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CUPID━キューピッド

 Cupid━キューピッド━

 

昼食を取る為に外出した綾子は、街路樹に隠れてビルの入口を見ている若い男性を見付けた。

 

直ぐに、昨日の夕方、同じ場所で、同じ様にビルを見ていた人物と同一人物だと判った。

 

昨日の風景を、そっくりそのまま再現している。

 

ルリとは逆で、一度見た顔は絶対に忘れない。

 

このビルには、いくつもの会社がテナントとして入っているのから、自分が勤める会社に用があるとは限らない。

 

どの会社に用があるのか?

 

何の為にそこに居るのか?

 

男性に興味を持った綾子は、少しの間だけ彼を観察してみようと思い、入り口近くのベンチに腰掛けると、カモフラージュの為に、バッグから携帯電話を取り出す。

 

男性━昭仁の方と言えば、自分が観察されているとは思いもせず、目立たない様に、人通りが激しくなった頃を見計らって、人込みに紛れてビルに近付いた。

 

入り口横の壁に、テナント名が書かれたプレートが掲げられていると知って、手元の名刺を一度見てから、プレートに目と指を走らせる。

 

綾子は、昭仁の指先が、自分の勤める会社の名前の上で止まったのを見逃さなかった。

 

直ぐにベンチから立ち上がり、思い切って声を掛けてみる。

 

「あの」

 

背後から声を掛けられて、飛び上がる程驚いて振り返る。

 

昭仁の顔を間近で見て、ミュージシャンの岡野昭仁だと確信した。

 

「驚かせてしまってすみません」

 

謝ってからバッグから名刺を取り出して、昭仁に渡す。

 

名刺を受け取った昭仁が名刺に目を通すのを確認してから━。

 

「私どもの会社に、何かご用でしょうか?」

 

尋ねながら、昭仁の手にある名刺に目を走らせる。

 

ルリと違って視力の良い綾子は、名刺に書かれたルリの名前を見逃さなかった。

 

「その名刺…」

 

手に持っている名刺を見られたと知って、慌てて隠そうとした。が、もう遅いと諦めた。

 

「大橋に、何かご用ですか?」

 

「はい。あの…大橋さんは?」

 

綾子の訝しげな顔を見て、気まずく思った。

 

絶対に、怪しい人間だと思われているに違いない。

 

相手が初対面でも、嫌われるのは嫌だった。

 

「今日は、出勤してますか?」

 

「大橋は、昨日から休暇を取ってます。あの…」

 

最後の一言は、今までの様に事務的な声と話し方ではなく、素に近い。

 

「失礼ですけど、大橋とは、どういった関係ですか?」

 

「それは…」

 

そう言ったきり、困った様な笑みを向ける。

 

目の前の女性は、ルリとどのくらい親しいのだろうか?

 

何処まで話せるのか、判らない。

 

勘の鋭い綾子は、昭仁の態度を見て、何かあると感じ取った。

 

「時間、あります?」

 

「え?」

 

「私、これから昼食に行くので、付き合って下さい」

 

「付き合うって…」

 

昭仁のはっきりしない態度を見て、強引に行くべきだと判断した。

 

「時間が無いの」

 

戸惑っている昭仁の腕を掴むと、無言で歩き出した。


 ×××

 

昭仁と綾子の二人は、会社近くのレストランに居た。

 

昭仁は気まずげに俯き、綾子は、昭仁の微かな表情の変化も見逃すまいと、身を乗り出して昭仁の顔を見つめて向かい合っている。

 

綾子の自己紹介は終わり、ルリと親しい友人だと知って、何処まで聞かれるのか、何処まで話して良いのかと、密かに悩んでいた。

 

「あなた…」

 

綾子の声を聞いて、何を言われるのかと緊張する。

 

「ミュージシャンの岡野昭仁よね?」

 

一応、周りに聞こえないように声のトーンは落としている。

 

綾子は、目の前の人物がミュージシャンの岡野昭仁だと確信していながら聞いてみた。

 

確認の為と言うより、昭仁の人間性を確かめる為に聞いた。

 

嘘を付くのか、上手くごまかそうとするのか、それとも、素直に認めるのか。

 

昭仁は無言で、少し照れながら頷いた。

 

嘘は嫌いだったし、ごまかして後で責められるのも怖かった。

 

綾子は納得した様に頷くと、イスに深く腰掛けて、無言で昭仁を見つめる。

 

ルリから昭仁の事は聞いていない。と言うことは━。

 

「ルリ━大橋と知り合ったのは社外よね?」

 

そう聞いたのには理由がある。

 

ルリと綾子の二人は、仕事でもプライベートでも、どんなに些細な事でも報告や連絡をするくらい深い仲なのだ。

 

社内で会っていれば、その日のうちに綾子に話している筈だ。

 

お互い、初対面の客が居れば、若いとか、ハンサムだとか、変わった人だとか、必ず話題にのぼるのだ。

 

プライベートでは、恋愛の話もする。

 

だが、ルリから彼の事は聞いていない。だから社外で会ったのだと思った。

 

綾子が思っていた通り、昭仁は「はい」と答えた。

 

「知り合ったのは何時?」

 

聞かれて、ルリと知り合った経緯いきさつを素直に話した。

 

嘘を付く必要は無い。

 

「先週末の金曜日━」と聞いて、ルリが恋人と別れた日だと思った。が、何も言わずに昭仁の話を聞く。

 

ルリが怪我をして、病院へ連れて行ったことを話した。が、病院からの帰りに高熱を出して意識を失い、自宅へ泊めたことは言わなかった。

 

隠さなければならない事ではないが、わざわざ他人に話す事でもない。

 

「あの子が振られるところを見ていたのね?」

 

綾子の鬼の様に怖い顔を見ると、「見た」と答えたら酷く怒られるのではないかと思ったが、後で嘘を付いたことがばれて責められる方が怖かったから、正直に「見たよ」と答えた。

 

「笑顔で別れを告げてた」

 

「やっぱり…」

 

不安げな顔で溜め息をつくと、昭仁が不思議そうな顔で綾子を見る。

 

「あの子、厳しい時程笑顔になるの。あまり落ちる子じゃないんだけど、一度落ちるとなかなか浮上出来なくて。今回は婚約までした相手だし、もっと酷いかも…」

 

確かに、泣きたい程辛い時は、涙より笑みが顔を見せる。

 

昭仁も同じだ。が、それは、一番危険な状態を表す。

 

「心配だな…」

 

昭仁の口から溢れた無意識の言葉を聞いた綾子の目が、妖しく輝いた。

 

昭仁の反応は、綾子が思っていた通りの反応だった。

 

「ルリの事が好きなの?」

 

敢えて疑問形で聞いた。

 

単刀直入に質問されて、答えに困った。

 

「好き…なのかな? 気になって仕方ないし、あの大きなギャップには惹かれてます」

 

自分の気持ちに嘘を付かない昭仁を見ていて、気分が良かった。

 

「連絡先は聞いてる?」

 

「いいえ」

 

「私が教えても良いんだけど━」

 

それじゃ面白くないわ━と、何かを思い付いたのか、昭仁の顔を見る綾子の顔には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。

 

「今夜、一緒に行ってみる?」

 

綾子の顔を見て、悪戯を思い付いた子供の様だと思った。 

「一緒にって?」

 

「もちろん見舞によ」

 

バッグの中から名刺を取り出して、その裏に携帯電話の番号を書いて昭仁に渡す。

 

「今夜6時に電話してちょうだい」

 

昭仁の都合や意見は一切聞かない。

 

昭仁が優柔不断で、申し出を断れない性格なのだと、少し話をしただけで見抜いてしまった。

 

ルリが今まで付き合ってきた男達とは、真逆のタイプだった。

 

「ルリと付き合って、ルリの心の傷を癒してほしいの」

 

「僕が?!」

 

驚く昭仁に対して、綾子はいたって真面目だった。

 

冗談で言っているのではないと思った。

 

「恋の傷は、恋で癒すべきでしょ?」

 

「僕で良ければ」

 

綾子の考えに共感し、ルリに惹かれていた昭仁に、断る理由は無かった。

 

「でも、どうして僕なんですか?」

 

昭仁の質問を先読みしていたのか、直ぐに答えが返ってきた。

 

「ルリは、一度落ちたら浮上出来ないって言ったでしょ?」

 

昭仁に話した内容は、こんな事だった。

 

ルリは意外と惚れっぽく、その人の外見を見て意識し始める。

 

だが、外見を好きになっても、性格的なところで許せないところを見付けると、一気に熱が冷めるのだ。

 

そんなルリは少し変わり者で、なかなか付き合える男性を見付けられない。

 

綾子と知り合った頃に付き合い始めた恋人も、前の別れから一年以上が経って、沢山の友人からの紹介があったから見付けられたのだ。

 

その彼とは、些細な事が原因で喧嘩になって、破局を迎えてしまった。

 

その後、かなり落ち込み、食事も喉を通らなくなってしまった。

 

段々と弱っていくルリを見ていられなくなった友人達が、何人もの男友達を紹介して、やっと付き合うまでにいたったのが、先日別れてしまった婚約者なのだ。

 

一年半付き合い、婚約までした相手からの裏切りは、ルリの心に深い傷を残した筈だ。

 

「見たところ、まだ落ちてはいないみたい。多分、あなたの存在があるからよ。ルリは、助けてくれたあなたの事が気になって仕方ない筈だわ。あなたに迷惑を掛けたって気になってる筈よ。あの子は、そんなところから相手を意識し始める、変わった子なの」

 

喜んで良いものなのか、複雑な気持ちだったが、彼女の落ち込んだ姿は見たくないと思った。

 

「僕で力になれるなら何でもします」

 

「じゃあ、今夜、電話して」

 

綾子の言葉に、昭仁は無言で頷いた。


 ×××

 

ルリはソファーに座り、一人悶々としていた。

 

手には、一枚のCDが握られている。

 

偶然見付けたCDのジャケット写真を見ていると、何故か昭仁を思い出す。

 

それもその筈で、ジャケットの人物は昭仁なのだ。が、あまりハッキリ写っていない写真と雰囲気の違いが、昭仁だと思わせなかった。

 

安静にしていたからか、足の痛みもかなり取れた。

 

仕事も、休暇を取って時間が出来た。

 

昭仁の所へお礼に行かなくちゃ━と思うが、恥ずかしい姿を見られたと思うと、なかなか行く決心が付かない。

 

それでも、助けてもらってお礼に行かないわけにはいかない。

 

決心すると、ソファーから立ち上がった。

 

元々、クヨクヨと悩むのは嫌いだった。

 

思い立ったら直ぐに行動に移るのが、ルリの良い所だ。

 

バッグを手に取った時、ドアベルが鳴った。

 

これから出掛けようと思っていたのに━と苛立ちを感じながら、ドアを開ける。

 

そして、ドアを開けた姿勢のまま、凍り付いた。

 

ドアの前には、困った様な苦笑を浮かべている昭仁が居た。

 

驚きで言葉を失っていると、ドアの陰から綾子が顔を出した。

 

「ビックリした?」

 

綾子の悪戯っぽい笑みを見て、綾子が企んだのだと気付いた。

 

「綾子」

 

「入れてくれないの?」

 

ルリが怒り出す前に、説明しなければならない。

 

「どうぞ」

 

憮然とした態度で二人を招き入れる。

 

昭仁は礼儀正しく「お邪魔します」と言って入ったが、綾子は何時も通りだ。

 

ルリがドアを閉めてリビングへ行くと、綾子は所定の位置━TVの正面に置かれたソファーに腰掛けて、昭仁は、どうしたら良いのか判らず、ドアの前に立っていた。

 

ルリがリビングへやって来て「どうぞ」と勧められて、初めてソファーに腰掛けた。

 

「彼がね、ルリの事を心配して会社に来てくれたのよ。それでここに案内したんだけど、いけなかった?」

 

「いけないなんて」

 

キッチンでコーヒーを淹れながら、二人を見ないで言う。

 

コーヒーを淹れていたせいもあるが、昭仁に下着姿を見られたと思うと、恥ずかしくて昭仁の顔を見られない━と思っていたが、実は違った。

 

ルリは、昭仁を異性として意識し始めていた。

 

異性として意識し始めると、相手の顔を見られなくなる癖が、ルリにはあった。

 

無意識の行動だから、ルリ本人は気付いていない。が、ルリの事をルリ以上に知っている綾子は、ヤッパリと思った。

 

何とかして二人きりにしたいと、色々考えた。が、なかなか良いアイデアが浮かばずにいると、綾子のバッグの中で携帯電話が鳴った。

 

電話の相手を画面で確かめると、後輩の亜由美だった。

 

仕事での呼び出しだと思った。

 

「もしもし?」

 

話しながら、リビングを出て玄関へ行く。

 

30秒程で戻って来た綾子は、申し訳なさそうな顔をしていた。

 

「亜由美ちゃんから呼び出しだわ。1時間くらいで戻れるけど、先に帰っててちょうだい」

 

ソファーに置いてあったバッグを持つと、二人の返事を聞かずに出て行った。

 

残された二人は無言になり、気まずくなった。

 

向き合って座り、お互いに俯いている。

 

昭仁は、自分の思いを伝えるのは今しかないと思った。

 

「あの…」

 

意を決して顔を上げる。が、ルリの顔を見ると、言葉が出てこない。

 

「足の怪我は?」

 

聞きながら、自分を情けないと思った。

 

「お蔭様で、すっかり良くなったわ。有り難う」

 

「体調も良さそうだね」

 

「ええ。ご心配を掛けたみたいで、本当にごめんなさい」

 

「心配したのは、君と縁があって、偶然あの場所に居たからだけじゃないよ」

 

「え?」

 

綾子が二人きりにしてくれて、チャンスを与えてくれたのだ。

 

綾子の気持ちを台なしにしたくない。

 

「ルリさんの事が好きなんだ。付き合ってくれないかな?」

 

恥ずかしくて耳まで赤くなっていたが、真っ直ぐルリを見つめる。

 

「冗談でしょ?」

 

昭仁の告白から逃げる為の言葉ではない。昭仁の言葉が信じられなかった。が、昭仁の真摯な目を見て、本気だと気付いた。

 

「本気だよ。知り合った時から気になって、放っておけなくて、護りたいって思ったんだ」

 

ルリは、戸惑いを隠せなかった。

 

「あの時は助けてもらって感謝してるわ。でも…」

 

どう見ても昭仁の方が年下で、年上の自分の事を好きになるとは思えなかった。

 

昭仁の言葉は、昭仁の事を異性として意識し始めているルリにとっては凄く嬉しかった。が、それ以上に、不安の方が大きかった。

 

別れたばかりで自分に自信を無くしている今、年下の彼氏の心が若い女性に揺らいでも引き留められる自信は無い。

 

例え年上と付き合ったとしても、若い女性に気持ちが行かないとは言い切れない。が、その可能性は年下よりも低いだろう。

 

「気持ちは凄く嬉しいけど、付き合うのは無理よ」

 

「どうして?」

 

昭仁の純粋な瞳を見て、胸が苦しくなった。

 

彼と付き合って、恋人の関係が長く続くとは思えない。

 

何時か、必ず自分よりも若い女性を選ぶのだ。

 

傷付くと判っていて付き合える程、ルリは強くなかった。

 

「年下はタイプじゃないの」

 

思ってもいない言葉を口にして、傷付いた様子の昭仁を見て、心が痛んだ。

 

自分の心が傷付かないように嘘を付いて、昭仁の心を傷付けた。

 

泣きたい程心が痛んだが、本当の事は言えなかった。

 

そして昭仁は、ルリの言葉が嘘だと見抜いた。いや、嘘だと思いたかった。

 

ルリが人を傷付ける筈がない。

 

また強がっているだけだ。

 

実際、目の前のルリは、苦しそうな顔でそっぽを向いている。

 

「俺、諦めないよ。俺の事を好きにしてみせる」

 

急に昭仁が立ち上がり、ルリは酷く驚いた。

 

「これ、俺の携帯電話の番号です。ルリさんはきっと教えてくれないだろうから、綾子さんから聞きます。良いですよね?」

 

昭仁の事を知っている人間が見たら、こんなに強引な彼を見たことがないと、酷く驚くだろう。

 

ルリは何も言えず、ただ昭仁を見上げるだけだった。

 

「また来ます」

 

深々と頭を下げると、ルリを振り返ることもなく出て行った。


 ×××


落ち込んだ気持ちでルリのマンションを出ると、女性の声が昭仁の名前を呼んだ。

 

驚いて顔を上げた綾子の目の前には、不思議そうな顔の綾子が居た。

 

綾子は二人の事が気になり、亜由美からの呼び出しを断って戻って来たのだ。

 

「帰るの?」

 

「帰ります」

 

元気の無い昭仁を見て、何かあったのだと察した。

 

「何かあったの?」

 

聞きながら、何があったのか想像出来た。

 

「振られました」

 

やっぱり━と思う。

 

ルリの事は、ルリ本人よりずっとよく判っている。

 

婚約を破棄されたばかりの今、自分に自信を無くし、これ以上傷付きたくない、何も信じられないと思っているだろう。

 

だが、ルリが何を言ったとしても、それは本心ではない。

 

ルリは、確実に昭仁を異性として意識している。

 

何か切っ掛けがあれば、直ぐに恋愛感情へ変わる。

 

昭仁の告白は、その切っ掛けになった筈だ。

 

「一度振られただけで諦めるの?」

 

綾子の挑戦的な目を見て、「まさか」と否定した。

 

「何度振られても諦めませんよ。でも、流石に一発目はキツイかも…」

 

「ルリが何て言ったか判らない━まあ、大体の予想は出来るけど━でも、本心じゃない筈よ。判ってあげて」

 

「判ってます。確かにへこんでるけど、大丈夫です」

 

「頼もしいわね」

 

心の底からそう思った。

 

「ルリさんの電話番号、教えて下さい。ルリさんには話してあります。かなり強引ですけど」

 

昭仁の“強引”と言う言葉を聞いて、気弱そうに見えるが、いざという時は男らしく行動出来るのだと、感心した。

 

「OKを貰ったんなら良いわよ」

 

綾子は快く了解して、ルリの携帯電話の番号を教えた。


 ×××

 

綾子と別れた昭仁は、真っ直ぐ、仕事場であるレコーディングスタジオへ向かった。

 

ドアを開けて入って来た昭仁を見た仲間達は、直ぐに昭仁の異変に気付いた。

 

挨拶をした後は終始無言で俯き、何か考え込んでいる様子で、仲間達が声を掛けても、気持ちの篭っていない生返事が返ってくるだけだった。

 

そんな昭仁を見た仲間の一人が、ソファーに座る昭仁の隣に腰掛ける。

 

「どうした?」

 

そう尋ねたのは、昭仁とは高校からの親友━緒方晴彦だった。

 

「何かあったのか?」

 

晴彦に聞かれて、苦笑を向ける。

 

「いや、何でもないんだ」

 

昭仁の言葉が嘘だと、長い付き合いの晴彦は見抜いた。

 

昭仁が嘘を付く時、絶対に相手の目を見ない。

 

今も昭仁は目を逸らして、晴彦を見ようとしない。

 

「俺に嘘は通用しないの、判ってるだろ? 悩みなら言ってみ?」

 

優しく言っても、なかなか話そうとしない昭仁を見て、悩みの原因に気付いた。

 

大勢の人が居る中で話せない話と言えば、プライベートな恋愛の話だろう。

 

意外と見栄っ張りな昭仁は、他人に弱みを見せようとしない。

 

答えを見付けると、ニヤリと怪しげな笑みを口元に浮かべた。

 

「女か」

 

声のトーンを落とした晴彦の言葉を聞いて、驚いた表情で晴彦を見る。

 

「何で判る?!」

 

否定せず、思わず認めてしまう昭仁が好きだった。

 

「無駄に8年も付き合ってねぇぞ。で? ヒト君を悩ませる女は、どんな女だ?」

 

幼い頃、昭仁が母親から呼ばれていた呼び名で呼び、冗談っぽく言っているが、親身になって相談に乗ってくれる男だと判っているから、腹も立たない。

 

何処か、綾子に似ていると思った。

 

「年上のキャリアウーマン」

 

俯いたまま呟く昭仁の言葉を聞いて、晴彦は酷く驚いた。

 

「年上?! お前が?!」

 

「お前がって、どういう意味だよ」

 

微かな笑みを向けるが、直ぐに真顔になって俯く。

 

笑う気分ではなかった。

 

その反応を見て、昭仁が本気なのだと知った。


「だって、護ってあげたくなる様な、年下の、か弱い女が好みだろ? 年上は護って言うより、護られる感じじゃん」

 

確かに、昭仁の好みは、晴彦が言う通り、背が低くて、華奢でか弱そうな女性だ。

 

その点、ルリは、冷たい印象から、一人でも強く生きられそうな女性に思える。が、昭仁は、強く見えるルリの、本当は弱い心や、意外に少女のように可愛らしい姿を見て、護るべき女性はルリだと思った。

 

「でも年上かぁ。落ち着いて見えるけど、実はお子様なお前には、年上の方が合うかもな」

 

「俺は彼女が好きなんだけど、彼女の方が年下はタイプじゃないって」

 

「年下は頼りないから?」

 

世の中の女性達が、年下の男と聞いてよく言う台詞だ。

 

年上が好みの晴彦は、この台詞で何度か玉砕を食らった事がある。

 

ルリが昭仁を選ばない理由だと晴彦が思うのも当然だ。が、無言で首を横に振る昭仁を見て、不思議に思う。

 

「彼女の親友に相談したんだけど━」

 

綾子の話を所々端折はしょりながら、だが、大切な所は一言一句変えずに伝えた。

 

話を聞き終えた晴彦は、胸の前で両腕を組んで「うーん」と唸りながら考え込んだ。

 

昭仁の話は、大きな驚きだった。

 

今や昭仁は、老若男女問わず、誰もがその存在を知っているアーティストだ。

 

顔や歌は知らなくても、その名前だけは、必ず一度は耳にしている筈だ。

 

そんな昭仁を受け入れない女が居るなんて、信じられなかった。

 

晴彦の好奇心が強く刺激された。

 

「合わせてよ」

 

晴彦がそう言うと判っていたのか、驚きもしないで、溜まりつつあった諦めの感情を溜め息と一緒に吐き出した。

 

「会わせるったって、今週末からツアーだぜ?」

 

「だから、その前に会わせろよ。連絡先は聞いてる?」

 

「知ってるよ」

 

「俺が話すから掛けてよ」

 

強引な晴彦に対して、絶対に嫌と言えない昭仁がそこに居た。

 

渋々ながら、ソファーの上に丸めて置いてあった上着のポケットから携帯電話を取り出す。

 

戸惑いながらも、ルリの番号を選ぶ。

 

発信ボタンを押そうか、それとも止めようかと悩んでいると、横から晴彦の手が伸びてきて、昭仁の手から携帯電話を奪い取り、相手の名前を確かめる。

 

「ルリさんか」

 

独り言の様に言うが、目は、シッカリと昭仁を見ている。

 

オロオロとしている昭仁を見る目は、何かを企んでいる目だった。

 

昭仁は、晴彦の指先が動くのを見た。

 

小さな声で「あ」と言ったが、晴彦はお構い無しだった。

 

昭仁の耳にも、受話器の向こうのルリの声が微かに聞こえた。

 

━もしもし?

 

受話器の向こうのルリの声は、訝しげだった。

 

さっき別れたばかりなのに、一体何の用だろう━と思っているのではないかと不安になる。

 

「初めまして。昭仁の友人の晴彦って言います」

 

物怖じしないのが晴彦らしい。

 

「昭仁からあなたの話を聞いて、是非会ってみたいと思って電話したんです。これから会えませんか?」

 

━これから?

 

「駄目ですか?」

 

晴彦の甘える様な声を聞いて、ルリの母性本能がくすぐられた。

 

晴彦は、年上に対する甘え方を妙に心得ている。

 

晴彦は昭仁と逆に年上が好みで、年上としか付き合ったことがない。

 

━判ったわ。

 

会う場所と時間の約束を取り付けた晴彦は、笑顔で電話を切った。

 

電話を昭仁に返しながら、自慢げな顔で昭仁を見る。

 

台詞を付けるとしたら「どうだ!」と言うのが、一番しっくりくるだろう。


 ×××

 

居酒屋の前に、昭仁の姿があった。

 

お気に入りのニット帽を目深に被り、黒縁のダテ眼鏡を掛けて、左右をキョロキョロと見回しながら、ルリを待っている。

 

会いたいから、来てほしい。

 

だが、振られたばかりで会わせる顔がないから、来ないでほしい━そんなジレンマを抱えていた。

 

振り返った時、角から現れたルリを見付け、嬉しくて、口元が緩んだ。

 

昭仁の前に立ったルリは、照れた様な笑みを浮かべた。

 

男性に呼び出されたのは何ヶ月振りだろう?

 

婚約者が居た頃でも、ルリが呼び出さなければ、何日も会えない日が続く。

 

だから、毎回ルリが呼び出していた。

 

「急に呼び出したりしてごめんね」

 

「大丈夫よ。最近引き篭っていて、ストレスが溜まっていたの」

 

「良かった。皆が待ってるんだ」

 

待っているのは友人の晴彦ではないのかと疑問に思ったが、昭仁に背中を押され、疑問を口に出す暇もなく、居酒屋へ入って行った。


 ×××

 

個室のドアを開けると同時に、沢山の拍手と男の雄叫びが溢れて、ルリは酷く驚いた。

 

昭仁が皆と言ったのが理解出来た。

 

個室には、昭仁を含めて、6人の男が居た。

 

ほぼ全員が若い男性で、かなりお酒が入っているのか、テンションは高く、今直ぐ帰りたい気分になった。

 

驚いているルリを見て、まだ状況を話していなかったと思い出す。

 

「皆、僕の大切な友人だよ。今日は久々に全員が集まったから急に飲み会になったんだ」

 

昭仁の話は嘘ではないが、少し言葉が足りない。

 

集まったのは確かに大切な人達だが、友人と言うより、仲間だ。

 

彼等は昭仁の仕事のサポートをするバンドのメンバーで、今日は、久々に全員が集まり、予定より早く終わったレコーディングの打ち上げをすることになったのだ。

 

戸惑っているルリの背中を優しく押して、座るように勧める。

 

右隣に座った昭仁の視線が自分の背後に向けられたことに気付き、左隣を見る。

 

左隣に座る男は、体をルリの方へ向けて、テーブルに肘を付いて笑みを浮かべている。

 

笑顔の理由が判らず、気味が悪いと思いながら、作り笑いで会釈をする。

 

無意識に、昭仁の方へ体を寄せていた。

 

そんなルリを見て、昭仁を信頼しているのだと、その男━晴彦は思った。

 

今、初めて会う自分より、先に知り合った昭仁の方を信頼するのは当然だと思いながら、少し悔しく思った。

 

「さっきは急に電話してゴメンね」

 

ルリとの距離を縮めたくて、言葉を砕いた。

 

晴彦の声を聞いて、彼がさっきの電話の相手なのだと気付いた。

 

彼は自分に会ってみたいと言っていた。だから自分を品定めするような目でジロジロと見ていたのだと納得した。

 

「呼んでいただいて嬉しいわ」

 

ルリのよそよそしい口調と、昭仁に身を寄せる姿を見て、羨ましいと思った。

 

年上が好みの晴彦にとって、ルリはタイプの女性だった。

 

昭仁より先に出逢っていれば、確実に恋に落ちていただろう。

 

そして確実に、昭仁が今まで付き合ってきた女性とは、真逆のタイプだと思った。

 

ルリの何処が昭仁の心を射止めたのか、興味が湧いた。

 

晴彦が何か言おうと息を吸い込んだ時、晴彦の背後から二人の男性が顔を出した。

 

かなり酔っている様で、顔は真っ赤になっている。

 

「質問」

 

背の低い方が右手を上げる。

 

「何処で知り合ったんですか?」

 

「プライベートの昭仁さんって、どんな風ですか?」

 

「何時から付き合ってるんですか?」

 

最後の質問を聞いて、疑問が生まれる。

 

「付き合ってる?」

 

訝しげな顔で昭仁を見る。と、昭仁は赤面して、慌てて否定する。

 

「彼女は━」

 

「何言ってんだよ。ほら、あっちのグラス、空だぜ」

 

気を効かせた晴彦が、目の前にあったビール瓶を渡すと、二人は他のメンバーの所へ行く。

 

「ゴメンね。あいつら酔ってて」

 

晴彦は、昭仁がパニックになって上手く切り抜けられないと思って、昭仁の代わりに謝ったのだが、晴彦に向けた笑みは、明らかに作り笑いだった。

 

その後も、何か話し掛けられても作り笑いを返すだけで、終始つまらなそうな顔をしていた。

 

昭仁と晴彦の二人は、そんなルリに気付いていながら、何も出来ない自分達に苛立ちを感じていた。

 

酔いが皆を完全に支配した頃、上着とバッグを持ったルリが不意に立ち上がった。

 

「どうしたの?」

 

「これからは若い人の時間でしょ? オバサンは退散するわ」

 

「オバサンだなんて」

 

「良いのよ。若い子のノリについていけない私はオバサンだわ」

 

ルリの言葉に返す言葉が見付からなかった。

 

作り笑いを向けてから背を向けたルリを、昭仁が呼び止める。

 

「送って行くよ」

 

立ち上がろうとする昭仁を、ルリが止める。

 

昭仁に対して、苛立ちを感じていた。

 

これ以上、一緒に居られない。

 

「良いの。お友達を大切にして」

 

昭仁はルリの苛立ちに気付いたのか、ルリが止めるのも構わずに立ち上がる。

 

「彼等なら判ってくれるから。それに、酔ってるしね」

 

昭仁は笑顔で言うが、ルリの顔に笑みは無い。

 

部屋を出る時も、店を出た時も、ルリはずっと俯いて昭仁を見ようとしない。

 

鈍感な人間でも、相手が不機嫌だと気付く。

 

どちらかと言えば鈍感な昭仁だが、ルリが不機嫌だと気付いていた。

 

ルリが怒るようなことをしただろうかと考える。

 

思い当たる事は、一つある。

 

ためらいがちに、ルリを呼ぶ。

 

前を歩くルリは、無言で立ち止まる。が、振り返りはしない。

 

顔も見たくない━とでも言いたいのだろうか? と不安になるが、勇気を振り絞る。

 

「もしかして、怒ってる?」

 

「怒ってるわ」

 

昭仁の予想通りだった。

 

「俺、何か失礼な事したかな?」

 

昭仁の言葉を聞いて、弾かれた様に振り返ったルリの顔には、怒りの表情があった。

 

「私を馬鹿にしてるの?」

 

「ちょっと待って」

 

慌てて、何の事か判らないと説明しようとしたが、ルリの勢いに負けて、出来なかった。

 

「私は、何時からあなたの彼女になったの?」

 

ルリが何故怒っているのか、やっと分かった。

 

メンバーがルリの事を昭仁の彼女だと勘違いをしたせいで、ルリは、昭仁が彼等に自分の事を彼女だと紹介したのだと思い込んだ。

 

「私、あなたと付き合うなんて言ったかしら?」

 

「そんな━」

 

彼等が勝手に誤解した━とは言えなかった。

 

「彼氏の居ない女だからってバカにしないで。私の理想は、としうえの男よ。年下の男を好きになる筈がないでしょ」

 

昭仁がきずつくと判っていたが、溢れ出る言葉と沸き上がる怒りは止められなかった。

 

婚約者に裏切られた哀しみと、年下にバカにされた怒りがルリを支配していた。

 

怒りに任せて、言いたくもない言葉を吐き出す様に言うと、昭仁に弁解する暇すら与えず、背を向けて歩き去った。


 ×××

 

ルリが帰ってからきっかり30分後、晴彦が隣に座る昭仁を呼んだ。

 

メンバー達は既に酔っ払い、居眠りをしている者も居る。

 

酔わずにテーブルに向かっているのは、昭仁と晴彦の二人だけだ。

 

昭仁は、ルリの事が気になって考え込み、元々あまり好きではない?お酒に手が伸びず、晴彦は、周りを盛り上げるだけ盛り上げておいて、自分は傍観するのが好きで、あまり飲んでいない。

 

飲み会では、何時も二人が仲間の介抱をする役目だが、今日の二人は、特別酔えない状況だった。

 

「彼女、怒らせちゃったな」

 

晴彦の囁きに「うん」と暗く頷く。

 

好きな人を怒らせて、嫌われたかもしれないと思えば、暗くなって当然だ。が、晴彦は、暗い顔ではなかった。

 

笑みを含んだ目で、昭仁を見ている。

 

「諦めないんだろ?」

 

「勿論」

 

即答だった。

 

一度や二度の失敗で諦める昭仁ではないと、判っていた。

 

「でも、綺麗な人だよな」

 

晴彦の言葉を聞いて、急に不安になる。

 

晴彦の好みが年上の女性だと、今思い出した。

 

彼を信頼しているから、彼がルリを奪い取るような真似はしないと判っている。

 

それでも、ルリを奪われるのではないかと不安になった。

 

今まで、こんな不安を感じたことはない。

 

それだけ、ルリの事を本気で愛してしまったのだ。

 

「汚名挽回しなきゃな」

 

晴彦の言葉を聞いて、頭を振って悪い考えを追い出した。

 

「ライブに招待したら? 旅行も兼ねて、北海道とか沖縄とか。初めは北海道だよな。温泉とか、旅行っぽくて良いなぁ」

 

自分の世界に入ってしまった晴彦を見て、もう彼の妄想を止められないと思った。

 

「よし! 俺に任せろ。悪いようにはしないよ」

 

晴彦に対して、絶対に「嫌だ」と言えない昭仁が、そこに居た。


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