三日目と四日目
三日目
静枝の食事を受け取るために集会場へ向かった。
集会場で待っていたのは小さな子供だった。確か、弥助という名前だった。
「弥助だけか。母ちゃんはどうした?」
「母ちゃんと父ちゃんは種まきの準備をするって」
「それでお前はお手伝いか」
「うん」
弥助がうなずいたとき、腹の鳴る音がした。
「弥助、腹が減っているのか」
「まあね。でも、巫女様と村のために今は我慢するんだ。父ちゃん、言ってた」
「そうか。偉いな」
「へへっ」
頭をなでてやると、弥助は照れくさそうに笑った。
静枝の牢まで食事を持って行った。
最初に気が付いたのは静枝が全く食事に手を付けていなかったことだ。
「静枝、食べてないのか?」
「……」
弥助のことを思いだした。
あんな小さな子供までが空腹に耐えていることを考えると、静枝の態度は少しだけ苛立だしかった。
「静枝、なんとか言ってくれよ」
「桂太郎様は……桂太郎様はやはりお役目が大事なのですか?」
「……え?」
「村のために私が死ねと桂太郎様が……」
心臓を矢で撃たれたような気持ちがした。
静枝からは俺が自分の意志で村のために静枝を裏切ったように見えるのか。
「違う。俺は……」
俺は……なんだ?
お役目だからか?
その行為がどんな結果をもたらすかもよく考えもせずに空に矢を放った。そして仕事だからの一言で静枝を生贄に出そうとしている。
静枝は俺にとってその程度の存在なのか?
それは……違う。でも、弥助や村人たちの姿を思い出した。
眩暈がした。
自分が今、どういう状況に置かれているのか今更ながらに思い知った。
「連れて行って……私を逃がしてください。私は死ぬのが恐ろしいです」
俺はその言葉を聞いて――
「うわああああああああ」
耳を塞いで、わき目も振らずに逃げ出した。
走っているうちに山のふもとまで走りついていた。無我夢中だったので、どこをどう走ったのかよく覚えてもいない。体中に小枝を引っかけた切り傷や、どこかにぶつけた痣が気付かないうちに出来ていた。よく村まで帰り着いたものだ。
無意識のうちに故郷の村に帰って来た。逃げ帰って来た。
――逃がして
静枝の声が頭の中に木霊した。頭を振って声を追い出そうとするが、どんなに激しくしても静枝の声を消すことができない。
静枝を逃がすことができるか考えてみた。可能か不可能かを考えれば、可能だろう。牢屋のカギは俺の家で管理している。親父の目を盗んで、鍵を持ち出すことは難しくない。
「ああ、できるさ。でも……」
村は少しずつ活気を取り戻そうとしている。それなのに静枝が逃げ出してしまったら、また元の状態に戻ってしまう。三日前まで村人たちは死んだ目をしていた。やっと少しだけ前向きになれた。小さな子供までが空腹に耐えて、村のために貢献しようとしている。
どうして村長の息子である俺が静枝を逃がす手引きが出来ようか。
「桂太郎様も今、お戻りですか?」
「ああ。お前は調達係のものか」
話しかけてきたのは村の外へ食料を求めに行った男だった。巫女に村人と同じものを食べさせるわけにはいかないということで、遠方へ調達に行かせていた。村に残ったわずかな食料と引き換えに、さらに少ない量の珍しい食材を手に入れてくる。村のための巫女とはそれほどに重要な役割であるからだ。
「随分、傷だらけですが大丈夫ですか?」
「これくらい平気だ。山歩きをすれば傷もできるさ」
山の中を走っているとき、気付かないうちに枝の先に引っかけたりすることはよくある。まさに日常茶飯事だが、今日は特に傷の数が多い。
「ははっ。それはそうですが、大事なお役目の最中ですし、お気を付け下さい」
「わかってるよ」
調達係から食料を受け取り、家へ戻ることにした。
「戻ったか」
「途中で調達係と出くわしたから、荷物を受け取ってきたぞ」
親父は小さくうなずくと、奥の部屋に引っ込んだ。俺は受け取った食料を確認する。
中身は果物と野菜だった。腐りやすく産地の近くでなければなかなか口にできないものばかりだ。
「値の張るものばかりだな」
土間の日の当たらない、できるだけ涼しいところに置く。
作業を終えて一息つくと、腹が鳴った。村人と同様に俺も十分には食べていない。新鮮な食料に思わず生唾を飲む。食べたくてたまらなくなる。一つくらいと思うが、ぐっと堪える。きっと調達係の男も道中堪えてきたはずだ。そんな思いをして運んできた食料を、あっさり俺に手渡した。
村長の息子として信頼されている。その信頼は裏切れない。
ここに集められた食料は村のために死ぬ静枝のもの。犠牲になるものへの尊敬と感謝の気持ち。
手を付けられるわけがないのだ。つけるわけがないのだ。
儀式のやり方がどこか杜撰なのもこれと似た思いからだろう。
食料の運搬は一人。その一人が裏切ればそこで儀式が終わる。複数人にして相互監視を指せないのは、信頼があってこそだ。
ふと、静枝の顔が頭の中によぎった。
俺は静枝にも信頼されているのだろうか?
連れて逃げてとせがむ静枝の声が消えてくれない。
俺は寝床に潜り込み、目をつむって、耳を塞いだ。
四日目
俺は昨日届けられた食料を籠に詰めて、山を登る準備をしていた。
その最中に、静枝は今日も食事に手を付けていないのではないか、という可能性に思い至った。
穀物はともかく肉や野菜は傷みやすい。不謹慎ながら、もったいないと思ってしまう。
「親父、行ってくるよ」
親父に出かけの挨拶をするが返事がない。いつものことなので、気にしない。
外に出ると、村人たちに出迎えられた。
「どうした? 何か用か?」
「いえ。ちょっと様子が気になっただけで……」
儀式の日数も半分が過ぎたので、落ち着かなくなってきたのだろう。彼らだって儀式がうまくいくかどうかで、生き死にが決まるのだから無理もない。
「安心しろ。儀式は滞りなく進んでいる」
進むも何もその日が来るのを待っているだけなのだが、村長の息子からお墨付きをもらうことができれば村人は安心する。
正直に言うと、この時、俺は儀式の進行に不安を抱いていた。手順に難しいことがあるわけではない。自分の心中に不安があったのだ。
今後、静枝と接し続けて、平静でいられる自信がない。
昨日、布団の中で震えているうちに、内心の動揺を消すために自分自身にいろいろ言い聞かせていたことに気付いてしまった。うっかりすると、衝動的に静枝を逃がしてしまいそうだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
すぐに出発することにした。とにかく足を動かしていれば、余計なことを考えずに済むと思った。
険しい山道でも何度も行けば歩きなれる。儀式の山道はあまり人が通らないため、けもの道に近いが迷わずに静枝のところまでたどり着くことができた。
牢まで着いた俺は最初に、昨日までの食事がどうなったかを確認する。
器は空になっていた。昨日の分だけでなく、すべての食事が平らげられていた。
立場でものを言うなら、よかったと思うところだろう。巫女への供物として出された食事に手を付けたということは、いよいよ覚悟を決めたということになるのだから。
しかし、昨日の今日で一体、どうしたのだろう。まさか、野犬でも入り込んだのではないだろうか。牢屋の格子は犬ならば、すり抜けることも不可能ではない。
野犬が入り込んだのなら、静枝の身が心配だ。それに巫女に捧げたものを犬に食われたとあっては沽券に係わる。
「静枝。返事をしてくれ静枝」
返事がない。俺は牢の奥へ向かって叫んだ。
「おい。静枝、無事か」
やはり返事はすぐには来なかった。案の定、野犬でも入り込んだのかと思ったが、あるいは俺とは口を利きたくないのかもしれない。
しばらく無言の時が過ぎた。
「どうしたのですか、桂太郎様?」
穏やかな声がして、牢の奥から静枝が姿を現す。昨日とは違って、落ち着いた様子だった。
「静枝がすぐに返事をしないから……」
「え? そんなにゆっくりでしたか?」
静枝は首を傾げる。随分返事が遅かったような気がしたが、実際には大して時間は経っていなかったらしい。不安があったので、時間を長く感じていただけのようだ。
「いや、いいんだ。食事はどうした?」
「それはもちろん食べましたが」
静枝におかしな様子はない。日常的な当たり前の会話をするときと同じ口調で話す。
「そうか。そりゃそうだ……」
「おかしな桂太郎様」
クスクスと笑う静枝。間に格子を挟んでいなければ、まったく平和で日常的な光景だ。しかし、この状況ではそんな笑顔のほうがふさわしくない。
一晩、静枝一人きりの牢の中で一体何があったのだろう。
俺は恐る恐る切り出した。
「なあ、静枝。昨日までは一口も食べていなかったのに、今日は一体どうしたんだ?」
「ああ、そういうことですか……」
静枝は小さくうなずくと、遠くを見るような目をした。その時、俺は長い間、会っていなかった友人と久しぶりに再会したような気持になった。
静枝とは昨日会ったばかりだというのにこんな気持ちになるのは、牢の中で大きな事件があったに違いない。
俺の不安はいよいよ大きくなる。
「特別になにかがあったわけではありません。ただ、一晩かけて考えていたのです」
「考えたって、なにをだ?」
「村のことです。あの食料、あの量の食べ物が、今どれほど重要なものなのかを考えれば無下にはできません」
「それはその通りだが、でも、それじゃあ……」
その食料に手を付けたということは生贄になることを受け入れたということになる。この期に及んでそれを理解していないはずはない。
静枝は俺が言いよどんだ先を理解したらしく、小さくうなずいた。
「はい。もはや覚悟を決めました」
「しかし、なぜなんだ? 言えた立場ではないのはわかっているが、一晩の間に――牢に入ってから数えても四日目なのにそんな覚悟ができるものか」
「言われてみれば、自分でも不思議です。数えてみればまだ四日目なのに」
山から村へ矢を放った日のことを思いだす。あの日の静枝は脅えてもいたし、自分が選ばれたことを恨んでもいたはずだ。それが四日で死ぬことを受け入れられるわけがない。
「しかし、私には千歳にも感じられましたので、あまり実感がありません」
「……そういうものか」
胸中に不安や焦りを持ちながらなにかを待つ時間は長く感じられるものだ。
俺自身も先ほど体験した。静枝の返事を待つだけでも、時間の延長を感じられたのだ。自分の死を真っ暗な牢の中で一人きりで待つ時間はどれほど長く思えるのだろう。千歳という言葉も決して大げさではないはずだ。
その体感時間が静枝に村のために死ぬ覚悟を固めさせてしまった。
「体調でも悪いのですか? 顔色が優れないようですが」
「いや、別にどこも悪くはないが」
「そうですか。ずっと辛そうな顔をしていますので」
辛そうな顔をしている自覚がなかったので、自分の顔を触ってみた。それで自分の顔色がわかるわけではないが、昨日山の中を走った間にできた傷が顔にもあることに気が付いた。これだけでもあまりいい人相には見えないだろう。
「大丈夫だ。なにも問題はない」
大丈夫のはずだ。
村長の息子として、村のために生贄を出すという決断は間違いがないはずだ。静枝本人も納得したのなら、悩むようなことはなにもないはずだ。
だというのに、こんなに気が重いのはなぜだろう。
大手を振って村に帰ってもいいはずだ。俺は役目をはたして、静枝も村のために立派に死んだ。村が助かるのなら、本人が納得しているのなら、その結末が一番いい。
問題はないはずだ。
俺は仕事を進めることにした。
「今日の分だ」
与かってきた食料を格子の隙間から静枝に差し出す。静枝は出された食料を見て、目を丸くしていた。村の現状を考えれば驚くほど豪華な食事なので無理もない。
「今日はまた随分と豪華ですね」
「二日分いっぺんに食ったのにな」
「そんな桂太郎様」
静枝は頬を染めてうつむいた。
「村では滅多に食べられないものばかり……」
「ああ。結構、持って行かれたみたいだ」
調達係に持たせた食べ物の量を思い出した。数日は命をつなげる量だ。無駄にするわけにはいかない。
静枝は食料を受け取った。
これで今日の仕事は終わりだ。俺はそれを確認すると、踵を返した。
「じゃあ、また明日」
「はい。道中、お気をつけて」
今日の静枝は終始穏やかな様子だった。
これでいい。村も助かるし、本人もうかばれる。
だと言うのに、なぜだろう。俺は胸中に空白があるのを感じていた。
帰る道すがら、ふと子供の頃の話を思い出した。
「そう言えば、前に静枝と一緒にこの山に来たような気がする」
村で流行った病を鎮めるための祈祷をするため親父と山に入る以前、初めて神様の存在を知ってすぐの頃だった。好奇心に負けて、静枝と共にこちら側の山に入ったことがあった。
「忘れてたなそんなこと」
あの頃は静枝と一緒にあちこち冒険するのが、当たり前だったから思い出そうともしなかった。
もう二度とないことだと思ったら、急に懐かしさがこみ上げてきた。
いつの間にか、そんな些細な冒険をすることはなくなってしまったが、相変わらず静枝は側にいたのであちこちに思い出の場所があることに気付かなかった。
「少し歩くか」
少しだけ山道から外れてみることにした。ちょっとだけ冒険をしてみたい気分になっていたからだ。木のみでも見つかればという考えもあった。
空を見上げた。太陽が傾いている。村の付近の山といえど、日没までに戻らないと危険だ。しかし、すぐには戻れない。道に迷ってしまったからだ。
「まずいな……」
子供の頃にも入った山だと思って油断していた。もし俺の向かっている方が山の奥の方だったらますます危険だ。
一旦、足を止めて方角を探ることにする。
辺りを見渡してみたが、目印になるものや、見覚えのあるものは見つからない。すでにかなり深いところまで入り込んでしまったようだ。
「とにかく見晴らしのいいところに」
枝をかき分けて進む。何度か枝に引っかけて、また切り傷を増やしてしまう。
しばらく進んだら視界の開けた場所に出た。
その場所に出た瞬間に心地よい風が吹き抜けた。風は水の臭いをはらんでいた。
水の臭いにつられて歩を進める。足元には青々とした緑が茂り、その中心には綺麗な泉がわいていた。
「ここは一体?」
今の村と比べるとまるで、天国のようだ。穏やかな風が吹くと、小さな花たちが揺れる。適度に湿気をはらんだ風は肌に心地よい。気温までも違うのか、わずかに暖かく春のようだった。
泉へ近づいていく。
泉の淵に女が腰かけているのを見つけた。
女はこちらに背中を向けていて顔はわからない。それにもかかわらず、女だと分かったのは髪が背中に届くほど長いからだ。だが、その長い髪は黄金色に輝いていた。あまり多くは見たことがないが、文字通りの黄金、金塊ごとき魔性の魅力を持っているように思える。
「なんだあの髪は? まさか、物の怪か」
つい見惚れていると、女がこちらを振り向いた。
女の顔は今まで出会った誰とも似ていなかった。まず、目の色が他の者と違う。泉のごとく青く澄んでいる。鼻も高く、まるで天狗のようだ。
「やはり物の怪か」
もし村に害をなす類のものなら、村長の息子としては退治しなければならない。もしや村の干ばつもこいつのせいではないだろうか。俺は拳を固く握りこんだ。
「おのれ天狗め」
「失礼だな、君は」
「うお」
女が気付かないうちに、俺の真横に立っていた。
「な、何者だ?」
「君、人に名前を尋ねるときは自分から名乗るのが礼儀だろ」
「お、俺は桂太郎。ふもとの村の村長の息子だ」
「ふもとの……ああ、あのさびれた村ね」
「さび……今は天候が悪いだけだ」
「ふ~ん」
女は村の話には興味がないようだ。こいつが村に悪さをしたというのは、俺の早とちりだったようだ。
「それで、お前は何者なんだ?」
「僕はインフエル。海を越えてやってきたデビルさ」
「デ、デーブル」
「む。微妙に発音が違うぞ」
「デーブルとはなんだ?」
「だから、発音が……まあ、いいか。デビルっていうのはこの国の言葉だと……天狗?」
「やはり天狗か」
「あんなのと一緒にされたくはないんだけど、これもどっちでもいいか」
俺にとっては自分がいかなる種族に該当するかという問題は大きなことに思えるのだが、インフエルにとってはそうではないようだ。デーブルとはいかなる種族なのだろう。
「ところで、何の用でここまで来たのさ?」
「迷い込んだだけだ。用などない」
「そんなことないだろ? 僕を見つけたということはなにか願い事があるってことさ」
インフエルは俺が自分に願い事をするためにここにやってきたと思っている。デーブルとはこの村の神様のように人々に崇められる存在なのだろうか。
いずれにしても、すでに仕えている神がいる以上、インフエルに願掛けをするわけにはいかない。
「お前に叶えてもらう願いはない」
「お前に……じゃあ、困りごとはあるんだね。ほら、話してみなって」
「しつこいな」
「話して」
インフエルが俺の目を覗き込んできた。
その瞬間、急に宙に放り出されたときのような浮遊感を感じた。驚き、戸惑い、不安になった意識がなにかに引き寄せられる。その先にあったのはインフエルの青い瞳だった。
「話して」
「俺は……」
今度は抵抗できなかった。夢見心地な気分で、インフエルに乞われるまま事情を話した。村の現状、村の神様に巫女を差し出すこと、静枝が巫女に選ばれたこと。
インフエルはにやにやと嫌な笑みを浮かべてその話を聞いていた。
「ふむふむ。なかなか面白い状況になってるね」
「面白い?」
「うん。僕にとっては面白い話だ」
この話に面白いところなどあっただろうか。少なくとも、俺が誰かから同じ話を聞かされたら、本人を前にして面白いなどとは言えない。デーブルというのは、俺とはかけ離れた精神性、しかもいいとは言えない、の持ち主らしい。
そういうやつが願い事を話せと言っているなら、それは良くない話だろう。
「話は終わったな。俺は帰るぜ」
「待ちなよ。まだ肝心なところが聞けてない」
「事情は全部話した」
「うん。それはわかったけど、結局のところ君はどうしたいのさ?」
「それも話しただろ。俺は村長の息子として……」
「いや。そういうの抜きで、君が何をしたいのかって?」
「なにを言ってる。もう行くぞ」
インフエルを無視して、元来た道へ歩き出した。
「待ちなって」
インフエルが回り込んできた。
「どいてくれ。仕事帰りなんだ」
「頑なだなぁ。どうしよっかな……こういうの魔眼で聞き出しても面白くないし」
インフエルはしつこくまとわりついてくる。日が沈むまで、あまり時間がない。適当な願い事をして追い払った方がよさそうだ。
「ああ。そうだ。ここの水を村に引けないか」
「それは無理。ここにあるものは持ち出せないよ」
「そうか。じゃあ、今度こそ用はない」
「む……これだから無意識に迷い込む奴は」
インフエルが一人でぶつぶつ言っているが、いまいち要領を得ない。こっちに用はないのだから早く帰ることにする。俺はインフエルに背を向けて歩き出した。しかし、後になってインフエルから目を逸らすべきではなかったと思った。
きっとインフエルは俺の事情を聴いたときと同じく嫌な笑いをしていたに違いないからだ。
「ちょっと驚かせてやるか」
その声が聞こえた瞬間、縫い付けられたように足が動かなくなった。足元を見ようと、視線を下げると――
「……え?」
俺の胸から腕が生えていた。
その腕は白磁のように白くか細い女の腕だった。
「インフエル」
「引きつった顔してどうしたの? 痛くはないはずだけど」
インフエルの声が耳元から聞こえた。インフエルは素手で、俺の背中から胸を貫通させている。
「なんのつもりだ?」
「ちょっと枷を外そうかと思って、死にはしないよ」
俺を貫いたインフエルの手の中で、小さな火の玉のようなものが漂っているのが見えた。火の玉はすぐに消える。火の玉が消えると、インフエルは俺から腕を抜いた。
「うおっ」
咄嗟に胸を押さえた。しかし、傷もなければ、血の一滴も流れていない。
「だから平気だって」
インフエルはうろたえる俺が面白いらしく、クスクスと笑っている。
「なにをしたんだ?」
「君の心の一番上の殻をはがした」
「なにを言っているのかわからないぞ。分かりやすく説明しろ」
「早い話が、君が心の底で望んでいることを感じやすくしたのさ」
意味のないことだと思った。
俺は心の底から、村のために働きたいと思っている。
「さあ、もう一度聞こう。君はなにを望む?」
村は危機を迎えており、俺はそれを解決したい。村長の息子として、どんな過酷な決断でも下すつもりだ。
それは間違えのないことのはずなのに、最初に頭に浮かんだのは静枝の顔だった。
「そんなはずはない。妖術でも使われたのか」
「妖術的なものは使ったけど、心を操ったりはしてないよ。デビルは嘘を言わない。君の心の核は君が思っているものとは限らない」
インフエルによって俺から取り除かれたものが、なんだったのかを考えると眩暈がした。足元がおぼつかない。まるで帰る家を失くしてしまったような不安感。これまで指針にしていたものがなくなってしまった。
「顔色が悪いね。心をむき出しにされたんだから当たり前だけど」
「戻してくれ。俺にはやるべきことが……」
「時間が経てば戻るよ。それまでやるべきことじゃなく、やりたいことがなんなのかよく考えておくといいよ」
インフエルは口角を上げて笑う。見透かしたような目をして笑う。
「きっと力になれると思うよ」
気が付くと、静枝のところへ通うための山道に立っていた。泉もインフエルもきれいさっぱり消えていた。いつも通りの山の中だ。
「山の中で夢でも見ていたのか?」
まったく奇妙な夢だった。白昼夢というべきだろうか。常々、干ばつを解決したいと考えていたので、泉が現れたのはわかる。しかし、髪が黄金色で瞳が青い女を夢想するなど、いったい何を考えていたのか自分でもよくわからない。
「疲れているんだ。早く帰ろう」
山のふもとまで戻ってきた。村の明かりが見える。
「やっと帰って来た」
今日は随分、長くかかった。遭難しかけた上に奇妙な夢まで見た。いつも以上に疲れて、やっと戻ってこれらた。
「戻ったか桂太郎」
「……親父」
「大変だったようだな」
「ああ、まあ」
親父はひどく無口でたいていの場合、必要なことしかしゃべらない。その親父がこういうことを言うほど疲れているように見えるらしい。
あまり心配をかけるわけにもいかない。平気なふりをしよう。
「静枝が死ぬ手伝いをしているんだから当たり前だ」
そう思っていたのに、俺の口から出たのはそんな言葉だった。
「桂太郎」
親父が低い声で、俺の名前を呼んだ。怒鳴られるのかと思ったが、親父の顔に浮かんでいたのは怒りではなく驚きと戸惑いだった。
「すまない。だが、村のためには……」
今度はこちらが驚く番だった。今の親父の言葉は間違えなく本音だろう。村長として、迷いのない決断をしてきた親父が謝罪を口にするのはこれまでになかった。しかし、俺が最も驚いたのは、村のために、という言葉に恐ろしいほどの空々しさを感じたからだ。
村のため、というのは俺自身も指針としていたはずの言葉だ。それが書き割りのごとく安っぽいもののように感じる。
これはどうしたことだろう?
俺は白昼夢のことを思い出した。あの夢の中であったことは現実であったことだったに違いない。そうでなければ、昨日と今日でこんなにも世間が違って見えることなどありえない。
もう一度、インフエルに会わなければならない。
俺はインフエルの傍若ぶりを想いだし辟易した。