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忙しいという字は「心を亡くす」と書く。誰が言ったか知らないが、実に的確な表現だ。
「……ね、潤。私、光ってる?」
図書館の裏手、いつものテラス席。久しぶりにここに現れた帆夏が、唐突にそんなことを聞いてきた。
今日の彼女は、グレーのスウェットに、黒いニット帽。マスクを顎まで下げて、ベンチに深く沈み込んでいる。
その姿は、光るどころか、闇に溶け込む保護色そのものだ。
「光ってないよ。むしろ、ブラックホールの手前まで行ってる」
「だよね。でもさ、マネージャーが言うの。『今の帆夏ちゃんは発光してる! オーラが出てる!』って」
帆夏は重たい溜息をつき、手にしたコンビニのおにぎりをじっと見つめた。
「最近、記憶がないの。朝起きたらロケバスに乗ってて、気づいたらスタジオで泣く演技をしてて、また気づいたらバラエティで激辛料理を食べてるの。私、ワープしてるのかな」
「それはワープじゃなくて、脳がシャットダウンしてるだけだよ。緊急停止ボタンが押されてるんだ」
「そっか。……私、このまま加速して、光の速さを超えたらどうなるの?」
「物理学的には時間が止まるけど、生物学的には過労死するね」
俺は読みかけの文庫本を閉じ、彼女の顔を見た。
確かに、疲れている。目の下のクマはコンシーラーで隠しきれないほど濃いし、肌も少し荒れている。
芸能人としての輝きは、彼女自身の生命力を燃料にして燃えているのだろう。
「ね、潤。何か面白い話して」
帆夏が縋るような目で言った。
「無茶ぶりだね!?」
「私の脳みそを、どうでもいい知識で埋め尽くしてほしい。台本とかスケジュールとか、そういう重たいデータを、ここの無駄な日常で上書き保存して欲しいんだ」
無茶なリクエストだが、彼女の瞳は切実だった。
俺は少し考え、テラスの木陰を見上げた。
そこには、何も急がず、ただ風に揺れている葉っぱがあった。
「……帆夏さん。ナマケモノを知ってる?」
「知ってるよ。動かない動物でしょ? 今の私の憧れ」
「人間っていうのは面倒だよね。仕事を欲しがってた帆夏さんが、売れた途端に仕事を嫌がるなんてさ」
「学生時代にいたでしょ? 部活やバイトを面倒くさがる人。あれと同じだよ。ないものねだりなんだ。で、ナマケモノが何なの?」
「彼らはね、一日二十時間は寝てるんだ。食事も睡眠も交尾も出産も、全部木の上で済ませる究極の引きこもりだ」
「最高じゃん。来世は絶対ナマケモノになる」
帆夏が目を輝かせる。しかし、俺は続けた。
「でもね、彼らは動かなさすぎて、体に苔が生えるんだ」
「……え、苔?」
「そう。湿気の多い熱帯雨林でじっとしてるから、毛の中に藻類が繁殖して、体が緑色になる」
「うわぁ……不潔」
「違うよ。これは高度な生存戦略なんだ。苔が生えることで、周囲の緑に溶け込んで天敵に見つかりにくくなる。つまり、彼らは『動かないこと』で、世界と一体化してるんだ」
俺は帆夏のニット帽を、ポンと叩いた。
「帆夏さんも今、少し苔が生えかけてるよ」
「えっ!?」
帆夏が慌てて自分の頭を触る。
「比喩だって。忙しすぎて心が停止しかけてるから、周囲の風景と同化し始めてるってこと」
「……なんだ。焦った」
帆夏は安堵し、おにぎりのパッケージを剥いた。海苔のパリパリという音が、静かなテラスに響く。
「でもさ、潤。ナマケモノって、そんなに動かなくてお腹空かないの?」
「彼らは筋肉が少なくて、基礎代謝が極端に低いんだ。だから、葉っぱ数枚で生きていける。しかも、消化するのに一ヶ月かかることもあるらしい」
「一ヶ月!? コスパ良すぎない?」
「その代わり、満腹になると死ぬこともある」
「えっ?」
「胃の中の葉っぱが発酵してガスが溜まりすぎて、呼吸困難になるらしい」
「……弱い。弱すぎるよ、ナマケモノ」
帆夏がおにぎりを食べながら、クスクスと笑った。久しぶりに見る、彼女の自然な笑顔だ。
「いいんだよ、弱くても。彼らはそれで数百万年も生き残ってきたんだから」
俺は言った。
「無理に速く動こうとしなくていい。苔が生えるくらいゆっくりでも、それが帆夏さんのペースなら、誰も文句は言えないさ」
「……そっか。苔かぁ」
帆夏は口元についた米粒を取りながら、空を見上げた。
「ねえ、潤。私にも苔が生えたら、取ってくれる?」
「嫌だよ。汚い」
「ひどい! 『僕がその苔ごと愛してあげるよ』とか言えないの?」
「言わないよ。俺は無職だからね。メンテナンスの費用は請求する。利益がない限りはやらないって」
「ケチだなぁ」
帆夏は笑い、俺の肩にコツンと頭を預けてきた。
重い。
物理的な重さではなく、彼女が背負っているものの重さが、少しだけ伝わってくる気がした。
「……少しだけ、ナマケモノになる」
「どうぞ。二十時間くらい寝ていいよ」
「うん。……おやすみ」
帆夏は本当に目を閉じてしまった。
木漏れ日が、彼女の顔にまだら模様の影を落とす。
それはまるで、彼女を守る苔のようにも見えた。
俺は文庫本を開き直した。
ページをめくる音だけが、二人の時間を刻んでいく。忙しい世界の中で、ここだけは時が止まっている。
発光しなくてもいい。ただ、ここで息をしていてくれれば、それでいいと思った。




