18
テレビ画面というのは、異界への窓だと思う。そこには、毛穴ひとつない肌と、噛まない滑舌と、整えられた照明に愛された選ばれし者たちが住んでいる。彼らは汗をかいても爽やかで、涙を流しても美しい。
一方、こちらの世界はどうだ。ヨレヨレのジャージを着て、指についたポテトチップスの塩を舐め、膝には猫背の痕がついている帆夏がいる。
同じホモ・サピエンスとは思えない。
「……始まる。ね、吐きそう」
帆夏が呻いた。場所は帆夏のマンション。
照明を落とした薄暗い部屋で、俺たちはピザと酒を用意してその時を待っていた。今日は帆夏の地上波ドラマの放送日。それを3人で見届けるのだ。
今日の帆夏は、いつもの黒ジャージに加え、サングラスまでかけている。自分の出演作を見るのが恥ずかしすぎて、視界を物理的に遮断しようとしているらしい。
「諦めなよ姉ちゃん。今日は『鑑賞会』なんだから。逃げ場はないよ」
テーブルを挟んで、星乃がニヤニヤしながらリモコンを握っている。
「潤……もし私の演技が寒かったら、すぐにテレビのコンセント抜いてね。ブレーカー落としてもいいから」
「無理だよ。このマンションのセキュリティ、俺の権限じゃ突破できないし」
「じゃあ、私の鼓膜を破って」
「物騒なお願いしないでくれる?」
俺はビールを注いだ。炭酸の泡が弾ける音が、処刑前の静けさに響く。
時刻は21時。ついに、ドラマの放送が始まった。
「あ、きた」
オープニング映像が流れる。
主演のイケメン俳優、ヒロインの美人女優。その後に続いて、数人のキャストが紹介される。
そして、『風見 帆夏』が出てきた。同時に、白衣を着てクールにカルテを見る帆夏の映像がインサートされる。
「うわっ! 名前出た! しかも単独!」
星乃が声を上げる。
「……ひぃっ」
帆夏がこたつの中に潜り込もうとする。
「すごいね。モブじゃない。完全に『主要キャスト』の枠だよ」
俺も感心した。
これまでは「死体」とか「通行人」とか、クレジットに名前すら載らない役ばかりだったのに。今回は役名がある。
「役名、『氷室レイ』だっけ?」
「……ん。脇役の天才外科医。感情のないクール系美女」
「つまり、今の帆夏さんそのままだね」
「ふふっ……美女ってところはイジって欲しいんだけど」
酒の入った帆夏が照れながらふにゃりと笑った。
本編が始まった。ドラマはシリアスな医療ミステリーだ。緊迫した手術シーン。
モニターの心拍音が鳴り響く中、医師たちが慌ただしく動いている。
そして、マスク姿の帆夏――氷室レイがアップになった。
『――血圧低下。吸引急いで』
低く、冷たく、それでいてよく通る声。無駄のない手つきで器具を渡す所作。
マスク越しでも分かる、理知的な瞳。
「……」
「……」
俺と星乃は、思わずピザを持つ手を止めた。
画面の中の彼女は、あまりにも美しかった。
照明が彼女の瞳にキャッチライトを入れ、肌の質感を陶器のように映し出している。
そこに目の前にいる帆夏のような生活感のノイズは一切ない。
ただ、プロの女優がいるだけだ。
「……かっこいい」
星乃がポツリと漏らした。
「だね。いつもの『死んだ魚の目』が、ここでは『命を預かる者の冷徹な眼差し』に変換されてる」
俺が言うと、テーブルの下から「やめてぇぇぇ!」という悲鳴が聞こえた。
「見ないで! 解像度を下げて! モザイクかけて!」
「無理だよ。4K放送の高画質が毛穴までくっきり映し出してる」
「毛穴なんてないもん! CGだもん!」
帆夏がサングラスをずらし、涙目で抗議してくる。
その口の端には、さっき食べたスルメの破片がついている。
俺は画面の中の氷室レイと、目の前のスルメ女を見比べた。
(……同一人物とは信じがたいな)
ドラマは進む。
手術が成功し、医局での会話シーン。
主演俳優が熱く語る横で、帆夏は無言でコーヒーを飲んでいる。
その佇まいが、妙にリアルだ。
演技をしているというより、ただそこに存在している。
「姉ちゃん、セリフない時の方が存在感あるね」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてるよ。なんか、画面の温度を2度くらい下げてる」
そして、クライマックス。
病院内で暴れている犯人と対峙する重要なシーン。
犯人がナイフを取り出し、暴れようとする。
周囲が怯む中、帆夏演じる氷室レイだけが一歩前に出た。
『……騒がないで。オペの邪魔よ』
一言。
それだけで、場の空気を制圧した。
犯人が気圧されて動きを止める。
その瞬間の帆夏の目は、完全なる虚無だった。
「おおお……!」
俺たちは思わず声を上げた。
「すごい。今の間、完璧だったね」
「……ほんと? 瞬き我慢しすぎて、コンタクト乾いてただけなんだけど」
「それが功を奏したんだよ。ドライアイが生んだ名演だ」
ドラマが終わり、エンディングテーマが流れる。
黒い画面に、白文字でスタッフロールが流れていく。
【風見 帆夏】
今度は、しっかりとしたフォントサイズで、画面の中央付近にその名前が流れた。
他のベテラン俳優たちと並んで。
決して見逃しようのない、確かな証として。
「……あった」
帆夏が呟いた。
サングラスを外し、食い入るように画面を見つめている。
「大きいね、文字」
「うん。老眼でも読めるサイズだよ」
俺はスマホを取り出し、カメラを起動した。
「記念に撮っておくよ。君が『こっち側の住人』じゃなくなった証拠を」
「え、ちょっと待って、恥ずかしい」
「動かないで。ピントが合わない」
俺はシャッターボタンを押した。
しかし、タイミングが悪く、画面が切り替わった瞬間だった。
「あーあ、ブレちゃった」
星乃が笑う。
「下手くそだなぁ、パイセンは」
俺はブレた写真を確認して、スマホを置いた。
画面の中では、もう次の番組の予告が始まっている。
祭りの後のような静けさが、部屋に戻ってくる。
「……ま、いいさ」
俺はビールの残りを飲み干し、キザなセリフを吐いてみた。
「肉眼というハードディスクには、しっかり保存したからね」
一瞬の沈黙。帆夏と星乃が顔を見合わせる。
「……ねえ、今の聞いた? 姉ちゃん」
「聞いた。鳥肌立った」
「寒いね。エアコンの設定温度上げた方がいいかも」
「だね。潤の寒いセリフで、部屋が冷えちゃった」
二人はケラケラと笑う。俺の扱いの悪さは相変わらずだ。
でも、帆夏の顔は、さっきまでの緊張が解けて、いつものふにゃっとした笑顔に戻っていた。
「でも……ありがと」
帆夏がボソッと言った。
膝を抱えて、テレビの黒い画面を見つめている。
「私、ちゃんと女優になれてたかな」
「なれてたよ。少なくとも、スルメを食べてる時の君とは別人だった」
「そっか。……じゃあ、よかった」
帆夏は安心したように息を吐き、そのままテーブルに突っ伏した。
その背中は、国民的女優のそれではなく、ただの等身大の女性の背中だった。
「お疲れ様。氷室先生」
「……ん。おやすみ、無職患者」
俺たちは笑い合い、散らかったピザの箱を片付け始めた。
エンドロールの文字は消えてしまったけれど、彼女が積み重ねてきた努力の跡は、こうして確かに形になり始めている。
少し遠くへ行ってしまったような寂しさと、誇らしさ。
その両方を噛み締めながら、俺は帆夏の家を後にした。
新作を始めました。
『朝の顔のお天気お姉さんの素顔はダウナー系~地下の備品室で愚痴を聞いてあげていたら懐かれました~ 』
https://ncode.syosetu.com/n0501lu/




