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大学のキャンパスというのは、現代におけるモラトリアムの聖域だろう。
そこでは、社会という荒野で吹き荒れる責任、納税、ノルマといった冷たい風が、アカデミズムの壁によって幾分か遮断されている。
歩いている人間は皆、未来への希望と、単位への絶望という二つの感情をリュックに詰め込み、少しだけ浮足立っている。
俺のような、社会のレールから脱線して横転している無職にとって、ここは最も眩しく、そして居心地の悪い場所のはずだ。
それなのに、俺たちは今、正門の守衛さんの前を堂々と通過しようとしている。目当ては格安で食べられる学食。
「……ねえ、潤。本当に大丈夫かな? 不法侵入で捕まったりしない?」
隣を歩く帆夏が、マスクの下で小声で囁く。
今日の彼女は、グレーのオーバーサイズパーカーに、黒のワイドパンツ。キャップを目深に被り、丸眼鏡をかけている。
普段のオーラを消す擬態に加え、今日は単位ギリギリの文系女子学生という設定を乗っけているらしい。
「大丈夫だよ。大学は『知の広場』なんだから。学びを求める者には常に門戸が開かれている」
「学びなんて求めてないよ。求めてるのはカツカレーだよ」
「食欲もまた、生存への探究心だよ。堂々としてればいいんだよ。キョロキョロすると逆に怪しまれるから、目の前の空間を『自分の庭』だと思って歩くんだ」
俺もまたチェックシャツを着て、背筋を伸ばした。
設定は博士課程に長く居座りすぎて、主と化したオーバードクター。これなら多少の老け感も、アカデミックな貫禄として処理されるはずだ。
目指すは、キャンパスの最奥にある中央食堂。
安くて、量が多くて、カロリーという概念を無視したメニューが揃う、貧乏学生と無職のユートピアだ。
銀杏並木を抜ける。
ベンチではカップルが教科書を盾にいちゃつき、芝生ではサークル集団がギターを弾いている。
青春の過剰摂取で胸焼けがしそうだ。
「……すごいね、潤。空気が若い。酸素濃度が違う気がする」
「彼らは二酸化炭素じゃなくて、希望を吐き出してるからね」
「私、ここにいたら浮いちゃうかな。私の毛穴からは『虚無』しか出てないけど」
「大丈夫。最近の学生はドライだから、虚無属性も一定数いるよ」
食堂に到着した。
自動ドアが開くと同時に、凄まじい熱気と騒音が押し寄せてくる。
数百人の学生が、プラスチックのトレイを持ってひしめき合っている。
揚げ油の匂い、ソースの匂い、そして微かな汗の匂い。
「うわぁ……戦場だ」
帆夏が目を丸くする。
「怯んじゃダメだ。まずは食券を買うよ。一般価格と学生価格があるけど、俺たちは当然……」
「学生価格?」
「いや、一般価格だ。そこはコンプライアンスを守ろう。数十円の差で『詐称』という罪悪感を背負うと、カツカレーの味が濁る」
俺たちは券売機で『名物・ジャンボチキンカツカレー』を購入した。
一般価格とはいえワンコインでお釣りが来る。奇跡だ。
カウンターで食券を出し、おばちゃんからトレイを受け取る。
皿が重い。
ご飯の量が、明らかに茶碗三杯分はある。その上に、草履みたいなサイズのチキンカツが鎮座し、粘度の高いカレーがなみなみと注がれている。
「……潤。これ、兵器だよ」
「残すことは許されないよ。それが学食の掟だからね」
俺たちは空席を探して、広いホールを彷徨った。
昼のピークタイム。どこも満席だ。
窓際の席で、ひとりでノートを広げている男子学生の向かいが空いていた。
「ね、あそこに行こ」
帆夏が俺の肩をつついてその席を指さした。
「えっ、知らない人の前で食べるの?」
「ここでは『個』であることは推奨されないよ。袖振り合うも多生の縁、皿触れ合うも学食の縁だよ」
俺たちは男子学生に「ここ、いいですか?」と声をかけた。
彼はイヤホンをしたまま、無言でコクンと頷いた。
俺たちは向かい合わせではなく、横並びで座った。
「いただきます」
手を合わせ、プラスチックのスプーンを突き立てる。
カレーを一口。
繊細なスパイスの配合などない。ただ「美味いと感じろ」と脳に直接命令してくるような、力強い味だ。
「……ん! 美味しい!」
帆夏が目を見開く。
「でしょ? これが若さの味だよ。洗練されてないけど、エネルギーだけは満ち溢れてる」
「カツがサクサクしてない。ちょっとルーが染みてシナシナになってる」
「そこがいいんだよ。サクサク感を諦めて、ルーとの融合を選んだ衣の潔さだ」
帆夏はモグモグと頬張る。
リスみたいだ。
周囲の喧騒に紛れて、彼女が国民的女優であることに気づく者はいない。ここでは誰もが、自分の皿とスマホに夢中だからだ。
その時、帆夏の動きが止まった。
スプーンを咥えたまま、斜め前方のテーブルを凝視している。
「……ねえ、潤」
「どうした?」
「あそこにいる教授っぽい人、見て」
俺は視線を向けた。
初老の男性が、カレーうどんを啜っている。ツイードのジャケットに蝶ネクタイ。いかにも名物教授といった風情だ。
だが、違和感があった。
彼の頭髪だ。
黒々とした髪が、あまりにも不自然なラインで頭部に乗っている。額の生え際が、定規で引いたように真っ直ぐすぎる。
「……ああ。カツラだね」
俺は小声で言った。
「かなり安価なタイプなんだろうね」
「や、違うよ」
帆夏が真剣な顔で否定した。
「あれは役作りだよ」
「はい?」
「あの人は、本当はフサフサなの。でも、あえてカツラを被ることで、『カツラであることを隠しきれていない哀愁漂う教授』という役を演じているんだよ」
「なんでそんな面倒な役作りをする必要があるの……?」
「生徒たちの注目を集めるためだよ。ほら、見て。周りの学生がチラチラ見てるでしょ? 『あの先生、今日もズレてるな』って思うことで、親近感が湧くんだよ。あれは高度な教育的配慮なの」
帆夏は感心したように溜息をついた。
「勉強になるなぁ。あの『少し浮いた襟足』の角度とか、絶妙だもん。計算し尽くされてる」
「……帆夏さん、そのうち『あのカツラになりたい』とか言い出しそうだな」
「ちょっと憧れる。あの『ズレ』こそが、人間味だよ」
俺たちはカツカレーを食べながら、教授の頭髪についてアカデミックな議論を交わすのだった。今日も無職は暇を持て余している。
新作を始めました。
『朝の顔のお天気お姉さんの素顔はダウナー系~地下の備品室で愚痴を聞いてあげていたら懐かれました~ 』
https://ncode.syosetu.com/n0501lu/




