赤い糸殺人事件 ――犯人はアリアドネ――
以下の作品はギリシア神話の『アリアドネの糸』から発想を広げて書いた作品です。この神話はいわゆる「運命の赤い糸」の元ネタになっている話なのですが、本作でも、この糸が重要な役割を果たします。
本作は〈問題篇〉と〈解答篇〉の二つに分かれています。問題篇で発生する不可解な謎を、読者が推理し、解答篇で答え合わせする形式です。
〈問題篇〉
「テセウス、やっぱり危険だわ! 私もついて行ったほうがいいんじゃないかしら」
不安で顔を青ざめさせながら、アリアドネはささやいた。
「君の心配はうれしいよ、アリアドネ。でも、僕はあのおそろしい怪物と一対一で戦わなくちゃいけない。それが戦士として正しい態度なのだから」
頬を引き締めながら、青年、テセウスは言った。彼もいくらか血の気が引いているようだったが、アリアドネの顔と比べると、まだ生気がある。細身ながら鍛えられた肉体は、決闘の装備で固められている。張り詰めた雰囲気で腰に提げた剣に触れながら、彼は付け加えるように言った。
「それに、君を守りながらヤツと戦うのは現実的じゃあない。アリアドネ。はっきりいうと、君は足手まといだ」
淡白で無慈悲な言葉。言いきるとテセウスは足元にさっと目をそらす。愛する青年に冷たい言葉をかけられたアリアドネは、しかし、決して落ち込みはしなかった。彼女は聡明な女だったから、テセウスの冷淡な言葉が、自身を決闘の場から遠ざけるための方便に過ぎないことをきちんと理解していた。
常に白濁した濃い霧がたちこめる不毛の土地で、二人の声だけが小さく響く……。
テセウスが決闘を挑む相手は、ミノタウロスという化け物だった。半牛半人。頭は牛で、体は人間。およそ人間とは思われない不気味な姿。その異形の怪物は恐ろしく強いというのが、周囲の噂だった。ミノス王の息子として世に生まれ落ちた彼はその凶暴性ゆえに、現在、王によって半ば軟禁状態にされている。
――迷宮〈ラビリンス〉――。
国内に作られた巨大な迷路。ミノタウロスはその迷路の中に入れられ、現在、外に出られないようにされていた。もちろん迷路である以上脱出の道は一本だけあるのだが、この迷路は酷く複雑で、現実的に考えて牛の頭のミノタウロスには脱出の方法は見つけられない。
そんな軟禁状態の彼に、ミノス王は定期的に餌をやっていた。人間である。異形の息子のために王はラビリンスに生贄を捧げていた。何年も、何年も……。まるで闘牛のような性質を持つミノタウロスは、今日も、その生贄たちを獣性のままに貪り続けている。
そしてこの忌むべき悪習は、ついにアリアドネの身にふりかかった。彼女は生贄に選ばれた。
最初、彼女は絶望した。そして、今もやはり絶望している。
ただ、生贄になることを知った直後と今とでわずかに違う点があるとするならば、青年テセウスの存在だろう。テセウスは、他国の人間だったが、ラビリンスの生贄の習慣を知るやいなや、義憤にかられ、己がその慣習を正すのだと気炎を吐きながらミノタウロスの元に向かった。ラビリンスに向かう道中で彼に出会ったアリアドネは、正義感に命をかける青年の姿に憧れ、そして、気づけば恋に落ちていた。
「ああテセウス。大事なことを忘れているわ。ほら、この糸玉の一端を腰に結んで」
手に掲げた赤い糸玉をテセウスに示す。テセウスは頷いた。二人の間をゆったりと流れる霧はやはり濃く、お互いの顔さえはっきりとは見えない。そんななかでも、意思疎通ができるのは、ひとえに二人の親密さゆえだった。
「ちょっとゆるすぎやしないかしら。もっとしっかり結ばないと。この糸がなければあなたは迷路から出られなくなってしまうのだから、用心を――」
「少し神経質になりすぎだぜ、君。これくらいで大丈夫だよ」
腰のベルトに結んだ赤い糸を見ながら、朗らかに彼は言った。しかし、その声はかすかに震えていた。無理もないことだ。そうアリアドネは思う。誰だって、ミノタウロスとの決闘を前にして落ち着いていられるはずはない。愛する青年の狼狽した姿を無様だとは、彼女は考えなかった。むしろ、身を呑むほどの恐怖にさらされながらそれでも戦いに挑むテセウスが、彼女には誇らしかった。ますます愛が募る。
「準備は済んだ。行ってくるよ」
そういうと、彼はラビリンスの入口へと向かい始めた。一歩一歩進むごとに糸が引っ張られ、アリアドネの手に抱えられた糸玉が少しずつほどけていく。少しずつ伸びていく糸の長さはそのまま、二人の恋人の距離をあらわしている。
少しずつ遠くなる距離……。
少しずつ離れていく背中……。
「テセウス!」
気づけば彼女は叫んでいた。音がラビリンスの壁に反響し、霧の中で何層も重なる。彼はぎこちなく振り向いた。霧は濃く、二人の距離は遠く、だから彼女にはもう彼の姿など見えてはいなかったけれど、赤い糸を通じて息遣いは感じとる。
「……がんばって!」
言いたいことは山とあって、しかしそのすべてが口元までで出かかりながらも声になることは叶わずに胸の奥に落っこちてしまったから、彼女はとびっきり無難な激励の言葉を送る。少しの間の後、「ああ」というぶっきらぼうな声が返ってきて、止まっていた糸玉が再び、シュルシュルとほどけ始めた。
強い風が一陣、霧がかった白い空気全体をゆらした。
行ってしまった。アリアドネは放心して、近くの木にもたれかかるようにして崩れ落ちた。もう、彼女に手助けできることは何もなかった。できる唯一のことは、ただテセウスの勝利を祈るくらいのことである。彼女は目をつむり、天を仰ぐ。指先にはほどけてゆく糸玉の感触があった。
糸を体に繋いでからラビリンスに入るべきだ、という提案は、彼女がした。ミノタウロス退治のためにラビリンスに入ったはいいものの、いざ退治したあと出てこれないとなってしまっては意味がない。そこで、テセウスの腰に糸を結ぶことで、彼は決闘に勝った後、腰からアリアドネまで繋がる赤い糸をたどって入口に戻ってくることができる。この糸玉はそのために彼女が用意したものだった。赤色なのはたまたまである。特に意味はない。
彼女は反芻していた。一週間前のテセウスとの出会いを。
少しぶっきらぼうな口調。
人形のように整った容姿。
以外に大きな掌。
物憂げに揺れる色素の薄い前髪。
自分が生贄としてラビリンスに向かう途中であることを打ち明けたときの、驚いた表情。
一つ一つを思い出していると、この一週間が本当は一月くらいの長さの出来事だったのではないかと彼女は疑ってしまう。とても密度の濃い一週間だった。あるいはそれは、彼に恋したからだろうか。色恋に無縁で生きてきたアリアドネにとってテセウスとの出会いは、まさに運命とも呼べるほどの衝撃であった。
目を開けて指先を見る。彼女の手元からまっすぐとラビリンスの入口に通じる赤い糸は、テセウスの腰につながっている。間接的に愛する人とつながっている安心感は、あたりを濃い霧に囲まれて不安に押しつぶされそうになっていた彼女にとって唯一の支えだった。
運命の赤い糸。
そんな言葉が不意に胸に去来した。赤い糸でつながる私たちはきっと離れ離れになることはないのだわ。彼女はそう思い込もうとした。
しばらくたった。アリアドネはじっと黙って、伸びた糸の先を見つめていた。
そのとき、指先に異変がおきた。彼女は手元に目を移す。シュルシュルとほどけていた糸がとまっていたのだ。最初は何が起きたのかわからなかった。しかし、彼女は遅れてその変化の理由を察する。
ミノタウロスと会敵したのだわ!
ラビリンスの中を探し回っていたテセウスは今まさに、ミノタウロスを見つけて足を止めたのに違いない。
アリアドネがそう思った瞬間、突然、横殴りの突風があたりに吹き荒れ始めた。それまでのゆったりとした空気が嘘のように、大嵐が霧を叩く。
テセウス!
にわかに吹き出したこの風はラビリンスの中にもやはり吹いているのだろう。なぜ急に。あるいはこの風はミノタウロスの魔法なのかもしれない。そんな滑稽な仮説をたてたくなるくらい、唐突に吹き始めた風は暴力的にアリアドネの髪や服をはためかせる。テセウスは無事だろうか。涙が滲んだ。テセウスが殺されてしまうのではないかという不安はアリアドネの心を酷く不安定にした。
もし。もしもテセウスが決闘に負けたら私はどうなるのだろう、と彼女は考えた。テセウスがミノタウロスを殺せなかったら、ラビリンスの悪臭は続き、予定通り、自身も生贄にされるに違いない。そしてテセウスとともに、骨だけになった二人の死体は、ラビリンスという密室に半永久的に閉じ込められることになる。想像するだけでぞっとする。
そこまで考えてふと思う。ラビリンスは密室だ。糸で自身と繋がるテセウス以外にとっては。ミノタウロスは外に出る術を持たない。仮に、赤い糸を見つけたとしても、牛の頭の怪物には、それが何を意味するかは理解できないのだから、たどられる心配もない。つまり、テセウスが負けた場合、自分は糸玉を捨てて、この国を逃げればよいのではないか。きっと気づかれない……。
いや。
あわてて彼女は打ち消す。愛する人を殺した怪物に背を向けて逃げることはできない。そんな不誠実を、彼女はしたくなかった。彼が殺されたら、その時は復讐をしてやる。たとえ敵わなくたって、そうすべきなのだ。彼女は唇を引き結んだ。
もちろん、テセウスがミノタウロスを倒して、ラビリンスから無事に出てきてくれたら、それに越したことはないのだが……。
彼女は風に吹き飛んでしまいそうな糸玉をしっかりと握りしめた。糸がはためく。これだけは、離すわけには行かない。糸玉の先に繋がっているであろう彼に、アリアドネは精一杯の祈りを込めた。
そうして、どれくらいたったろう。変わらず風は吹き、変わらず辺りは霧がかっている。必死で祈っていたアリアドネは気づかなかったが、すでにかなりの時間が経過していた。一回の決闘が終わるくらいの時間はながれていた……。
すぐ近くで、誰かのうめき声がした。
テセウスだわ!
アリアドネは確信し、ラビリンスの入口に駆けていく。もし決闘でミノタウロスが勝っていたとしても、牛ほどの知能しかないミノタウロスには、糸をたどることはできない。
この赤い糸は、テセウスだけが扱える道標なのだ。
彼女はそこまで考えると、なんだか嬉しくなってきて夢中で走る。相変わらず、糸を大きくはためかせるほど風は吹いていたけれど、涙がこぼれそうだったさっきまでと違って、今は、それさえも心地良い。
「テセウス!」
うっすらと見えてきた人影に彼女は手を振った。人影も彼女と同じくらい早く近寄ってくる。
そして、霧の中にはっきりとその姿を認めたとき、彼女は糸玉を地面に落として、懐に手をやった。直線的に近づくのではなく、少し迂回しながら駆け寄る。彼は、まっすぐ糸玉の方に向かう。直線的に糸玉へと向かう彼にアリアドネは斜めから近づいて、その心臓に短剣を突き刺した。
うめき声。
彼は信じられないことが起こったとばかりに目を見開いてアリアドネを見、わずかな沈黙の後、そのまま崩れ落ちた。肩を興奮で大きく上下させながら、地面に伏した死体を見下ろすアリアドネ。彼女は薄く笑った。
〈読者への挑戦〉
アリアドネはなぜこのような殺人を犯したのでしょうか。問題篇から推測できる、合理的な動機を考えてください。
↓以下解答篇
〈解答篇〉
①アリアドネが殺したのはテセウスではなくミノタウロスである。ミノタウロスに殺されると思った彼女は、自衛のために彼を殺した。
②テセウス青年はミノタウロスと会敵していない。彼が決闘をしたというのはアリアドネの勘違いである。作品途中で糸玉の動きが止まったのは、テセウスがミノタウロスを見つけて立ち止まったからではなく、歩いている途中で腰に結ばれた糸がほどけたから。結びがゆるいのではないかという心配は、皮肉なことにも冒頭で彼女自身がしていた。今現在も、テセウスはラビリンスでミノタウロスを探し回っている。
③一端がほどけた糸をミノタウロスは偶然発見し、それをたどってアリアドネのもとに向かった、というのが真相。
④牛ほどの頭しかないミノタウロスがした、糸をたどるという行動は、逆に、牛ほどの頭しかないからこそ起きた行動である。牛は眼の前でひらひらと揺れるものに興奮して突っ込む性質がある。(闘牛がそれを利用した例としてあげられる)糸玉が動かなくなった直後、ラビリンス全体に風が吹き始めた。一端がほどけた糸はその風にあおられて揺れる。だからこそ、ミノタウロスは糸をたどったのである。問題篇の終盤、アリアドネと人影の場面で、アリアドネが糸玉を地面に落として迂回するように動いたのはこのためである。揺れる糸に興奮していることをとっさに判断したアリアドネは、糸玉を手放し、糸の軌道を真っ直ぐ進むミノタウロスを横から刺そうとした。
⑤安易に雑学をトリックに使う不誠実さを避けるため、読者救済の配慮をした。一般的に闘牛に対する誤認で多いのは、「牛は赤に興奮して攻撃する」という俗説だが、その俗説しか知らない読者にも論理的に説明できるようなしかけになっている。アリアドネの糸玉が運命の糸であり、その色が赤色であることは、作中いたるところで露骨に表現されているし、ミノタウロスの性質を闘牛に例えるなど示唆的な伏線も張ってある。注意深い読者なら、ミノタウロスが糸をたどったのは、赤色に興奮して突っ込んだからだと説明できるはずだ。
⑥本作タイトルは赤い糸殺人事件とし、読者への挑戦も殺人としたが、半牛半人の殺害は殺人にあたるのかについては議論の余地がある。そこで前例をあさったが、あいにくミノタウロスを殺害する推理小説を、作者は寡聞にして知らない。そこで、本作においては、殺人という言葉を妥当とした。なぜなら、アリアドネがミノタウロスを殺した一刺しは心臓への攻撃であり、そこはつまりミノタウロスの胴体部分、半人側にあたるからである。
以上。
余談。神話では、ミノタウロスを無事倒したテセウスはアリアドネと一緒に船で国に帰っていくのですが、その途中でこともあろうに彼、テセウス青年はアリアドネを捨てます。(諸説あり)この残念なオチを知った幼い頃の僕は、酷く狼狽しました。
運命の赤い糸なんてありはしない。してみるとその元ネタも怪しくはないか、という発想で本作を作りました。楽しんでくれたら幸い。評価をしてくれたらもっと幸い!