前編 湧き上がる憧れ
心の底からつまらない学校の授業が終わった後、俺には決まって行く所がある。
「くそっ、今日は担任の話が長引いたな……」
校則を無視して廊下を突っ切り、後ろから女子の舌打ちと先生の怒鳴り声を浴びながら目指すのは、四階の奥にある小さな部室。
半分錆びたドアの横には、落語研究会と書かれた小さな看板が張り付けられている。
「すみません、失礼します」
この俺……宇曽田純平は、慣れた手つきでそのドアをノックした。
「宇曽田君か、入って良いよ」
中に入ってまず飛び込んできたのは畳の匂い。決して広くないその部屋に、机や本棚が詰め込まれている。
「お疲れ様です、八戸先輩」
「どうもお疲れ様」
荷物を下ろす俺に声をかけてきたのは、一つ上の先輩。
俺とたった二人でこの落語研究会を運営している、部長の八戸聡美だった。
「これにて役者は揃いました。私と宇曽田くんとそこにいる幽霊で合計三名。桔梗山史上最少の部活、落語研究会の活動をこれより始めます」
俺は先輩が指差す方を向いた。が、そこには誰もいない。
「……おおっと、宇曽田君には霊感がありませんでしたね!」
「地味に反応の困る冗談はやめて下さい、一瞬マジで焦りましたよ」
先輩は扇子を弄りながら俺をからかった。時々この人の言うことは、嘘なのか本当なのか分からなくなる。
「今日は確かネタの練習だったね、ちゃんと私を笑わせるジョークは考えてきてくれたかな?」
俺はもちろんですよと答えて、部室の片隅にある座布団を取ってその上に座った。
軽く咳払いをして、よく声が通るように深呼吸をする。
「最近は季節の変わり目で風邪を引く人も増えてきましたね。私もこれからは夜更かしをやめ、しなやかに飲み、しなやかに食べ、しなやかな生活を送りたいと思っております」
先輩は静かにこちらを見ている。笑う時は和やかな表情をするが、一方で聞き手側として真剣な批評をしてくる。
「そんな私は強かな落語家、純平と申します」
だが緊張に負けてはいけない。自分の頭の中に広がる言葉を信じて、俺は意気揚々と語り始める。
「以前家族旅行で九州に行ったんですけどね、その時新幹線の窓口に並んだんですよ」
「そしたら前にいるお婆ちゃんが、駅員さんと何やら揉めておりました……よく聞いてみると、東京までさくらに乗りたいと言っているではありませんか」
「東京までならのぞみだよと駅員さん。しかしお婆ちゃんは、さくらに乗りたいと言うて聞きません」
「じゃあ途中で乗り換えますかと聞くとそれもダメで、一本で行きたいと。さくらは新大阪までしか行きませんからね、これは困ったもんです」
「どうにかさくらは東京まで行かないよとお婆ちゃんに伝えたらビックリ仰天、今度ははやぶさで行きたいと言い出しました」
「はやぶさっていうのは東北新幹線ではありませんか。東北まで行きたいのかと駅員はしどろもどろ。私そこで助け舟に入りまして、お婆ちゃんに説明をしました」
「実はさくらとはやぶさは元々九州から東京を結ぶ寝台列車の名前でして、新幹線になった後もそのまま名前が使われていたんですねえ。それでお婆ちゃんは困惑しておりました」
「無事にお婆ちゃんを東京行きののぞみに送って一安心。時代の変化と昔の名残を感じさせる一幕でありました」
「うん、抑揚とか話の広げ方は良い感じだと思う」
俺が徹夜して作ったつまらない鉄道ネタを聞き終わった後、意外にも先輩は嬉しそうに拍手をしてくれた。
「でもオチが弱いかな、これだと普通の作り話って感じ」
「確かに、お客さんがあっと驚いて笑えるような要素は少なかったなって、自分でもちょっと思いました……」
先輩は首を捻ってしばらく考えた後、俺と入れ替わりで座布団に座った。
「じゃあ私も新幹線でネタを作るね。宇曽田君も参考程度に聞いていて」
まさかこの一瞬で思い付いたのか。俺が息を呑む中、先輩は息を吸い込んで話し始めた。
「あれは夜の広島駅での出来事でした。もう時刻は十時を回っておりまして、私は最終の新幹線に乗るべく窓口に駆け込みました」
「すると目の前には酒の匂いを全身に纏わせた男が駅員と話しております。近くにいるとそれはもう臭い臭い。失礼ではありますが、配分を弁えずに飲んだのでしょうね」
「口調も荒々しく、おい新大阪までの切符を出せとこの調子。それでも駅員は丁寧に対応し、もうのぞみは無いのでひかりの自由席を案内致しました」
「するとどういうわけか男は激怒。のぞみが無いとはどういうことだと。今にも掴みかかりそうな勢いでございます。もう最終便は出てしまいますよ」
「のぞみが無い、のぞみが無いと。そこで私は気付きました。この男は新幹線に乗る望みが無い、と聞き間違えていたのでした」
「対応しかねた駅員が応援を呼んでいる間に私はひかりの切符を購入。もうダメかと思っていた私に、帰路に就く光が見えて来たのでございました」
「しかしあの男が乗ってくる気配はありませんでした。そのまま最後のひかりは出発。これにて男が家に帰る望みは、もう完全に無くなってしまったのでした……」
即興ではあったが、明るさと面白さの詰まったネタに俺は無意識に拍手していた。
「凄い……同じ新幹線ネタなのに分かりやすいです!」
「あはは、本当に今考えた適当なやつだけどね」
先輩は照れて顔を赤くした。一年生の時と比べれば成長していると思っていたが、俺もまだまだだと感じさせられる。
「駄洒落を加えると面白さが増すと思うよ。前面に押し出すのはあんまり良くないから、あっさりとね」
俺はうんうんと頷きながら、メモ帳を出して書き込んだ。
「でも言葉遊びって難しいですよね。そういうのをスラスラ思い付いて言える人って尊敬します」
ゆっくりと息を吐くと、先輩が座布団を向こうに置いて歩み寄ってきた。
「習うより慣れよって言うでしょ。難しいなって思うよりも、何回もやってみて成長していこうよ」
「そう……ですね、俺も練習してみます」
そのまま何度かネタの講評をし合って下校の時間になった。
先輩といるといつもこうだ。時間を忘れて部活を楽しんで、もう少しこのままでいたいと思った時にお別れになる。
「それじゃあ、今日はありがとうございました」
俺は先輩に手を振って電気を消し、ドアを閉めてしっかりと鍵をかけた。
「こちらこそ、また明日ね」
そう、まだ部室の中に彼女がいるはずなのに。
「失礼します、部室の鍵を返しに来ました」
落語研究会の活動が終わった後、俺は鍵を持って職員室に入った。忙しそうに課題プリントを整理する先生たちの間を通り抜け、顧問の先生と挨拶を交わす。
「宇曽田、今日もあの部室に行ってきたのか」
先生の第一声はそれだった。別に放置されているわけでもないが、この人が部室に来ることは少ない。
「はい、先輩にビシバシ指導されました」
「そうか……部長は変わらず元気そうだったか?」
先輩、という言葉を聞くと先生の表情が少しだけ曇った。
二人が最後に会ったのはもう半年以上前かもしれない。それからはずっと、俺が先生とのやり取りをしている。
「え、まあいつも通りだったと思いますよ」
先生は天井の方に目線を泳がせた後、こちらを向いてゆっくりと頷いた。
「なら良かった。じゃあ、気を付けて帰れよ」
それ以上のことはあまり喋らずに俺は学校を出た。日が暮れ始めた帰り道を一人で真っすぐ進んでいく。
そう、先輩はまだ帰らずにあの部室に残っている。
「そういや、明日は小テストだっけ」
ふと気になって俺は学校の方を振り返る。だが、教室の電気は残らず消えていた。
俺の学年が予想外の事件に遭遇してしまったのは、その次の日のことだった。
「おっす、宇曽田。今日もダルそうな顔してるな」
「んなことはねえよ……おはよ」
ホームルームギリギリで教室に飛び込むと、親友兼腐れ縁の佐久間玲太に絡まれた。額に付いた汗を軽く拭きながら、俺はおっさんのような勢いで椅子に座る。
「もう眠いな、早く帰りたい……」
深夜の三時までゲームをしていたことが悔やまれる。頭と瞼が異様に重く、気を抜けば眠ってしまいそうだ。
「目覚ましにビンタでもしてやろうか?」
玲太が拳を構えてそう言ってきた。是非とも頼む、と言いかけた口を必死に抑える。
「お前のはマジで痛いから遠慮しとく」
つまんねえの、と怜太は吐き捨てて自分の席に戻った。
「はい静かにして、朝のホームルームを始めます!」
教卓に立った先生が何かを言っている。頑張って起きようとしていた時、突然その時はやって来た。
隣の教室から、何かがぶつかるような音が聞こえてきた。
「これ以上私に付き纏わないでよ、気色悪い幽霊のくせに!」
「な、何だ!?」
俺は驚きのあまり飛び上がってしまう。一瞬夢を見ているのかと思ったが、周りの反応でそうではないと気付いた。
「もしかして、誰かが暴れてるのか?」
「私には大切な人がいるの。友達も家族も先輩もみんな私のことを認めてくれる。一人のあんたとは全然違うんだよ!」
しばらくすると凄まじい形相をした女子生徒が廊下に飛び出してきた。あれは確か……オカルト部の人だったか。
「ブスでのろまで気持ち悪いのは、あんただぁぁ!」
「おい千船、お前何やってんだ!」
先生たちも遅れて状況を理解して、彼女を止めに向かう。
俺も気になって廊下に出て覗き込んでみると、彼女の姿がはっきりと見えてきた。
「そもそも誰が悪いと思ってるのさ。私の映像を偽物だとか言って、私を嘘つき扱いしたのはあんたでしょ!?」
女子生徒はテーブルを振り回して周りの生徒たちに殴りかかっていた。友人たちに止められても構わず、何というか幻を見ているようにも感じられる。
「凶器を持った狂気の生徒か、なるほど……」
「なるほどじゃねえよ、危ないから早く逃げろ!」
机をぶつけた壁に大きな傷が付き、花瓶が粉々に割れ、生徒たちが散り散りになって逃げていく。
本当は逃げなきゃいけないのに、俺はその場に圧倒されたように動けなくなった。
「みんな消えろ、死んでしまえっ!」
何だろう、暴れ回る彼女からあの人に似た気配を感じる。
「逃げるな、逃げるな、逃げるなぁ……!」
友達数人と先生が全力で押さえつけてようやく少女は止まり、そのままどこかへ連れていかれた。
「お願いだから落ち着いて、花子ちゃん!」
「とにかくここは危険だ。みんなで他の場所に運ぶぞ!」
だが最後に、少女は恨めしげな表情でこちらを睨んできた。
「姫島千里、あんたのことは絶対に許さない!」
千里という人間が誰かは分からなかった。だが騒動が収まって、いつも通り授業が始まっても、どういうわけか彼女の視線が頭から離れなかった。
「……と、いうことが朝にありました」
俺はすぐにその奇妙な出来事を先輩に話した。特に理由は無いが、あの時に感じた異様な感覚を誰かに共有せずにはいられなかった。
「そうだったんだね。下の方が騒がしかったから、何かあったのかなとは思ったけど」
「やっぱり、ここまで聞こえてたんですね」
結局先生からは何の説明も無いまま放課後になってしまった。お陰で原因は何だったのかも、あのオカルト部の少女がどうなったのかも全く分からない。
「何か変な呪いにでも触れたんじゃないかって思ってます、何せ怪しさ満点のオカ研ですし」
事実は小説よりも奇なりとは言ったものである。少し経ったら学校の七不思議に加えられてそうな、なさそうな。
「ちょっと偏見が酷いなぁ。怪しさならここも大概だよ?」
先輩にそう言われて、俺はゆっくり辺りを見回した。
「怪しさ、ですか……」
畳と本棚しか無い狭い部室に、二人しかいない部員。確かに自分が知らないだけで、みんなからは変な噂をされているのかも。
「俺は特に気にしませんけどね。自分の好きなことが好きなだけできて、それを共有できる人がいれば十分です」
「そっか。そういう思い切った考えも悪くないね」
何だか話が逸れてしまったような気がする。改めて二人は畳の上で向き合い、部活を始めることにした。
「特に予定も立ててなかったけど、今日は何しようか?」
部員が少ないと活動のバリエーションがすぐに尽きてしまう。何か良い案は無いのかと、俺と先輩が頭を悩ませる。
「取り敢えず昨日はネタの講評をしたので、今回は落語家のビデオを見て勉強するというのはどうですか?」
昨日がアウトプットなら今日はインプット。先輩もすぐに納得したようで、快く頷いてくれた。
「それ良いね。確かテレビは向こうの倉庫に小さいのが置いてあるはずだから、運んできてくれる?」
先輩は畳に腰を下ろして、倉庫の方を指差した。
何も言わず俺はテレビを運びに向かう。本当なら手伝って欲しいが、あの人は部室から出られないので仕方が無い。
「分かりました、ささっと持ってきます」
階段横の倉庫は埃の混じった独特な匂いがする。掃除用具やスポーツ用品の間を潜り抜け、小ぶりなテレビを奥から取り出した。
「これで……良いですよね?」
「そうそれだよ、宇曽田君ナイスプレイ!」
次はビデオを選ぶ。本棚にいくつか入っているディスクの中から、先輩や俺が観ていない物を探っていく。
「古今亭志ん朝、立川談志。うーん……」
ピンと来るような物は無い。するとそれを見ていた先輩が、隣から指を差してきた。
「これにしようよ、桂米團治の」
「米團治ですか、確か米朝の息子さんでしたよね」
大阪出身で兵庫育ちの有名な落語家である。俺は少し震える手でディスクを持って、テレビの電源を付ける。
「何か久しぶりですね、こういうの」
二人で映像が始まるのを静かに待つ。やがてアナウンスと共に集まった観客の拍手が聞こえてきて、桂米團治が舞台に上ってきた。
「まあ父の米朝がどこに住んでいたかと言いますとね、尼崎市武庫之荘という所でございまして、ずぅっとそこで暮らしておりました。その武庫之荘という所がまた中途半端なびみょーな所でございましてね。武庫之荘の住民だけがねえ、自分が尼崎市民であるということを隠したがる傾向にあるわけでございます。杭瀬も大物も出屋敷も立花の人もね、おたくアマですか? って聞いたらへぇ、アマでっせえって言うんですけど、武庫之荘の人だけは否定しはるんですよねえ。おたくアマですか? いいえ、阪急武庫之荘って答えはるわけでございます。この感覚分かって頂けますか? 妙なエリート意識があるわけでございますなあ」
あっという間に言葉が耳に流れていく。でもマシンガントークのようなものではなく、声にしっかりとした芯がある。
「……でも結局、尼崎は尼崎じゃないですか?」
「しっ、そんなことを言ったら武庫之荘の人に怒られるよ」
ローカルに寄ったネタはさておき、米團治の話はまだまだ続いていく。
「そういえば皆さん上方いうのをご存知ですか。明治維新まで天皇は京都にお住まいでしたから、京都が都やった。江戸から見て京都は上にあるから、上方という呼び方が生まれました。ですから上方落語、上方歌舞伎、上方料理、上方舞という言葉も生まれたわけですが、大阪人が上方、上方、上方と口にするようになって京都の人が嫌がりましてなあ。ここ二十年くらいは京料理、京舞なんかと呼ばれております」
確かに京料理はたまに聞くような気がする。教科書には載ってないような豆知識を、米團治は次々と披露する。
「こういう地域の違いって面白いもんですね、皆さんの住んではる所にもこういう言葉の違いがあるかもしれませんよ」
そう言って彼が話を締めくくると、観客席の方から大きな拍手が聞こえてきた。
「凄い、何だかあっという間だったね」
顔を上げるともう日が暮れていた。彼の話は全く退屈せず、やはりプロは違うんだなということを痛感させられた。
自分だったらここまでスラスラ言葉が出てくることも、それを心地良くお客さんに伝えることもできないだろう。
「元気が出たり、面白かったり。ただ上手いんじゃなくて、心が揺さぶられました」
最初は軽い気持ちで観ていたのに、俺にとっては勉強になることばかりだった。
「やっぱり語彙と経験なんでしょうね、こんなにスラスラと喋ることができるのは」
時間はちょうど良かった、俺はディスクを元あった場所に戻し、静かにテレビを運んでいく。
先程と同じように、先輩は畳に座ったままで動かない。
「じゃあこれ……返してきます」
「うん、分かった」
俺は辺りを確認した上で、注意しながら部室を出た。
「今日も楽しかったね、宇曽田君」
先輩はこちらに向けて手を振る。その足は僅かだが透けており、彼女が幽霊であることを示していた。
「……」
俺は何も言わずに頷いて、倉庫まで足を進めた。
続く