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無職と売れかけの女優の二人でやってきたのはIK〇A。家具量販店だ。
「……ねえ、潤。ここ、どう?」
帆夏が指差したのは、『35㎡ 1LDK ふたり暮らし』というタイトルのモデルルームだ。
北欧風のテキスタイル、コンパクトなソファ、そして壁一面の収納。
いかにも丁寧な暮らしを始めたばかりの若い夫婦が住んでいそうな空間だ。
「悪くないね。でも、この白いラグは罠だよ。コーヒーをこぼした瞬間、家庭崩壊のトリガーになるから」
「じゃ、気をつけて飲めばいいじゃん」
帆夏はそう言うと、勝手に靴を脱ぐフリをして、モデルルームの中に侵入した。
今日の彼女は、大きめのグレーのパーカーに、黒いスキニーパンツ。キャップを目深に被っている。この空間の喧騒に紛れれば、国民的女優だとは誰も気づかない。
「ただいまー」
帆夏が、買いもしないソファにドサッと座った。
「あー、疲れた。今日のパート、マジで地獄だったわ」
「……え?」
俺が面食らっていると帆夏は「即興劇だよ」と微笑みながら言った。
「私は今、パート勤めの主婦。潤は夫」
「なんでここで芝居を……?」
「や、暇だからさ。ほら、合わせてやってよ」
「おっ、おかえり……お疲れ様」
勢いに押され、俺も小声で話を合わせながらソファの隣に座った。二人を密着させるように設計されているんじゃないかというくらいに距離が近い。
「で、どうしたの? 店長にまた小言を言われた?」
「ん。レジの打ち間違いで怒られた。でもさ、お客さんが急かすからいけないんだよ。『ポイントカードはお持ちですか?』って聞いてるのに無視するし」
帆夏はクッションを抱きしめ、ふくれっ面をする。演技が細かい。実際には、レジ打ちの経験があるのか疑うレベルだが。
「それは災難だったね。でも、君の笑顔は0円だけど、プライスレスだよ」
「……何それ。寒い」
「寒くないよ。ここは北欧だからね」
「や、寒いじゃん。オーロラが見えるレベルじゃん」
「室内は寒くないはずだよ。今は室内だ」
「や、確かに。それはそう」
俺たちはソファでダラダラと、架空の愚痴を言い合った。
周りの客が通り過ぎていく。老夫婦は「あら、若いご夫婦ね」と言いたげな視線を投げてくる。
「ねえ、あなた」
帆夏が立ち上がり、システムキッチンの前に立った。
妙に新妻感が板についているのは彼女の演技力由来だろう。
「今日の晩ごはん、何にする? このキッチン、IHだから火力が弱そうなのよね」
「贅沢言わないでよ。俺の稼ぎが悪いばっかりに、ガスコンロも買ってあげられないんだから」
「……そうね。あなたの年収、あと200万は欲しいわ」
「リアルな数字を出すのはやめてくれないかな。胃が痛くなるよ」
俺もキッチンの横に立ち、引き出しを開けた。
中にはカトラリーが綺麗に整頓されている。生活感があるのに、生活臭がない。
「じゃあ、今夜はミートボールね」
帆夏がエア・フライパンを振る仕草をする。
「IK〇Aのレストランで食べて、味を盗んできたの」
「それは横領だね。でも、君の手料理なら何でも美味しいよ」
「……ふふっ。調子いいんだから」
帆夏が笑う。その笑顔は、パート疲れの主婦のそれではなく、新婚の妻のような甘さを帯びていた。
俺は一瞬、ドキリとする。
これは演技だ。分かっている。
でも、この狭いキッチンに二人で立っていると、本当にこういう未来があるんじゃないかと錯覚してしまう。
まぁ、今のままだと俺が主夫的なポジションになりそうなくらいの差があるのだが。
「おい、そこ退けよ」
後ろから声がした。
振り返ると、若いカップルが並んでいた。
「写真撮りたいんだけど。いつまで遊んでんの?」
「「……すみません」」
俺たちは慌ててモデルルームを出た。
幻影は脆くも崩れ去った。
俺たちは新婚夫婦から、ただの客に戻った。
「……追い出されちゃったね」
帆夏が少し残念そうに言う。
「仕方ないよ。俺たちの契約期間は数分だったんだから」
俺たちは順路に従って歩いた。
ベッド売り場、照明売り場、そして小物売り場。まるで一方通行の迷路だ。
「ねえ、潤」
帆夏が、ぬいぐるみのカゴの前で立ち止まった。
そこには、サメのぬいぐるみが山積みになっている。
「サメだ。これ、SNSでよく見る」
彼女は一匹のサメを手に取り、抱きしめた。
「柔らかい。……ねえ、これ買って」
「……はい?」
「必要でしょ? 番犬代わりに」
「サメは番犬にならないよ。それに、サメは浮袋がないから泳ぎ続けないと沈むんだ。俺の部屋みたいな停滞した空間には向いてない生き物だよ」
「じゃ、私が毎日泳がせてあげる。……ガブッ」
帆夏はサメの口をパクパクさせて、俺の腕を噛むフリをした。
「買ってくれないと、食べちゃうぞー?」
上目遣いの美少女にサメ越しに見つめられたら、断れる男がいるだろうか。いや、いない。
「……可愛いぶりっこを演じてる?」
「ふふっ。これが素だったらヤバいって。ゲロ吐きそう」
「いい答えだね。一匹だけだよ?」
「やった! 名前は『ジョーズ君』にする」
「安直すぎるね!?」
俺はサメを抱えた帆夏と共に、巨大な倉庫エリアへと進んだ。
高い天井まで積み上げられた段ボールの山。
ここは、夢の舞台裏だ。
さっきまでの煌びやかなモデルルームが、ここでは無機質な品番と梱包に還元されている。
「なんか、ここ落ち着くね」
帆夏が言う。
「やっぱり? 俺もそう思うよ。華やかな表舞台より、こういうバックヤードの方が性に合ってる」
「私も。……ね、潤」
帆夏が立ち止まり、俺を見上げた。
手にはサメ、頭にはキャップ、そして少し大きめのパーカー。
その姿は、迷子になった子供のようでもあり、世界で一番大切なパートナーのようでもあった。
「もしさ、本当に結婚したら」
「……うん」
「毎日、即興劇できるかな」
「できるよ。朝は『寝坊したパン屋の夫婦』、昼は『駆け落ちした貴族』、夜は『地球防衛軍のパイロット』だ」
「ふふっ。忙しいね」
帆夏は笑い、俺の袖を掴んだ。
「でも、たまには『ただの私たち』でいられる時間も欲しいな」
「……そうだね。サメと一緒に、ダラダラする時間も必要だよ」
俺たちはレジに向かった。
未来の家具は買えなかったけれど、今の俺たちには、このくらいの幸せが丁度いい。
「……帰ろうか、潤」
「うん。帰ろう」
俺たちは自動ドアを出た。
俺の手にはサメ、帆夏の手には俺の袖。「将来住む部屋」はまだ遠いけれど、帰る場所があるだけで、今は十分幸せだと思った。
「ね、ジョーズ君も『お腹空いた』って言ってる」
「ぬいぐるみは喋らないし、飯も食わないよ」
「潤の夢を食べるバクかもしれないじゃん」
「サメだって言ったじゃん。まあ、俺の夢なんて『現状維持』しかないから、不味くて吐き出すと思うけどね」
俺たちは笑いながら、街へと歩き出した。
新作を始めました。
『お天気お姉さんの素顔はダウナー系~地下の備品室で愚痴を聞いてあげていたらアイドル級の美少女に懐かれました~ 』
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