離縁届
お姉様は、まだリーゲル様と話すことがあるからと、私だけ先に部屋へと帰された。
呆然とする私を気遣うように、ポルテがそっと背中を摩ってくれる。
「奥様、先程の話ですけれど……私は早まらない方が良いと思います」
「それって……?」
「こう言ってはなんですが、旦那様って凄く考え方が固いじゃないですか。だからさっき言った政略云々っていうのは、単なる言葉のあやというか、奥様達が考えているようなものではないと思うんですよね」
だったらどういう意味なんだろう?
答えを求めてポルテを見るも、彼女は肩を竦めるだけ。
「教えて差し上げたい気持ちはあるんですよ? でも、ここで全て私が教えてしまったら、お二人は何も成長しませんよね?」
「そんな……人をまるで子供みたいに。年齢だけで言うなら、私やリーゲル様の方がポルテよりも年上なのよ?」
少しだけむくれて言うと、ポルテは「存じております」と言って微笑む。
「お二人は何と言うか……アンジェラ様もですが、恋愛ごとに不器用過ぎるのです」
「恋愛に、器用・不器用なんて関係あるの?」
そんな話は初めて聞いた。
そういった括りで言われるのであれば、私とリーゲル様は確かに不器用の部類に入るのだろうけれど。
「でも、お姉様は? お姉様も不器用な部類に入るの?」
好きな人と駆け落ちまでしたお姉様が?
どうしてもそこだけは納得できなくて、ずいっと前に出てポルテに詰め寄る。するとポルテが「これはジュジュから聞いた話なのですが……」と言って、駆け落ち後のお姉様のことを教えてくれた。
※ ※ ※ ※
グラディスが退室した後の室内で、リーゲルとアンジェラは無言で見つめ合っていた。
──いや、見つめ合っているという形容は正しくない。二人はじっと、険しい顔で睨み合っていた。
「………………」
「………………」
緊迫感漂う室内に、待機している使用人達は気が気ではない。ほんの数刻前までは、邸内に幸せが満ち溢れていたというのに。
「………………」
「………………」
いつ迄この状態が続くのだろうか。
邸の主人であるリーゲルと、その客人であるアンジェラ。二人が物音一つたてず睨み合っているのに、使用人である自分達が音をたてるわけにはいかないと、彼等の緊張は極度に高まっていく。
「………………」
「………………」
まだか、まだなのか。
二人はあとどれだけの時間、この不毛とも思える睨み合いを続けるつもりなのか。
使用人達の緊張が限界まで近付いた瞬間──不意にアンジェラが口を開いた。
「……離縁する決心はつきまして?」
ピクリと。
その問い掛けに答えるかのように、リーゲルの眉が僅かに動く。
「こういった手続きは早い方が良いでしょう? わたくしは初婚ですので、貴方がグラディスと離縁さえして下されば、すぐにでも婚姻可能でしてよ」
「あいつと結婚しなかったのか!?」
漸く口を開いたリーゲルに、食い付くのは『そこ』なのかと、アンジェラは苛立つ。
自分の可愛い妹を『身代わり』として娶り、散々傷付けてきたくせに、いざ離縁しろと言ったら慌て、黙り込んだ男。
本人曰く『身代わりだと思った事はない』らしいが、そんな事はどうとでも言える。実際のところ、結婚して半年以上経つというのに、未だそういった噂が消えていないのは、認めているのと同義ではないか。
公爵家当主である彼が本気でその噂を消そうと思ったら、どうとでもやりようがあった筈なのに、今までそれを放置していた事自体、グラディスを軽んじていると思わざるを得ない。
そんな男との婚姻なんて、すぐさま解消してやろうと乗り込んで来たはいいものの、無駄とも思えるこの時間。そして、食い付かれた自分と彼の騎士との婚姻の有無。
「わたくしの婚姻にご興味がおありでしたの?」
嫌味のつもりで言えば、当然だとでも言いた気に大きく頷く。
「私との婚姻直前に駆け落ちし、そのせいで私ばかりかグラディスまでもが被害を被ったんだ。気にならないわけがないだろう」
ああ、そういうことか。
勝手に駆け落ちして、他人に迷惑をかけておきながら、婚姻しなかったなど許せないと、そう言いたいのか、この男は。
筆頭公爵家の次期当主として厳しく躾けられてきたからこそなのか、とても王族とは思えない二人と長年付き合ってきたからなのか、この男は体裁を気にし過ぎるきらいがある。でもだからといって、それで他人を傷付けて良いかと言えば、答えは否だ。
だからアンジェラは、男に向かってこう答えた。
「わたくしが初婚である方が、貴方と再婚する際の体裁はよろしくてよ? 良かったではありませんか」
何故駆け落ちまでした男と結婚しなかったのか──そんな事まで教えてやる義理はないとばかりに、それだけを口にする。それ以外の事を聞かれても、答えるつもりはない。
だってそんなもの、貴方の体裁を保つ為に必要ではないでしょう?
最低限必要だと思えるもの以外、この男には与えない。
学院時代は友として、婚約者として仲良くはしていたが、それとて貴族としての枠組みの中。特別な感情など、一片たりとも持ち合わせてはいなかった。
「………………」
再び黙り込んだ男に焦れて、アンジェラは鞄から一枚の書類を取り出す。部屋の隅に控えていた使用人に目配せし、ペンを持ってこさせると、それらを音もなく机の上に置いた。
「ここにサインをお願い致します。何も心配する事はありませんわ。わたくしの頭脳と貴方の権力を持ってすれば、全て上手くいきますから」
書類に大きく印字されているのは『離縁届』という文字。
先ずリーゲルに署名してもらい、それを持ってグラディスにも署名させる。
そうしたら互いの気が変わらぬうちに即役所へと行き、アンジェラ自らが提出するつもりだ。
もうこれ以上、一分一秒たりとも可愛い妹を公爵家の籍に置かせておいてなるものか。
そんな思いで、目の前の男が離縁届に署名するのを、アンジェラは待っていたのだが──。
そこで、予想外の事が起きた。
「サインなど……しない」
あろうことかアンジェラの見ている前で、男はグシャリと書類を握り潰したのだ──。




