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「……ね、潤。二百円だよ? 缶コーヒー二本分で、生まれ変われるんだよ?」
隣で目を輝かせているのは、帆夏だ。
今日の彼女は、いつもの黒ずくめではなく、高校時代のものと思われるエンジ色のジャージを着ている。胸元に『2-C 風見』という刺繍が入っているのが、哀愁を通り越して重要文化財のような風格を漂わせている。
「生まれ変わりたくないよ。今のままで十分、エコな生態系を維持してるんだから」
「や、ダメだよ。役作りなんだから」
帆夏は俺の背中をバンと叩いた。いい音が出た。
「次の役、SPなの。要人を守るために、暴漢を投げ飛ばさなきゃいけないの」
「その細い腕で? 要人を盾にする方が早いんじゃない?」
「だから鍛えるの。ここなら安いし、意識高い系のマッチョもいないから」
帆夏が指差したのは、市民スポーツセンターの看板だ。
コンクリート打ちっぱなしの無骨な建物。中からは、ゴムと汗と、微かな湿布の匂いが漂ってくるようだ。
ここは、民間ジムのような煌びやかな神殿ではない。
定年退職したおじいちゃんが健康維持のためにエアロバイクを漕ぎ、主婦が世間話のついでに腹筋をする、生活に密着した公民館的フィットネスの聖地だ。
俺は諦めて、食券のようなペラペラの利用券を購入した。
二百円。この安さが、逆に怖い。
◆
俺も持参したTシャツと短パンに着替えた。鏡に映る自分の手足は白く、筋肉の陰影などどこにもない。日に当たらない場所でひっそりと育った、特級品の無農薬もやしだ。
トレーニング室に入ると、独特の熱気が迎えてくれた。
最新鋭のマシンなどない。塗装の剥げたダンベルや、座面の革がひび割れたベンチプレスが、古参兵のように鎮座している。
「よし。まずはここから」
帆夏が向かったのはバタフライマシン。両腕を広げて閉じる、大胸筋を鍛えるやつだ。
「これ、好きなんだよね。誰かを抱きしめる練習みたいで」
「……動機が不純だね」
「違うよ。愛は筋肉量に比例するの」
帆夏はシートに座り、グリップを握った。
グッ、と力を込める。
アームが動く。ガシャン、ガシャン、という金属音が響く。
「ふんっ……! ぬぅっ……!」
帆夏の顔が赤い。必死だ。
しかし、ウェイトを見ると、一番軽い5kgだった。
「……重い?」
「お、重い……! 愛が……重すぎる……!」
「それは相手が悪いんじゃなくて、帆夏さんの包容力不足だよ」
俺は隣で、ただ突っ立って見守っていた。
「はぁ、はぁ……」
十回ほどやって、帆夏が力尽きた。肩で息をしている。
「潤もやってみてよ。無職の胸板を見せて」
「断るよ。胸板を厚くしても、受け止めるべき案件がないし」
「いいから。二百円の元を取って」
無理やり座らされた。
俺はグリップを握った。冷たい鉄の感触。
深呼吸をして、腕を閉じる。
ガシャン。
「……あ」
思ったよりずっと軽い。
俺は連続でガシャンガシャンといわせた。
「嘘……すごい。潤、隠れマッチョ?」
「違うよ。これは『扉を閉めるための筋肉』」
「扉?」
「うん。社会という荒野から逃げて、自室に引き籠もる時、俺は誰よりも素早く、力強くドアを閉めるんだ。その反復練習が、この筋肉を作り上げたんだよ」
「……悲しいエリートだね」
俺たちはいくつかのマシンを冷やかした後、窓際にあるエアロバイクのコーナーへ移動した。
ここが一番人気だ。窓の外には市民プールの駐車場が見えるだけで、景色など楽しめないのに、五台あるバイクは常に誰かが漕いでいる。
運良く、二台並んで空いていた。
「これなら平和だね。座ってるだけだし」
帆夏がサドルに跨る。
俺も隣に座り、ペダルに足を乗せた。
キコキコと俺たちは並んで漕ぎ始めた。
前には進まない。ただ車輪が空転するだけの、虚しい前進。
「ねえ、潤」
「ん?」
「ハムスターってさ、回し車の中で何を考えてるのかな」
「『ここから出たい』か、『地球の自転を加速させてやる』のどっちかだろうね」
「私は今、後者だよ。このペダルを漕ぐことで、発電して、世界のどこかのネオンを光らせてる気分」
帆夏は負荷レベルを上げた。
ペダルが重くなる。彼女の表情が真剣になる。
「潤、勝負しよ。先にへばった方が負け」
「嫌だよ。何のご褒美もないのに」
「負けた方が、帰りに自販機でジュース奢り」
「……分かった。受けて立つよ」
無職の財布には痛手だが、プライドという名の筋肉が反応してしまった。
「よーい、ドン!」
二人してゆったりとしたペースで漕ぎ始める。明確なルールも競技性もない勝負のため、あまりに緩い空気で二人で向かい合う。
これ……勝負がつかないんじゃないか?
じっとりと汗をかくくらいに漕いだところで帆夏に話しかけた。
「……帆夏さん、諦めなよ。チーターを知ってる?」
「え……?」
「チーターは時速100キロで走れるけど、脳が熱暴走するから一分しか走れないんだよ。帆夏さんも脳が茹だってくるんじゃない?」
「や、私はSPだから」
帆夏は力を振り絞り、負荷を上げた。
「うおおおおお!」
「ちょ、待って、無理しないで!」
帆夏を煽った結果調子に乗らせてしまったらしい。
その時だった。
帆夏の足がペダルから滑った。
バランスを崩し、上半身がグラリと傾く。
「あっ」
彼女の体が、俺の方へ倒れ込んでくる。
俺は反射的にペダルを止め、彼女を支えようと手を伸ばした。
俺たちはバイクとバイクの狭い隙間で、重なるようにして止まった。
俺の右腕が、彼女の背中に回っている。
帆夏の手が、俺の胸板を掴んでいる。
「……っ、はぁ、はぁ……」
顔が、近い。
流れ落ちる汗が、彼女の顎を伝って、鎖骨の窪みに落ちていくのが見えた。
ジャージ越しに伝わる体温が、異常に高い。
シャンプーの匂いではなく、もっと生々しい、人間が活動した証の匂いがする。
「……大丈夫?」
「う、ん……足、攣りそう……」
帆夏は顔を上げ、俺を見た。
その目は潤んでいて、焦点が定まっていない。
酸欠なのか、疲労なのか。
いつもは「死んだ魚」のような目が、今は熱を帯びて、妙に色っぽい。
「潤……」
「なに」
「心臓、うるさい」
「……俺の?」
「や、私の」
帆夏は俺の胸を掴んでいた手を離し、自分の首筋のあたりに指を当てた。
「すごい速い」
「運動直後だからね。当たり前だよ」
「違うの。なんか、変なリズムなの。確かめて」
帆夏が、俺の手首を掴んだ。
そして、自分の首筋へと導く。
「おい、人目があるよ」
「いいから。……ここ」
俺の指先が、彼女の首筋に触れた。
湿った皮膚。
その下で、トクン、トクン、と脈打つ血管の振動。まるで皮膚を突き破って飛び出してきそうなほど、命が暴れている。
ドクン、ドクン、ドクン。
指先から伝わる振動が、俺の心拍とも共鳴し始める。俺の心臓も、いつの間にか加速していた。
これは運動のせいだ。
エアロバイクを漕いだからだ。
決して、彼女の濡れた前髪や、微かに開いた唇や、首筋の柔らかさに反応しているわけではない。
そう、俺は無職だ。感情の起伏を最小限に抑え、省エネで生きるプロだ。
こんな原始的な身体反応に、惑わされるはずがない。
「……どう? 死にそう?」
帆夏が上目遣いで聞いてくる。
「……いや。生きてるよ。うるさいくらいにね」
「そっか。よかった」
帆夏はふにゃりと笑った。
その瞬間、俺の指先が熱くなった気がして、慌てて手を離した。
「ほら、戻るよ」
俺たちは気まずそうにバイクから降りた。
足がガクガク震えている。
生まれたての子鹿のようだ。
更衣室で着替え、ロビーの自販機へ向かう。
「勝負は引き分け?」
帆夏が財布を取り出しながら尋ねてくる。
「そうだね」
電子決済にも対応していない古めかしい自販機で各々がスポーツドリンクを購入する。
「潤、乾杯」
「うん。乾杯」
二人で待ちわびたビールのようにごくごくとスポーツドリンクを飲む。
「ぷはーっ!」
スポーツドリンクを一気に飲み干し、帆夏が声を上げた。
「美味しい。世界一美味しいかも」
「ただの砂糖水と塩分だよ」
「潤って、ほんとロマンがないよね」
帆夏は空になったペットボトルを捨て、ニカッと笑った。
「でも、ありがとう。なんか、スッキリした」
「筋肉痛は明日来るよ。明後日かもしれないけど」
「平気。この痛みは、私が頑張った証拠だから」
彼女は自分の二の腕をさすった。まだ細くて頼りない腕だが、そこには確かな熱が宿っている。
「ね、潤」
「ん?」
「私、強くなれるかな。誰かを守れるくらい」
「……SPの役作りでしょ?」
「ううん。もっと個人的な野望」
帆夏はまっすぐに俺を見た。夕暮れの光が、公民館のようなロビーに差し込み、彼女の輪郭をオレンジ色に染めている。
「私ね、いつか潤のこと、お姫様抱っこしてあげる」
「……は?」
「潤は軽そうだし、私がムキムキになればいけると思うんだよね。そしたら、潤が歩くの疲れた時、私が運んであげる」
なんてシュールな絵面だ。
「……期待せずに待ってるよ。腰をやらないでね」
「任せて。鍛えるから」
帆夏は力こぶを作るポーズをした。
ちっぽけな力こぶ。でも、不思議と頼もしく見えた。




