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「ね、潤。これ、飲んでみて」
図書館の裏手、いつものテラス席。
帆夏がテーブルの上にコトンと置いたのは、見たこともない細長いボトルだった。
すりガラスのような質感のプラスチック容器に、流麗なアルファベットで何やら書かれている。高級ブランドの香水瓶のようにも見えるが、中身は無色透明の液体だ。
今日の帆夏は黒いオーバーサイズのパーカーのフードをすっぽりと被っている。国民的女優のオーラを完全に封印し、まるで日陰で育つシダ植物のような佇まいだ。
「帆夏さん、これは? 魔女の秘薬かい?」
「や、水だよ。今日の撮影現場で、美容に凄くこだわってる共演者の女優さんからもらったの。これ一本で、五百円するんだって」
「ごっ、五百円!?」
俺は思わず裏返った声を出した。
五百円といえば、安いスーパーならワンコイン弁当が買える金額だ。俺の感覚では、自動販売機の水は百十円が上限であり、それ以上は富裕層の道楽である。
「500ミリリットルで五百円? 1ミリリットル1円のレートか。ガソリンより高いんじゃないの」
「や、300ミリリットルしか入ってない」
「さらに高騰したね」
俺はボトルを手に取り、ラベルの裏を読んだ。
『北欧の氷河が数万年の時を経て濾過された、奇跡の天然水。あなたの細胞を目覚めさせる、ピュアなバイブレーション』
「……帆夏さん、これ、ただの古い水じゃないの? 数万年放置されてたってことでしょ?」
「ふふっ。放置された水って言い方……けど、私もそう思ったよ。でも、その女優さんが『これを朝飲むと、チャクラが開くの』って言ってて。私、自分のチャクラがどこにあるのかすら知らないんだけど」
帆夏は黒いパーカーの袖から指先だけを出して、その高級ウォーターを指差した。
「私一人じゃ、怖くて飲めないの。私の貧相な細胞が、この数万年のバイブレーションに耐えられるか分からなくて。だから、潤も一緒にチャクラを開いて」
「チャクラは開かないし、その人とは距離を置いた方がいいと思うよ」
そうは言いつつも、俺はボトルのキャップを捻った。
プシュッという微かな音がして、北欧の空気がテラスに解き放たれる。もちろん、ただの無臭の空気だ。
俺たちは給水コーナーから持ってきた紙コップにその奇跡の水を半分ずつ注いだ。
見た目は完全に水だ。当たり前だが。
「じゃあ、乾杯しようか。俺たちの閉じたチャクラに」
「ん……乾杯」
俺たちは紙コップを軽く合わせ、同時に口に含んだ。
舌の上を転がし、喉の奥へと流し込む。
目を閉じ、数万年の氷河の記憶にアクセスしようと試みる。
五秒後。俺たちは同時に目を開けた。
「……どうだった、帆夏さん?」
「うん。……冷たくて、濡れてる」
「そうだね。見事なまでに水だね」
俺は紙コップの底を見つめた。
「強いて言うなら、口当たりがまろやか……な気がしないでもないけど、それは『五百円もするんだからまろやかであってくれ』という俺の脳の願望が作り出した錯覚かもしれない」
「ふふっ、私も同じ。なんかこう、喉を通り過ぎる時に大自然の風景が浮かぶとか、細胞がプチプチ弾けるとか、そういうのを期待したんだけど。ただの水分補給で終わっちゃった」
帆夏はがっくりと肩を落とした。
「潤、私たちダメみたい。せっかくの高級品なのに、水道水との違いが全く分からないよ。舌が安くできてるのかな」
「悲観することはないよ、帆夏さん。水なんて、結局のところ細胞を潤すためのツールに過ぎないんだから」
俺は残りの高級ウォーターを一気に飲み干し、紙コップを潰した。
「そもそも、人間に必要な水分摂取のあり方なんて、生物界全体から見ればひどく非効率で大げさなんだ」
「え、また動物の話?」
「そう。カンガルーネズミという生き物がいてね」
帆夏が「また始まった」という顔をしながらも、パーカーのフードの奥で少しだけ身を乗り出した。
「や、ちょっと待って。カンガルーネズミって、ネズミなの? カンガルーなの?」
「一応、ネズミの仲間だよ。後ろ足が長くてピョンピョン跳ねるからそう呼ばれてる。彼らは北米の砂漠地帯に住んでるんだけど、一生の間、一滴も液体の水を飲まないんだ」
「えっ!? 水を飲まないでどうやって生きてるの?」
「乾燥した種子だけを食べて生きてる。彼らの体は驚異的な代謝システムを持っていてね。食べた種子が体内で消化・分解される時に発生する『代謝水』っていう微量の水分だけで、生命を維持できるんだよ」
「体の中で水を作ってるってこと?」
「そういうこと。さらに、彼らの腎臓は超高性能で、オシッコはドロドロのゼリー状になるまで水分を濃縮して排出する。呼気から逃げる水分さえも、鼻の粘膜で回収するんだ。徹底的なリサイクルだよ」
俺は空になったボトルを指差した。
「彼らから見れば、300ミリリットルに五百円も払って、わざわざ北欧の氷河から水を運んできて飲んでいる人間なんて、滑稽の極みさ。チャクラを開く前に、もっと腎臓の機能を高めろって鼻で笑われるよ」
帆夏は感心したように、大きく頷いた。
「そっか。カンガルーネズミ先輩に比べたら、私たちの味覚なんてどうでもいい問題だ」
「その通り。水の違いが分からないのは、俺たちが哺乳類として真っ当に生きている証拠だ。高級な水を有難がるのは、資本主義に毒された脳だけだよ」
俺の強引な自己肯定理論に、帆夏はふっと笑った。
「潤って、本当に屁理屈の天才だね。でも、おかげで貧相な味覚に落ち込まずに済んだよ」
「どういたしまして」
俺は立ち上がり、ポケットから小銭入れを取り出した。
「さて……向こうの自販機で100円の麦茶でも買ってこようかな。俺たちの舌には、焙煎された大麦の泥臭い味がお似合いだよ」
「ふふっ。大賛成。私、あの麦茶大好き。香ばしくて、ちゃんと『味』がするもん」
帆夏は立ち上がり、空になった五百円のボトルをゴミ箱に捨てた。
カコン、とプラスチックの乾いた音が響く。
数万年の氷河の旅は、この図書館の裏手で、あっけなく終わりを告げた。
「ね、潤」
「ん?」
「あの女優さん、今度『月の光を浴びた特別な塩』をくれるって言ってたんだけど」
「絶対に受け取りを拒否しなさい。俺たちの舌では、食卓塩との違いを見抜けずに再び敗北感を味わうだけだからね」
「ふふっ。だよね。目玉焼きにはアジシオが一番美味しいし」
俺たちは並んで、自販機へと歩き出した。
テラスの木漏れ日が、帆夏の黒いパーカーに落ちている。
売れかけの女優と、無職の男。
どんなに周囲の環境が変わっても、俺たちの舌と胃袋は、チープで確かな味を求め続けている。
その事実が、俺にはなんだか、とても心地よかった。
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