雨宿り
雨宿り
外は雨だった。
この梅雨の時期の雨は決して珍しくないが、ここまで激しい雨は珍しい。
カサを差さずに外へ出れば、あっと言う間に不快なくらい濡れてしまう。
バケツをひっくり返した様な雨━と形容するのに、これ以上相応しい雨はない。
暇潰しの為の散歩の途中で雨に降られて、この喫茶店には、一時的な雨宿りのつもりで入った筈だった。それなのに、雨は一向に止む気配はない。
面倒臭そうに、壁の掛け時計を見る。
時計の針は、6時を指していた。
一人の男性が、慌てた様子で入って来た。
興味を持って男性を目で追うと、一人でコーヒーを飲んでいた女性の元へと駆け寄る。
女性は怒っている様子で、男性はそんな女性に対して頭を下げて、ただひたすら謝っている。
きっと、二人は待ち合わせをしていて、男性は遅れて来たのだろう。
店内を見回すと、週末の夕方に相応しく、殆どのテーブルはカップルで埋まっている。
それでも、そのうちの何人かは、彼と同じように、雨宿りの為にこの喫茶店へ入ったのだろう。
苛立った表情で自分の腕時計を見てから席を立つと、支払いを済ませて店を出て行く、サラリーマン風の中年の男性。
携帯電話で誰かに電話をして、迎えに来てと頼んでいる、OL風の若い女性。
そんな人々を観察してから深い溜め息を吐いて、恨めしげに外を眺める。
恨めしげに━と言うのも当然で、雨宿りの為にこの喫茶店に入ってから、既に2時間が経とうとしていた。
暇を持て余し、急いで帰らなければならない用事もなかったし、これだけ酷い土砂降りはそう続かず、直ぐに止むだろうと思ったから、雨宿りをすることにした。
だから、まさか2時間近くも足止めを食らうとは思ってもいなかった。
雨は、止むどころかより激しくなり、今では、バケツをひっくり返したような土砂降りになった。
出来ることなら、誰かに迎えに来てくれと電話したい。
何があっても、絶対に断らない友人が一人居る。
だが、短時間の散歩のつもりで家を出て来たので、携帯電話は置いてきた。
公衆電話から電話するにしても、生憎と、相手の電話番号は記憶していない。
間抜けな自分に苛立ちを覚え、この状況を抜けられないと諦めた。
激しい雨に白く霞む窓の外をボンヤリと眺める。
道行く人々は深くカサを差して、足元を気にしながらも、足早に昭仁の前を通り過ぎる。
何も考えずにボンヤリと人々を眺めていた昭仁の目が、一人の女性を捉えた。
女性は、この激しい雨の中、カサも差さずにそこに立っていた。
スーツ姿のその女性は、長い黒髪を後ろで一つに束ねて、黒縁眼鏡を掛けている。
キャリアウーマン風の、少しきつい、冷たい印象を受ける美人だ。
正直に言うと、昭仁のタイプとは真逆の、どちらかと言えば苦手なタイプの女性だった。
確かに、タイプではない昭仁の目を引くくらいの美女だったが、昭仁が気になったのは、彼女の美しさだけではない。
女性の前には、黒いカサを持った、スーツ姿の男性が立っている。
向かい合って立っているところを見ると、女性の連れなのだろう。
右腕にはカバンを持ち、左手には黒いカサを持っている。が、この激しい雨の中、女性をカサの下に入れず、一人カサの下に居て、女性はびしょ濡れだ。
男なら、自分は濡れても、女性は濡らさないように、優先的に女性をカサの下に入れるだろう。
口の動きなど読めないが、女性の口が「サヨナラ」何て酷い男だ━と思うと同時に、もしかしたら別れ話をしているのかもしれない━と、直感が言った。
別れ話をしているから、男はカサを差し出さず、女も暗い顔で俯いているのかもしれない。
以前、自分も同じシチュエーションで、付き合っていた恋人と別れたことがある。
もし、自分の直感が当たっているなら、こうして観察を続けているのは失礼だ━とは思ったが、事の成り行きが気になって、目が離せなかった。
真剣な顔の男性の口が動いている。
何か話しているのだろうが、口の動きを読む能力など持ち合わせていない昭仁には、何を言っているのか判らない。
女性は、悲しげな笑みを浮かべた。
女性の口が「サヨナラ」と動いたのは、昭仁にも判った。
笑顔で別れを告げる女性を見て、強い女性だと思った。
冷たい美貌と強い心━正に昭仁の苦手なタイプだ。
男も安堵した様な笑みを向けると、背を向けて歩き去った。
呆気ない、さっぱりとした別れだ━と思ったが、何故か女性から目が離せなかった。
目の前で起きた破局の場面に、酷い違和感を覚えた。
どんなに強い女性でも、笑顔で別れを受け入れられる筈がない。
女性は暫く歩き去る男の後ろ姿を見つめていたが、その背中が人混みに紛れて見えなくなると、ユックリと俯いた。
女性の細い肩が、微かに上下している。
泣いているのだと直ぐに判った。
彼女は強い女性などではない。ただ強がって見せただけなのだ。
ユックリ背を向けて歩き出した女性は、何かに躓いたのか、見事に転び、その場に座り込んだ。
昭仁の所にコーヒーのオカワリを持って来た若い男性店員も、彼女が転ぶところを見ていたのだろう。「あっ!」と、小さな声を上げた。
驚いて店員を見ると、店員も、気まずそうな顔で昭仁を見ていた。
昭仁と目が合った店員は、気まずそうに作り笑いを向けた。が、何の反応も見せない昭仁を見て、咳払いを一つすると、逃げるようにその場から歩き去った。
店員の後ろ姿から、窓の外の女性に視線を移す。
女性は、まだ道路に座り込んだままだった。
女性に、救いの手を差し延べる者は居ない。
道行く人々は、女性に目もくれず、邪魔臭そうに顔を顰めて避けて歩く。まるで、ゴミか石ころの様な扱いだ。
それでも、女性はその場から動かなかった。
あまりにも長い時間動かない女性を見ていて、不意に心配になった。
動かないのではなく、怪我をして動けないのではないのかもしれない。
泣いている彼女を見ていなければ、強い女性だから━と、心配はしなかっただろう。
女性が心配になり、このまま傍観者でいられなくなった昭仁は、女性の所へ行く為に店を出ることにした。
支払いを済ませる為にレジへ行くと、さっき、昭仁の所へコーヒーのオカワリを持って来て、女性が転ぶ姿を見て小さな声を上げた店員が居た。
昭仁の顔を見た店員は、何か言いたげに口を開いたが、言葉は出て来なかった。
支払いを済ませて、お釣りを貰おうと右手を差し出す。が、なかなかお釣りが貰えず、不思議に思って店員を見る。
店員は、お釣りを握ったまま、何か言いたげに昭仁を見ると、無言のまま窓の外へと視線を移す。
窓の外には、あの女性が同じ姿勢で、同じ所に座っている。
店員は、タイミング良く店を出る昭仁に、彼女を助けてもらえたら━と思ったのだ。
今直ぐ店を飛び出して女性を助けに行きたいが、そんな事をすれば、きっとこの喫茶店をクビになるだろう。
店員の気持ちを感じ取った昭仁は、微かな笑みを向ける。
この街の人間は、他人に関心の無い人間ばかりだと思っていたが、冷たい人間ばかりではないのだと、少し見直した。
昭仁の微笑を見た店員は、自分の思いが昭仁に伝わったと感じ取り、明るい笑みを浮かべた。
“任せろ”と言う気持ちでいたが、自分が店を出る間に女性がその場から居なくなっていても、それはそれで仕方ないと思った。
あの女性とは、縁が無かったのだ。
だが女性は、昭仁が店を出ても、女性の背後に立っても、ずっと同じ姿勢で、同じ場所に居た。
「大丈夫ですか?」
声を掛けても、女性の耳に昭仁の声は届いていないのか、反応しない。
女性は、これ以上ないくらい雨に濡れていたが、このまま雨に打たれているのは可哀相だと思って、着ていたジャケットを脱ぐと、女性の細い肩に掛ける。
女性は一瞬、体をビクッと震わせてから、肩に掛けられたジャケットを見て、その後、背後に立つ昭仁をゆっくり振り返った。
心配そうな顔で自分を見ている昭仁を見て、泣いている様な笑みを向けた。
「有り難うございます」
女性の声を聞いて、少し安心した。
「立てますか?」
女性の隣にしゃがみ込み、右手を差し出す。が、昭仁の手を借りずに一人で立とうとした。
女性は足を痛めたのか、腰を少し浮かせただけで、小さな悲鳴を上げた。
ハイヒールの踵は無残にも折れて、右足首は、赤く腫れてきている。
「掴まって」
今度は素直に昭仁の手を借りて立ち上がり、ガードレールに腰掛ける。
女性を立たせてみて、初めて見た目とのギャップに気付いた。
遠くから見ていた時は、女性にしてはかなりの長身で、モデル並の身長があるのだと思っていたが、こうして隣に立ってみると、170cmに数Cm足りない小柄な昭仁と、あまり身長差がない。
10cmのハイヒールを履いていてあまり身長差がないのだから、かなり小柄なのだろう。
雨の中、パタパタと駆け寄って来る足音が背後から聞こえて来た。
何気なく振り返って見ると、駆け寄って来るのは、あの喫茶店のあの若い店員だった。
店員は昭仁の前で立ち止まり、右手に握られたカサを差し出す。
「使ってください」
照れ臭いのか、時間が無いのか、早口で言うと、逃げる様に喫茶店へ戻って行った。
昭仁は心の中で礼を言ってから、カサを開いて女性の上へ差し出す。
「有り難うございます」
礼を言いながら昭仁を見て、彼が濡れていることに気付いた。
「あなたが濡れるわ」
「僕は大丈夫。それより、足は大丈夫?」
昭仁の好意を嬉しく思い、それ以上は言わなかった。
苦笑を浮かべながら、自分の足を見る。
「このハイヒール、お気に入りだったのに」
自分の足よりもハイヒールの方を気にしている女性に、苦笑を向ける。
明らかに腫れている足を心配させまいと戯けて見せているのか、それとも、本当にお気に入りのハイヒールが台なしになって残念に思っているのか?
後者だ━と、思った。
足は、誰が見ても捻挫だと判るくらい腫れている。
「捻挫だね。病院へ行こう」
「大丈夫です。これ、有り難うございました」
肩に掛けられたジャケットを取ろうとする手を、昭仁が掴んで止めた。
「一人で歩けないでしょ?」
「でも、この近くに病院は無いわ。それにこれは罰よ…」
最後の一言は小さな呟きだったが、昭仁の耳は聞き逃さなかった。
「バチ?」とつい聞き返して、直ぐに恋人との別れの事だと気付いた。
今までの出来事を観察していたのだと知られたかもしれない━と気まずく思い、ユックリと、探るように女性を見る。
女性は、真っ直ぐ昭仁を見つめていた。
女性の大きな瞳を真っ直ぐに見た昭仁は、心の奥深くまで見透かされそうな気がして、気まずそうに作り笑いを浮かべて目を逸らした。
昭仁の明らかに変な態度を見て、全てを見られていたのだと察した。
「見ていたのね」
責める口調ではなく、囁く様な口調だった。
悲しげな笑みを浮かべる女性を見て、申し訳ない気持ちになった。
何か言い訳をしようと言葉を探したが、言い訳が嫌いな昭仁に言い訳のための言葉は見付けられず、無言で苦笑を向けることしか出来なかった。
「人通りが激しいんだもの、見られていても仕方ないわね」
女性の一言で、救われた気持ちになった。
安堵の笑みを浮かべて女性を見て、その笑みは直ぐに消えた。
笑顔でいるのに、その大きな瞳からは、大粒の涙が溢れていた。
「私が仕事に追われて、彼との時間を大切にしなかったから…」
涙と一緒に溢れ出た言葉に返す言葉が見付けられず、無言で俯く。
視線の先には、酷く腫れた女性の足があった。
「取り敢えず病院へ行こう。僕も一緒に行くよ」
「大丈夫です」
「でも痛むでしょ?」
「大丈夫」と答えたかったが、酷く痛んで、足を地面に付けることすら出来ない状態だった。
「迷惑掛けたくないって思ってるなら気にしないで。僕が勝手にしてることだし、ここでこうして会ったのも何かの縁だもん。最後まで面倒見させてよ」
昭仁の優しさを嬉しく思い、その優しさに甘えてみようと思った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
今までとは違う、控え目で美しい微笑を見た瞬間、女性に心奪われた。
もっと彼女の笑顔を見たい。もっと彼女を笑顔にしたい。そう思った。