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午前十時という時間帯は、社会の歯車として回転している人間にとっては労働の序章であり、夜勤明けの人間にとっては安息の入り口だ。
しかし、今の俺のような無職の人間にとっては、ただの角度でしかない。短針と長針が60度の角度で交わる時刻。それが午前10時だ。
窓から差し込む光の入射角も、今はまだ正午には早い時間だと告げている。
俺はトレイの上の納豆を見つめていた。納豆を混ぜる回数には、その人間の人生観が出るという説がある。
以前、ネットの掲示板で見た議論では「四百回混ぜると旨味成分がピークに達する」という派閥と「いや、粒感を残すために二十回で止めるべきだ」という過激派が血で血を洗う争いを繰り広げていた。
俺はどちらにも属さない。俺の流儀は「左回転で二十回、右回転で二十回」だ。
これは味の問題ではない。宇宙の均衡の問題だ。左に回したねじれを、右に回して解いてやる。
そうしないと、俺の胃袋の中で納豆がいつまでも回転し続けて、いつか身体が宙に浮いてしまうような気がするからだ。
建物自体は最近リニューアルされて、ショッピングモールのフードコートのように小綺麗になっているが、漂っている空気の成分は明らかに違う。
ここにあるのは、希望と絶望、そしてそれらを煮詰めて焦がしたような、古雑誌の匂いだ。
俺の目の前には、納豆定食がある。210円。白米、具だくさんの味噌汁、大根の漬物、そして納豆。この210円という価格設定は、現代社会における奇跡と言っていい。
缶ジュース二本分にも満たない金額で、人間としての尊厳を維持するための食事が提供されている。俺はこの食堂の券売機に向かって、毎朝敬礼したい気分になる。
指定席である喫煙エリアの四人掛けテーブルに陣取り、納豆の「左回転二十回」の儀式を終え、まさに「右回転」へと移行しようとしたその時だった。
テーブルに影が落ちた。誰かが立っている。視線を上げずに、俺は箸を止めた。納豆の糸が、中途半端な放物線を描いて空中で止まる。
「……ここ、埋まってますか」
声がした。それは、雨の日のアスファルトのような、低くて湿度の高い声だった。やる気がない、というよりは、やる気を出すためのエネルギーをどこかに置き忘れてきたような響きだ。
俺はゆっくりと顔を上げる。
そこには、はんぺんが立っていた。いや、正確には人間だ。二十代前半くらいの女性。だが、その肌の白さと質感は、一級品のはんぺんを連想させた。
サイズが大きすぎるグレーのパーカーを纏い、髪は黒く、重たく、アンニュイなウェーブが肩にかかっている。顔立ちは整っていた。整いすぎていて、この場外馬券場の背景から浮いている。フォトショップのレイヤー合成で、間違えて背景素材と人物素材を組み合わせてしまったかのような違和感だ。
俺は周囲を見渡した。いつもなら閑古鳥が鳴いている店内だが、今日は珍しく混雑している。どうやら大きなレースがあるらしい。俺のテーブル以外、空席は見当たらなかった。俺は納豆の糸を断ち切り、トレイを手前に数センチ引き寄せた。
「……いえ。どうぞ」
「どうも」
彼女は短く礼を言い、俺の斜向かいに座った。カタン、とトレイが置かれる音がする。彼女のチョイスはトンカツ定食。それとビールだった。
午前十時のトンカツ。そしてビール。そのカロリーとアルコールの暴力的な組み合わせに、俺は内心で拍手を送った。
無職が二百十円で尊厳を守っている横で、彼女は朝から血管を詰まらせる気満々だ。ある意味で、我々は対等だった。社会のレールから、それぞれ違う方向に脱線している。
彼女は手始めにビールを一口飲んだ。そして、虚空を見つめた。正確には、天井近くに設置されたテレビモニターだ。彼女はトンカツには手を付けない。箸も割らない。ただ、ビールを飲み、テレビを見ている。
その時、テレビの音量が変わったような気がした。ファンファーレが鳴り響く。ゲートが開く音がして、馬たちが一斉に走り出した。彼女の背筋が、微かに伸びた。
「……行け」
低く、鋭い声だった。さっきまでの、休日のナマケモノのようなダルそうな雰囲気は消え失せていた。彼女の瞳孔が開き、テレビ画面に吸い寄せられている。
「……いい位置……そのまま」
彼女がビールジョッキを握りしめる。爪が白くなるほど強く。レースは中盤から終盤へ。馬群がコーナーを回る。実況のアナウンサーが叫び声を上げ、店内のオジサンたちが一斉に新聞を叩き始めた。彼女もまた、身を乗り出した。
「……差せ!……来い!あー、そこじゃない! 外! 外回して!」
トンカツの皿がカタンと揺れた。ゴール板が迫る。彼女の声が、食堂の喧騒を切り裂くように響いた。
「……よっしゃあああ!」
ガッツポーズ。小さく、しかし力強い拳が握られた。馬がゴールを駆け抜ける。確定ランプが灯る。彼女は数秒間、その拳を握りしめたまま震えていたが、やがて糸が切れたように座席の背もたれに沈み込んだ。
「……はぁー……」
魂が口から抜け出ていきそうな、長く深い溜め息。そして、残っていたビールを一気に煽った。
喉が鳴る音が聞こえそうなほど豪快な飲みっぷりだ。俺は圧倒されていた。納豆を混ぜている場合ではない。
「……すごい熱気でしたね。勝ちました?」
俺が尋ねると彼女はゆっくりとこちらに顔を向けた。ビールの泡が上唇に少しついている。彼女は無表情のまま、首を横に振った。
「……いえ。賭けてません」
時が止まった。俺は自分の耳を疑った。
「…………はい?」
「賭けてないです。一円も」
「えっと……今、ものすごい勢いで応援してましたよね? 『よっしゃー!』って、魂の叫びみたいな声を出してましたよね?」
「出しましたね」
「なのに、賭けてない……?」
「はい」
俺は箸を置いた。理解が追いつかない。
「それは……どういう心理状態なんですか? 金銭の授受が発生しないレースに、あそこまで本気になれるものなんですか?」
「役作りなんです」
彼女は、冷静に冷奴に醤油をかけながらそう言った。
「役作り?」
「はい。私、これでも俳優志望的なことをやってまして。いつか、ニートとか、クズギャンブラーの役が来るかもしれないじゃないですか」
彼女は淡々と言った。
「そういう人たちが、どういう顔をしてレースを見て、どういう絶望感でビールを飲むのか。それを身体に染み込ませたくて。で、ご飯も安いのでついでにここに来てるんです」
「なるほど……で、どうでした? 染み込みましたか?」
「……いえ。やっぱり、懐が痛んでないんで、最後のヒリヒリした感じが足りないですね。安全圏から見てるドキュメンタリー番組みたいなもんです」
彼女は冷奴を口に運んだ。その時、隣のテーブルから「ぐえぇっ!」という、カエルが踏み潰されたようなゲップの音が響いた。
俺たちが視線を向けると、無精髭の老人が、負け馬券をちぎりながら虚空を睨みつけていた。その目は血走り、この世のすべての不条理を凝縮したような色をしていた。
俺たちは顔を見合わせ、すぐに正面に向き直った。
「……教科書は、あそこにありそうですね」
「ええ。生きた教材です。心臓が雑巾絞りみたいにギュッとなる感じ、あのおじさんから学べます」
彼女は真面目な顔で頷き、メモ帳を取り出した。そこにサラサラと何かを書き込んでいる。そして、不意にペンを止め、ビー玉のように澄んだ瞳で俺をじっと見た。
「……あの」
「なんですか」
「あなたも、観察対象にしていいですか?」
「……俺?」
「はい」
彼女はペン先を俺に向けた。
「あなた、ここによくいますよね。その枯れた感じ、すごくいいです」
「枯れた感じ……失礼ですね。俺はまだ30にもなっていないし、ただの無職です。ニートでもクズギャンブラーでもありませんよ」
「無職……」
「強いて言うなら、人生の夏休みです。ロングバケーションです。先月会社を辞めて、転職活動という名の戦場に向かう前の、一時的な休戦協定を結んでいるだけです」
「休戦協定。いい言葉ですね。無職の人は、納豆定食を好むんですか?」
「好んでるわけじゃありません。経済的合理性です。210円で、朝の定食というフォーマットを享受できる。それに、アラサーの胃袋に朝から揚げ物はテロ行為です」
「なるほど。参考になります」
彼女はトンカツを一口かじり、満足そうに頷いた。じろじろと見られるため、俺は少し居心地が悪くなった。まるで動物園のパンダになった気分だ。
いや、パンダなら笹を食っているだけで可愛がられるが、無職が納豆を食っていても誰も喜ばない。
「……まあ、私も似たようなもんですけどね。俳優なんて言っても仕事なんてないし。メインの収入源はデリですし」
「ブッ……!」
俺は危うく味噌汁を噴き出すところだった。
昼間からビールを飲む、アンニュイな美女がデリと言ったか?
それはつまり、デリバリーヘルス的な、そういう……?俺は動揺を隠すために、必死に咳払いをした。
「あー……なるほど。デリ、ですか。いや、職業に貴賤はないと言いますし、その、大変なお仕事ですよね。精神的にも、肉体的にも……」
「ええ、まあ。雨の日とか最悪ですね。濡れるし、寒いし」
「……雨の日も。なるほど、外の移動中はそうなりますよね……」
「でも、チップもらえると嬉しいんで」
俺の脳内で、様々な妄想が高速回転を始めた。
チップ。濡れる。寒い。
俺が言葉を選びあぐねていると、彼女は首を傾げ、それから俺の表情を見て、何かに気づいたように「あっ」と声を上げた。
「……ふふっ。無職さん、いま変なこと想像しませんでした?」
「え?」
「デリバリーアプリの配達員ですよ。自転車漕いで、ハンバーガーとか運ぶやつ。出前イーツです」
「……あ」
「なーに顔を赤くしてるんですか。いやらしい」
「いやらしくないですよ! 略し方が悪いです! デリって言ったら、文脈的に誤解を生みますよ!」
「無職さんの心が汚れてるから、そう変換されるんですよ」
彼女はジト目で俺を見て、ニヤリと笑った。猫が獲物をいたぶる時のような目だ。俺は咳払いをして、話をそらした。
「……誰が無職さんですか。名前くらいありますよ」
「じゃあ、私のことは『昼飲み女』って呼んでください。私は貴方を『無職さん』って呼びます。フェアでしょう?」
「全然フェアじゃないですね。それに、昼飲み女さんも、実質無職みたいなものじゃないですか」
「違いますよ。自称俳優です。夢を追う若者です」
「警察の調書みたいな肩書きですね……」
「ふふっ」と彼女が笑った。その笑顔は、先ほどの場末の空気感を一瞬で払拭するような、透明感のあるものだった。彼女は残りのビールを飲み干し、空になったジョッキを置いた。
「無職さん。ここ、安いし、人間観察には最適ですね」
「……まあ、そうですね」
「また、相席してもいいですか?」
「……なぜ?」
「無職の生態をもっと知りたいので。役作りのために」
「百均で鏡を買うか、自分の部屋に監視カメラでもつけたらどうですか?」
俺の皮肉に対し、彼女は悪びれもせず穏やかに微笑んだ。
「ま、そう言わずに」
こうして、俺と「昼飲み女」との、奇妙な日常が始まった。
この時はまだ、彼女がテレビで見ない日はないほどの「国民的女優」になるなんて知る由もなかった。
俺は淡々と冷めた味噌汁を飲み干した。210円の幸せは、少しだけ味が薄く感じた。




