19
神社という場所には、合格祈願、商売繁盛、家内安全といった人間の際限ない欲望が、絵馬という薄い木片に圧縮されて吊るされている。
風が吹くと、それらがカランカランと乾いた音を立てる。
俺と帆夏はその音を聞きながら、境内の砂利を踏みしめていた。
「……ねえ、潤。神様ってさ、時給いくらだと思う?」
隣を歩く帆夏が、突然そんなことを言い出した。
今日の彼女は、くすんだカーキ色のモッズコートを着ている。フードを目深に被り、黒いマスクをしているので、遠目には迷彩服を着た斥候兵に見え、不審者オーラが全開だ。
「さあね。時給制じゃなくて、出来高制じゃない? 願いを叶えた数に応じて、お賽銭からマージンが支払われるシステム」
「ふふっ。だとしたらブラック企業だね」
「なんで?」
「だって、みんな無理難題ばっかり言うもん。『宝くじ当てて』とか『推しと結婚させて』とか『志望校に絶対合格させて』とか」
帆夏は拝殿へと続く行列を見上げ、深いため息をついた。
今日は休日ということもあり、参拝客が多い。
俺たちの前には、七五三の着物を着た子供と、それを必死に撮影する両親、そして大学受験を控えたと思しき学生グループが並んでいる。
「見てよ、あの前の人。もう三分くらい手を合わせてる」
帆夏が小声で囁く。見ると、ずっと同じ赤色の服を着た人が熱心に祈り続けていた。
「……あれだけ長いと、神様もメモ取るのが大変そうだよね。『えーっと、第一志望合格と、彼女が欲しいと、あと身長も伸ばして? 一旦持ち帰って検討します』ってなるよ」
「や、神様もマルチタスクだね。聖徳太子でも十人が限界なのに、ここは一日に何百人も来るだろうから。処理落ちしても文句は言えないよ」
しばらく待って、ようやく俺たちの番が回ってきた。
帆夏は賽銭箱の前で立ち止まり、がま口の小銭入れをチャリチャリと言わせた。
取り出したのは、五円玉が一枚。
「ご縁がありますように」
彼女はそう呟いて、五円玉を放り投げた。
チャリン、という軽い音。あまりにも軽すぎて、神様の鼓膜に届いたか不安になるレベルだ。
そして、彼女は二礼二拍手し、目を閉じて祈り始めた。
長い。
一分、二分、三分。
カップ麺が出来上がる時間だ。さっき批判していた前の人と同じくらい長い。
後ろの参拝客が「あの人、寝てる?」という目で見ていく。俺は「彼女は今、宇宙と交信中です」という顔をして、無言でバリケードになった。
(……長い。たぶん今、二周目に入ったな)
ようやく帆夏が目を開け、最後に深く一礼した。
「終わった。送信完了」
「随分と重たいデータを送ってたね。宇宙と交信してたの?」
「ふふっ。神様が宇宙にいるならそうだよ」
「で、何をそんなに願ってたの?」
「年収一億と、日本アカデミー賞と、あと世界平和。平和じゃない世界でエンタメは生きていけないから」
「……五円でそこまで?」
俺は戦慄した。五円でこの要求具合。クレーマーというより、脅迫に近い所業だ。
「いいんだよ。神様は寛大だから」
「寛大にも限度があるよ。その願いを叶えるための労力、どう考えても赤字だよ。人件費でマイナスだって」
「ふふっ。けどそれを言い出したらみんなそうじゃん。神様っていいやつだよねぇ」
「まぁ、『願いは聞いといた。知らんけど』って精神かもしれないけどさ」
俺はそう言いながら財布を取り出した。
百円玉を一枚。帆夏の二十倍の出資額だ。この格差を見せつけることで、神様に「こいつはまともな客だ」とアピールする作戦だ。
俺は百円玉を投げ入れ、手を合わせた。
(現状維持。現状維持。どうか、今のままの平穏な無職ライフが続きますように。けど、再就職したいと思ったらすぐに決まりますように。あと、最近痛み始めた腰痛が治りますように。あ、それから帆夏の仕事が忙しくなりすぎて、俺との時間がなくなりませんように。けど程々には売れてほしいです)
所要時間、30秒。
俺は一礼して、帆夏の隣に戻った。
「潤は? 何を願ったの?」
「……現状維持だよ」
「つまんないねぇ。もっと夢を見なよ。『石油王になりたい』とか『空を飛びたい』とか」
「石油王になったら、油田の管理や社交で忙しくなりそうだし、空を飛べても行きたいところはないからね」
俺たちは参拝を終え、境内の脇にあるベンチに座った。
ここのベンチは特等席だ。大きな楠の木陰になっていて、参拝客の喧騒から少し離れて人間観察ができる。
「でもさ、潤」
帆夏が、足元に寄ってきた鳩を見つめながら言った。
「五円で一億を願うのと、百円で現状維持を願うの。どっちが神様にとって『いい客』なのかな」
「……どういう意味?」
「私なら、五円で無茶ぶりしてくる客の方が面白いなって思う。だって、その必死さが可愛いじゃん。『こいつ、本気で五円で世界を変える気か?』って。逆に、百円払って『今のままでいいです』なんて言う客は、向上心がないって見なされて、後回しにされる気がする」
帆夏の独自理論だ。しかし、妙な説得力がある。
神様も長いこと社に座りっぱなしで退屈しているとしたら、無難な願いよりも、突拍子もない願いの方を面白がって叶えてくれるかもしれない。
どうせ5円だろうと100円だろうと、願いをかなえる労力に比べたら僅かな金額なのだから。
「なるほど。神様を楽しませるためのお願いだったんだ?」
「ん。でしょ? 私は女優だから。神様という観客を楽しませる義務がある」
「じゃあ俺も、次は五円で『来世は猫になりたい』って願うことにするよ」
「猫? なんで?」
「働かなくていいし、寝てても愛されるから」
「……今の潤と変わらないじゃん」
帆夏は呆れたように笑った。
「愛されてはないけどね……」
「愛されたいんだ?」
帆夏がふふっと笑って俺の方を見てくる。
「別に……」
「ふぅん……ま、無職と付き合うような人はいないか。お願いしとけばよかったじゃん。『彼女が欲しいですー!』って」
「お願いしたところで運命的な出会いをするわけじゃあるまいしさ」
俺がそう言うと帆夏は唇を微かに震わせながら自分を指さした。
「ん?」
意図が分からず首をかしげる。
「や、なっ、なんでもない!」
ぷいっと顔をそらした帆夏の横に鳩がやってくる。
首を前後に振りながら歩くその姿は、何か急ぎの用事があるサラリーマンのようだ。
「そういえば、鳩ってすごいんだよ」
俺は足元の鳩を見ながら言った。
「何が?」
「彼ら、子育ての時『ミルク』を出すんだ」
「えっ? 鳥なのに?」
「そう。ピジョンミルクっていうんだけどね。それを口移しでヒナに与える」
帆夏が「うわぁ」という顔をした。
「しかも、メスだけじゃなくて、オスもミルクを出すんだよ」
「えっ、オスも!?」
「うん。プロラクチンというホルモンの作用でね。だから鳩の世界では、完全な男女平等の育児が行われているんだ」
「……すごい。人間より進んでるかも」
「だね。でも逆に言えば、オスも『俺は男だから』って育児をサボれない」
「神様もさ」
帆夏が、ぽつりと言った。
「ピジョンミルク出してるのかな」
「……は?」
「だって、何万人もの願い事を聞いて、叶えてあげて、見返りは五円玉でしょ? 自分の身を削って、栄養を与えてるようなもんじゃん。神様、過労で倒れないかな」
帆夏は本殿の方を心配そうに見つめた。
「大丈夫だよ。神様には『信仰心』っていう栄養ドリンクがあるから」
「そっか。じゃあ、私がさっき送った『年収一億』の願いも、神様の栄養になってる?」
「なってると思うよ。『こいつ、強欲すぎて元気出るわー』って思われてるはずだ」
「ふふっ。良かった」
風が吹き、絵馬が再びカランカランと鳴った。
その音は、「お前らの願い、どっちも面倒くさいけど聞いてやるよ」という神様の溜息のように聞こえた。
「……お腹空いた」
帆夏が立ち上がった。
「帰りにたい焼き買って帰ろうか。参道の入り口に屋台があったよ」
「賛成。私はカスタード」
「俺はあんこ。……あ、たい焼き代、百五十円か。帆夏さんの賽銭の三十倍だね」
「神様よりたい焼きの方が、確実な幸せをくれるからね。現金なもんでしょ?」
帆夏は悪戯っぽく笑い、俺の袖を掴んで歩き出した。砂利を踏む音が、二人分重なる。
願いが叶うかどうかは分からない。年収一億も、現状維持も、神様の気まぐれ次第だ。
でも、これから食べるたい焼きの温かさと甘さだけは、確実に手に入る未来だ。
隣でカスタードの尻尾まで中身が入ってるかを真剣に心配している彼女がいること。
それだけで、俺の現状維持という願いは、もう半分くらい叶っているのかもしれない。
「ね、潤」
「ん?」
「もし一億もらえるようになったら、潤に一割あげるね」
「一割も? 一千万か。太っ腹だね」
「ん。それでさ……横に……」
帆夏がそこで言い淀む。
「横に?」
聞き返すと帆夏は二ッと笑って俺の脇腹をつついてきた。
「横になってればいいよ。大仏みたいに」
「あるけどさ!? 暇すぎて死んじゃうよ!?」
俺たちは笑い合いながら、鳥居をくぐり、後ろを振り返って同時に一礼をした。




