づいてくる。

 見下ろされているのがわかった。

 閉じていた目をひらき、ぼんやりした影が栗栖崎のかたちに見えてくるのを待った。


「文治……」


 ほとんどきこえないような呼びかけ。

 枕元に膝をつくと、タオルケット越しにわたしの腕にさわった。夏だった。

 大学のながい夏季休暇のあいだも寸暇をおしんで栗栖崎は大学の研究室にかよっていた。わたしはたびたび実家へ帰っていたが、もどるとよりいっそうひどい状態の栗栖崎から目がはなせなくなり、この時期にはずっとマンションにいた。


「文治…………起きてるか……?」

「ああ」

 仰向けに寝たままのわたしにおおいかぶさり、栗栖崎の手が肩と、首のうしろにまわった。

 熱い息が頬にふれたとおもったら、ぬれた唇がわたしの唇にかさなってきた。

 舌でわたしの歯と歯のあいだをこじあけると、栗栖崎がわたしを抱く手にちからをこめた。勝手に頭の角度をかえられる。

「……ん、……っん」

 口のまわりがぬれてくる。おもいのほか舌をつよくすわれつづけると痛かった。

 のしかかっていた肩に腕をつっぱねると、栗栖崎はのろのろと上体をおこした。暗い室内で見上げた奴の顔は、メガネがなく無防備で、ちいさく丸い目が、とても暗かった。


 無言でなにかをわたしに伝えようとしている。


 それは本人もはっきりとわかってはいないだろう。わたしもわかっていなかった。だが、とうとう黒いものが栗栖崎をここまで追いつめたのだ。


 とてもきれやすい堤防のようになってしまった彼。



「――好きだ、文治……」

 わたしは声をださずにそっと笑った。

 たしかに奴はわたしのことが好きだろう。だが、こういうのではなかったはずだ。あるいはそうだったのか。ただ、わたしにはこういう場合ではそういうものなんだろう、それをこいつはちゃんというのだなぁと、可笑しかった。


「そうか」

 ちょっと栗栖崎をきどって返事をした。


「ずっとだ……離れないでくれ……」

 そういうと、全身をわたしにあずけるようにかさなってきて強くだきしめてきた。

 タオルケットがどけられ、おたがいのパジャマがはだけられると、奴の手がわたしの首筋から、胸、腹、わき腹とそっと撫でるようにながれた。それを何度もくりかえし、口も何度もかさねあった。


 栗栖崎がだんだんすごい集中力をそそぎこんでくるのがわかる。わかってきてようやく、わたしのからだに恐怖がはしった。身を震わす。

「…………栗栖崎……」


 そういうこと、こういうこと。なんとなく知ってはいたし、保健の授業は興味があった。

 あつこをはじめ、女性の胸にはいつも畏敬の念を抱いていた。



「あ……う……」

 タイマーにしていた冷房が切れたのだろうか、だんだん暑くて暑くてしかたなくなっていった。おたがい汗だくでどこかしらからだを密着させている。


「ぶんじ……」

 栗栖崎が、わたしの行方がわからず心細いような声をだした。

「あ、あ……」

「……ぶんじ……」

 わたしはくぐもった悲鳴をあげた。栗栖崎が痛いほど腰をつかんでくる。

「ああ――あああっ……」


 あとは泣いただけのような気がする。






*****





 あの夏の夜。わたしはわたしの分身を抱きしめた。壊れて、消えようとしていく奴のなかの一部となっているわたし。


 伸ばされた手をつかむのは当然のこと。

 わたし自身もずっと奴を助けるすべをさがしていた。


 ああ、こうやって奴のなかの堤防をいっしょに守るのだとおもった。

 わたしと深くつながればそれだけ奴のなかのわたしも強くなるだろう。そうおもっていた。





*****





 けだるい夏がつづいていた。

 アルバイトは夏休みになるとボランティアが増えるので、そんなに行く必要がない。それを幸いと、アスファルトに濃い影をつくる日差しに目をほそめていた。

 


 最初の夜、わたしに血がでたことに動転した栗栖崎は、翌日、大学にいかなかった。

 トイレに行っておおさわぎするわたしをほっておけなかったのだろう、それと自分が原因のせいもあって四日連続でマンションにいた。

 そのうち電話がかかり、家のまえまで同僚が様子を見にくるようになって、ふたたび毎日でかけるようになった。


 わたしを抱きしめたり、キスしたりするのは頻繁だったが、最初のような無茶はしなかった。

 それでも全然しなくなったわけでもない。

 繋がりが必要だったのだろう。


「――研究したよ」

 栗栖崎がテイクアウトしてきた中華の夕飯を食べているときだ。

 蝉が、近所の公園の電灯で昼と勘違いして鳴きつづけている。


 ミーン ミーン ミーン……


「なんの」

 薄皮の春巻きが好きだ。

「今日、……いっしょに寝ようとおもって……」

 だんだんちいさい声になりながら、うつむいて奴はいった。


「ああ、そうなんだ」

「うん」

「ふうん」




 栗栖崎は大学に通い、自分をけずり、自分を見失い、わたしをだきしめて生きていた。

 しかしそんな奴とわたしのことが誰にわかっただろう。おたがいが分身同士だなんて、だからこそできることだということだなんて、わたしたち以外にはなかなか理解できないことだ。




 シャワーからでてベランダのガラスにうつる自分を見つめたあと、居間の電気を消して、奴の部屋にはいった。

 整理された室内。それでも物はあふれている。ベッドにたどりつくまでに雑誌を三冊ふんだ。


 先にベッドでよこになっていた栗栖崎は、よんでいた書類をベッドサイドにおいた。うすい上掛けをめくって、わたしを迎え入れる。

「栗栖崎……」

「なんだ」

 ながい腕がのびてくる。

「蝉」

「ああ……」

「あんなに鳴いたらすぐしんじゃうな……」


 みじかい命がさらにみじかく。




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