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わがままな遺伝子

作者: 村崎羯諦

「貴文さんと別れた理由はちゃんとあるの。私の遺伝子がすっごいわがままでね、遺伝子の相性が良くないから嫌だって言い出したの。遺伝子レベルで合わない人と結婚しても、幸せにはなれない気がするし……」


 私の回答に、妹の七海が眉をひそめる。本当にそうなの? と妹が私に尋ねると、私の身体の中から遺伝子がその通りだと答える声が聞こえてくる。しかし、七海は遺伝子の意見を聞いてもなお、納得がいかないようだった。七海はコップに刺さったストローをクルクルと回し、小言を言う。


「貴文さんとは私も何回も会ってるけどさ、あんな良い人なかなかいないよ? すごく優しいし、有名な大学を出て、きちんとした仕事にもついてるし……。遺伝子がいくら嫌だって言ってもさ、そんな簡単に別れるの?」

「でも、私の遺伝子がどうしても嫌だって言うんだよ? 結婚ってすごく大事なイベントだし、どうしても慎重になっちゃうの。それに子供を産むってなったら、私だけじゃなくて遺伝子の問題にもなるしさ」

「でも、お姉ちゃんの人生なんだからお姉ちゃんが決めなくちゃダメだよ。それに……あんなにお姉ちゃんのことが好きだったのに、貴文さん可哀想」


 七海の言葉に私は言葉に詰まる。別れるにあたって、彼とはすごく揉めたことは事実だった。遺伝子なんて関係ない。貴文さんはそう言って別れることを頑なに拒んだ。しかし、その言い争いの中で、彼は彼自身の遺伝子もまた、私との結婚には反対だということを教えてくれた。それを聞いた瞬間、私の意志は揺るぎないものへと変わった。私は貴文さんと何度も何度も話し合いを行い、数ヶ月をかけてようやく別れるに至った。貴文さんをすごく傷つけてしまったし、私自身もまた好きだった人との別れはとても辛かった。別れたことに後悔はない。それでも、最初から自分の遺伝子ときちんと相談しておけばよかったと私は強く強く反省した。


 私だって好きな人と結婚して幸せになりたい。その一方で、生まれた時から付き合いのある私の遺伝子の気持ちも尊重してあげたい。私たちは二つで一つだったし、私と同じように遺伝子もまた私のことを昔からずっと気にかけてくれていた。私の遺伝子は私のよき理解者だったし、遺伝子にとっても、私は強い絆で結ばれた友人だと信じてる。


 だから、妹や親に貴文さんをを紹介し、そろそろ結婚かなという段階で私の遺伝子が結婚を反対した時、私は反発するのではなく、遺伝子の意見にきちんと耳を傾けた。私は自分の遺伝子と何日も話し合いをしたけど、遺伝子は決して自分の意見を曲げようとはしなかった。相性が良くないという一点張りではあったけど、その固い意志を前に、私は遺伝子の意見に流されてしまった。きっと私にはもっと相応しい人がいる。遺伝子は猫撫で声で私にそう言った。生まれた時から一緒にいる遺伝子の言うことに、私はこくりと頷いたのだった。


 妹からは呆れられたし、好きだった彼と別れたことで心にはぽっかりと大きな穴が空いてしまった。それでも、新しい生活のために私は前向きに気持ちを切り替えることにした。貴文さんの時みたいな失敗を繰り返すわけにはいかない。だから私は、ちょっとでもいいなと思う男性を見つけたら、真っ先に自分の遺伝子に相談するようにした。


 だけど、私の遺伝子が、私の恋愛に対して積極的に意見を言うことはなかった。ひょっとしたら貴文さんと私を別れさせたことに、負い目があるのかもしれない。そう思い、私は遺伝子に対して気にしてないよと語りかけてみたけれど、遺伝子は適当に返事をするだけ。私と貴文さんとの結婚に反対したあの時のわがままさは影を潜め、まるで遺伝子は私の恋愛を他人事のようにしか受け取っていないかのようだった。


 自分の遺伝子が何を考えているのかがわからない。そんな不満を持つようになっていた、ある日。高校時代からの付き合いで、今は高校で生物の教師をやっている友達と久しぶりにご飯に行くことになった。雑談の中で、私は彼女に自分の遺伝子がすごいわがままなんだという話をした。すると彼女は笑いながら、「わがままな遺伝子って、利己的な遺伝子みたいで面白いね」と言った。


「利己的な遺伝子っていうのはね、進化学っていう生物学の分野で提唱されている一つの説なの。ものすごーく簡単にいうとね、生物の進化は遺伝子が自己増殖するのに有利なように行われていて、個体は遺伝子の乗り物に過ぎないんだっていう理論なの」


 どういうこと? 私がいまいち理解できないでいると、彼女は私にもわかる例え話を使って説明をしてくれる。


「進化学で昔から議論されていたのは、働き蜂とか働き蟻みたいに、子供を産まずに女王様のためだけに生きている生物なの。ダーウィンっていう進化学を作った人はね、自分の子供をたくさん増やせるような性質を持った個体が生き残るんだから、種としてはその性質が後世に受け継がれていくって考えたの。自然淘汰説っていう言葉だけは聞いたことあるんじゃない? ここで重要なのは、それぞれの個体は自分が有利になるように行動していて、その中で、環境にうまく適応できた個体が生き残っていくってことね。でもさ、この考え方だと、働き蜂とか働き蟻は説明が難しいの。自分の子供を残せないのに、どうして女王様のために一生を終えるような性質を持つ生物が自然淘汰されずに生き残っているんだろうって、考えてみたらすごく不思議じゃない?


 働きバチとか考えてみてよ。ハチは女王蜂だけが子孫を残せて、働きバチは一生子孫を残せないまま、女王蜂のために一生懸命働き続けるの。これって、その自分のことしか考えずに行動するっていう考え方と矛盾するよね? それについて色んな学者が色んな議論を重ねてきたの。その議論の中で生まれたのが、さっき言った利己的な遺伝子っていうやつなの。


 さっきみたいな生物の個体単位で考えるんじゃなくて、遺伝子の目線で考えてみようっていうのが、この説の中心的な考え方なの。例えば働き蜂が自分の子供を産めるとしてもさ、一匹のか弱い働き蜂じゃ、いつ自分や子供が天敵に襲われて食べられちゃうかわかんないじゃん。それに食料を調達しながら子育てをするなんてすごく大変だし、一人じゃたくさんの子供を育てられるわけじゃない。でも、もしそのか弱い蜂さんにさ、繁殖能力の高い姉妹、つまり女王蜂がいると考えて見て。働き蜂さんと女王蜂は姉妹だから、遺伝子は半分同じでしょ。それから、女王蜂が子供を産めば、それは自分の甥とか姪に当たるわけで、自分と遺伝子が近い存在に当たるよね。遺伝子をいかに残すかという視点から考えてみると、別に自分の子供じゃなくても、自分の甥や姪がたくさん生まれてくれたら、それはそれで自分の一部が後世へと引き継がれていく。これを前提に考えると、こう考えることもできるよね。働き蜂さんとしては、自分で子供を産むことを諦めて、自分のお姉さんである女王蜂を必死に支える。支える分、お姉さんには沢山の子供を産んでもらう。ね、別におかしいことではないでしょ?


 まあ本当はもっと複雑で、色々批判もあるんだけどね。それでもさ、面白いと思わない?」


 楽しそうに説明してくれる友人に私は相槌を打つ。だけど、その一方で彼女の話を聞きながら私の胸はずっとざわついていた。そして彼女が話している間、自分自身に関係する話であるにもかかわらず、私の遺伝子は一切言葉を発しなかった。



*****



 ある日ふと思い立ち、私は近所の産婦人科で不妊検査を行った。結婚の予定すらない私には不要とも思えたけれど、私の直感がそうした方がいいと告げていた。そして検査の結果を見て、私は言葉を失った。そこに書かれていたのは、私は一般的な女性よりもずっと妊娠しにくいという事実だった。私は不安に駆られながら、自分の遺伝子にその事実を伝えてみる。しかし、その事実に対してさえ、私の遺伝子が何か反応するということはなかった。


 遺伝子はひょっとしてこのことに気がついていたのかもしれない。そんな疑惑が私の脳裏をのぎる。貴文さんの遺伝子が私との結婚に反対していたのは、きっと私が妊娠しずらい体質であることを知っていたから。そして、他人の遺伝子が私のその体質に気がつくことができるのであれば、私の遺伝子がそれに気がつかないはずがない。それに、私の恋愛に対して、私の遺伝子が関心を持っていないことにも納得がいく。子供を産めない私が誰と結婚しようが、遺伝子にとっては何の関係もないことだから。


 だとしたらなぜ。なぜ、私の遺伝子は貴文さんとの結婚に猛反対したのだろうか。


 私の心の中で言いようのないもやもやが膨らんでいく。生物の進化は遺伝子が自己増殖するのに有利なように行われていて、個体は遺伝子の乗り物に過ぎない。友人が言った言葉が頭の中で再生される。そして、そのタイミングで私の携帯に電話がかかってくる。私が恐る恐る画面を確認すると、電話の相手は妹の七海だった。私の胸の中で不安が大きくなっていく。遺伝子は何も喋らない。私は震えるてで携帯を手に取り、電話に出た。電話越しの七海は躊躇いがちに、大事な話があるのと言った。電話の向こうで七海が自分の気持ちを落ち着かせるように深く息を吐く音が聞こえてきた。そして、それから。七海は私にこう告げた。


「あのね、私……貴文さんとできちゃった結婚することになったの」

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