序章
序章
己を殺せ。
気配を周囲に溶けとませろ。
俺は呼吸の音にさえ気を遣い、自分の存在を消していく。
(……来た)
茂みの中から、探していた獲物を観察する。
見た目に似合わぬ軽やかな足取りで、大きなイノシシが目の前を通り過ぎようとする。
(今だ!)
力んだ瞬間、イノシシがこちらを見た。
さすがに勘がいい。
だが、もう遅い。
すでに一足一刀。
握った槍を一息でイノシシへ突き刺した。
「やった」
確かな手ごたえを感じ、狩りの成功を確信した。しかし、槍を握った腕が強く引っ張られた。
「しまった。浅いか」
イノシシは腹に槍が突き刺さったまま、俺を引きずって走り出した。
「逃がすかよ」
ここまで追い詰めた獲物を逃すわけには行かない。必死で槍にしがみついた。
体勢を整え、踏ん張りを利かせようとしたとき、目の前の太い木の枝に気が付いた。
「……がっ」
イノシシが走る勢いのままに、枝を顔面に打ち付けた。
それでも、槍は放さない。
(こっちが長持ちしない)
そう悟って、右手を腰の小太刀に伸ばした。
左手に大きな負担がかかる。
左が限界になる前に、右手の小太刀をイノシシの喉へと突き刺した。
まだ、イノシシは止まらない。
俺は小太刀をひねり、傷を広げていく。大量に血が噴き出し、ようやくイノシシは動きを止めた。
仕留めたイノシシを担いで、村へ戻った。
「おーい。戻ったぞ」
大声を上げて、注目を集める。
畑仕事をしていた村の者たちが駆け寄ってきた。
村の者たちは俺の周りで輪になっている。一応、村長の息子なので、村の者たちは多少、距離を取って接する。
人ごみの中から、静枝が一歩前に出てきた。
「無事でしたか、桂太郎様」
「当たり前だ。ほら、獲物を捕って来たぜ」
イノシシを放り投げた。
さすがに、腕が限界だった。
「これはまた、随分と大物ですね」
「まあな。これなら村全員で分けても、しばらくもつだろ」
村人が豪勢な夕食を期待して、歓声を上げた。
体力が限界だったので、イノシシを捌くのは別のものに任せることにした。
今日は家に戻って、休むことにする。
「桂太郎様、今日はお休みになるので?」
「ああ。どうせ、やることもないしな」
家までの道中、畑の様子を見てみる。
畑には乾いた土と農作業を邪魔する石があるばかりで、作物どころか雑草も生えていない。それでも、なんとか作物を育てようと畑を耕しているものがいるが、一目見てはかどっていないのがわかった。
畑仕事をしている村人たちは頬がこけて、疲れ切った表情をしていた。ほとんど食べていないのに畑仕事などをしていれば当たり前だ。
「ひどいな」
「はい。もうどれくらい雨が降っていないのでしょう」
村は今までにない大干ばつに襲われていた。
今年はコメも野菜もほとんど採れず、備蓄していた食料も底を尽きかけていた。農耕を行う村で生まれた俺が、山で狩りをしていたのもそのためだ。
しかし、もともと狩りの技術は持っていないので村人全てを食わせていける獲物はえられない。焼け石に水だった。
「でも、今日は桂太郎様のおかげでおいしい夕食が食べられます」
「仮にも村長の息子だからな。少しは役に立たないと」
「桂太郎様は十分に立派な方ですよ」
静枝はそう言ってほほ笑んだ。
「親父、帰ったぞ」
「桂太郎か。ちょうどいい。お前も付いてきなさい」
「なんだよ。狩りの後だから、疲れてるんだけど」
「いいから、来なさい。大事な話だ」
慣れない狩りですっかり疲れ切っていたので一休みしたかったが、現村長である親父にそう言われては従うしかない。
俺は親父の後をついていく。
連れて行かれたのは村の集会場とされている小屋だった。
小屋の中には村の大人の男たちが集まっていた。
「みな、集まっているな」
親父は集まった者たちの顔を見回し、腰を下ろした。俺もそれに習う。集まった大人たちは皆一様に疲れた顔をしていた。
それもそうだろう。
十分に食料のない状態で日照り続き。空腹による肉体的な消耗と先の見えないことによる精神的な摩耗。
なにもできずに、倒れるのを待つだけの日々は村から活力を奪っていった。
「桂太郎様」
村人の一人に呼ばれた。
「今日は立派なものをありがとうございました。これでしばらくはしのげます」
「子供たちも喜んでいた」
村人たちが口々に礼を言う。
「桂太郎……」
親父が口を開いた。
それだけで村人たちは口を閉じて、親父の話に聞き入った。
「あれは山のどのあたりで仕留めた」
「……地蔵の近くだ」
集会場の空気が重たくなった。
地蔵があるのは山の低いところだ。イノシシが人里近くまで降りて来ている。それはつまり、山の奥でも食料がなくなりつつあるということだ。
山の奥は危険だ。
普段は食料が少なくなっても入らないが、いよいよとなったらそこまで行き食べ物を探すつもりだった。
しかし、それさえも望みが薄いようだ。
「ど、どうすんだ? 今すぐ雨が降らないとみんな飢え死にしちまう」
村人の一人がつぶやく。
一人が口を開いたことにつられて、集会場に集まった村人たちがざわめきだした。しかし、誰も具体的な対策を言えない。どうする、どうするとうわ言のように繰り返すばかりだ。
俺も何も言えない。
今日は運よく獲物を仕留めたが、山の中の生き物が目に見えて減っているように感じる。狩りで食っていこうなどと軽々しくは言えない。
「こうなっては神頼みしかあるまい」
親父がそう言うと、再び集会場は重く静まり返る。
村長が仕事を投げてしまった失望からではない。この場における「神頼み」に込められた意味の重さを知っているからだ。
俺も思わず、唾をのんだ。
「明日の昼に巫女の選定を行う」
巫女とは要するに生贄のことだ。
「桂太郎。矢はお前が放て」
夜が明けた。
俺は弓の弦の張り具合を確かめていた。矢を添えずに、弦を引き放ってみる。
風を切る小気味のいい音がした。
日常的には使わないのに、弓の調子はよい。この弓が大事な儀式に使うための弓だから、定期的に手入れをしているからだ。
「……はあ」
正直気が重い。しかし、これも村長の家に生まれたものの役割だ。
俺が物心ついてからはこの弓が使われることはなかったが、話は聞いていた。親父は撃ったことがあると言っていたが、実感のない話だった。
それがもう少し日が高くなれば現実になる。
「弓なんて撃ったことないのに」
矢を手に取ってみる。
矢じりと羽にわずかな装飾のついた儀式用の矢だ。
「桂太郎様」
「静枝か。どうしてこんなところに」
他の村人はみんな家に閉じこもっている。
今日中に生贄を選ぶという話は村中に広まっている。あるいは自分の家族が選ばれるかも知れない。そう思うと、家にこもりたくもなる。
俺に出くわしても気まずいだろうし。
「桂太郎様が大変なお役目を仰せつかったと聞いたので、気になってしまい」
「わざわざ見に来たのか」
「はい」
「そうか……家族と一緒じゃなくていいのか」
「まあ、そうですけど……桂太郎様のことも心配でしたので」
「平気だ。矢を射るだけだからな」
「嘘ですよ」
やっぱり静枝には見抜かれるか。
子供のころ、村で厄介な病が流行った。そのせいで、俺と歳の近い子供は静枝しか残らなかった。ほとんど兄妹みたいに育った。
静枝には隠し事ができないようだ。
「お役目とはいえ,正直言って気が重いよ」
「仕方のないことです」
「恨まれるだろうな」
「それで助かるものもいます」
「……だとしてもな」
「誰かがやらなければならないことです」
それならば、自分がやらなければいけない。
それが村の長の家に生まれたものの役割だ。
「わかってる。なんとかやってみるよ」
「はい。辛ければいつでも仰って下さい」
矢を放つための場所は、イノシシを仕留めた山とは反対の方角にある。
こちらの山の中は静まり返っていた。生き物の数は大して変わらないはずなのに、奇妙な静けさがある。
それを感じるたびにこの山に神が住んでいることを思い出す。
木でできた立札を見つけた。目的地への目印だ。
立札を越えて、しばらく歩くと木々が途切れて視界が開けた。
この位置からは村が一望できる。もっとも、遠すぎて、どこに誰の家があるかまではよく見えない。
ここから矢を放ち、矢が落ちた家に結婚前の娘がいれば、その娘を巫女として神にささげる。
それがこの村の神頼みの儀式だ。
弓を構え、矢を引いた。狙って、撃つことなどできない。目を閉じて、空に向かい矢を放った。
矢は空高く舞い上がり、風に吹かれながら村へ落ちていった。
どこかの屋根に落ちたのなら、親父がのろしで合図を出す。少し待って合図がないようなら次の矢を撃たなければならない。
やることがないので、次の矢の準備をしていると村から煙が上がっているのが見えた。
「決まったのか」
胸に重しがぶら下がった気分がした。
できるだけ結果を知るのを先延ばしにしたかった。いつもの倍の時間をかけて山を下りた。
村に戻ると、村人たち全員がとある家を遠巻きに眺めていた。
その家の屋根には飾りのついた矢が突き刺さっている。
「あれは……あの家は?」
村人の顔は全て知っているはずなのに、誰の家だったかよく思い出せない。頭が考えることを拒否しているようだ。
家の扉が開いた。
中から人が出てくる。
くたびれた壮年の男と、男を同じくらいの歳の女。
そして、その二人に連れられた一人の娘。
「あ、れは……」
その顔を、そのよく見知った顔を見て、手に持った弓を取り落した。
弓が地面に落ちる音に引かれて、村人たちが一斉にこっちを向いた。
選ばれた娘とも目があった。
その眼が大きく見開かれる。
そこにはどんな感情が込められていたのか。俺には読み取ることができなかった。
選ばれた娘は静枝だった。
神様を見たことがある。
親父に連れられて、村長の一族しか入ることを許されない祠へ行った時のことだ。流行り病を押さえるためにお供え物を持っていき、祈祷を捧げた。
その時に確かに見た。
この村の神様はオオカミの姿をしている。
あらかじめそう聞かされていたから、祠に現れたそれがこの村の神様であることは一目見て分かった。
しかし、聞いていなかったとしても、見違えることはなかっただろう。
まず、大きさが俺の知っているどの生物よりも大きかった。家よりも大きな狼。
そして、その巨体が放つ威圧感。今まで見てきた何者よりも一段高いところにいるとはっきりと感じた。
これは間違いなく神様だ。
これに敵うものなどいるはずがない。
イノシシを槍と小太刀だけで仕留められるようになった今でもその思いは変わっていない。