15
平日昼間のバッティングセンター。防球ネットの向こうで、ピッチングマシンが唸りを上げている。
打席に立っているのは帆夏だ。
「……ね、潤。ボールってさ、なんであんなに速いの?」
深めのバケットハットにマスク、そしてダボダボのジャージ。不審者そのものの格好で、彼女はバットを杖のように地面についていた。
「速くないと打たれるからだよ。ボールにも生存本能があるんだ」
「や、あれは悪意だよ。私という人間を否定するために、時速百二十キロで飛んできてるの」
機械的な音と共に、白い球が射出される。
帆夏は動かない。バットを振る気配すらない。
ボールはキャッチャーミット代わりの垂れ幕に、バンッ! と激しい音を立てて突き刺さる。
「……せめて振りなよ」
「無理。見えないもん」
「じゃあ、八十キロのコースじゃない!? なんで120キロを選んだの!?」
「自分を痛めつけたかったから」
帆夏は深い溜息をつき、ようやくバットを構えた。へっぴり腰だ。
再びボールが飛んでくる。彼女は遅れてバットを出す。空振り。風を切る音だけが虚しく響く。
「今日さ、バラエティ番組の収録だったの」
帆夏が、次のボールを待ちながらポツリと言った。
「『大御所芸人の武勇伝を聞いて爆笑する』っていう、地獄みたいな企画」
「なるほど。現代の拷問だね」
「うん。全然面白くないの。昔のヤンチャ自慢とか、業界の裏話とか。でもさ、周りのグラビアアイドルとか若手俳優は、過呼吸になるくらい笑ってるわけ。手を叩いて、涙を流して」
ブンッ。
また空振り。
「私もさ、笑ったの。引きつった顔で。『うわぁ〜、すごいですねぇ!』って。自分の頬の筋肉が、ピクピク痙攣するのが分かった。魂が口から抜け出て、スタジオの天井の照明に焦げ付いていく感じがした」
帆夏はバットをダラリと下げた。
「嘘をついたバツだよ、120キロは。面白くもないのに笑った、私の口角に対する懲罰」
「……真面目だねぇ」
俺はベンチで、自動販売機で買ったコーラを飲んだ。
「帆夏さん。それは嘘じゃない。協調性だよ。ふぐが体を膨らませるのと同じだって。笑顔という空気を入れて、自分を大きく見せることで、大御所という捕食者から身を守ったんだ。生物学的に正しい行動だよ」
「……ふぐ?」
「そうだよ。だから自分を責めないで。帆夏さんは今日、立派にふぐとしての職務を全うしたんだ」
俺の謎の理屈に、帆夏はマスクの下で少し笑った気がした。
「ふぐかぁ……。毒はあるけどね、私」
「毒があるから美味いんだ」
ボールが飛んでくる。
今度は、帆夏が動いた。
腰を回し、バットを振り抜く。
ガッ、という鈍い音がした。チップだ。ボールは真後ろのネットに当たり、力なく転がった。
「お、当たった」
「ファウルだけどね」
「いいの。バットに当たった瞬間の衝撃で、右手の痺れが脳に届いたから。『あ、私、ここにいるんだ』って確認できた」
「バッティングセンターで生を実感してる人は他にいないよ……」
帆夏は満足そうにバットを置いた。
残り球数はまだあるが、もう十分らしい。
彼女は打席を出て、俺の隣に座った。
汗ばんだ前髪が、額に張り付いている。
「ね、潤。私、いつか本心だけで笑えるようになるかな」
「無理だろうね。社会ってのは、作り笑いの積層構造でできている地層みたいなもんだ」
「……夢がないね」
「でも、ここでは無理に笑わなくていい」
帆夏は飲みかけのコーラを奪っていく。
「ここにはカメラもないし、大御所もいない。ボールは無言で飛んでくるだけだ。お前が無表情で空振りしても、誰もツッコまないし、ワイプで抜かれることもない」
「……そっか」
帆夏はコーラを受け取り、一口飲んだ。そして、顔を赤らめた。
「あ……ま、いいよね?」
「え? 何が?」
「なっ……なんでもないっ!」
彼女はもう一口飲んで、ふぅと息を吐いた。
その横顔は、テレビの中で見る「清純派女優」よりもずっと疲れていて、そしてずっと綺麗だった。
「帰ろうか。明日は朝から雑誌の取材なんだ。『休日の過ごし方』について聞かれるらしい」
「なんて答えるの? 『深夜のバッティングセンターで、空振りの美学を追求しています』って言うの?」
「や、まさか。『部屋で読書をして、二回煮だした後の麦茶を飲んでます』って答える」
「虚無としては百点満点の模範解答だね」
俺たちは笑い合った。
それは作り笑いではなく、どうしようもない共犯者たちの、乾いた笑いだった。




