09 惑う少年
「食べ物を集めて、使える武器を持って、引き上げろ」
馬上からの声に、リージェは振り仰いだ。
フィンは――頭から、ぼろ布をかぶっていた。
リージェが飛びこんだ時から、彫像のように、姿勢がまったく変わっていない。指一本動かしていない。
「あ……ありがとう……何とかなった………………けど!」
憤激が湧いてきた。
もう声をひそめる必要はない。思い切り怒鳴った。
「何で! いきなり! あんな! 計画がめちゃくちゃだ!」
「あのままでは、失敗していた」
「な…………」
ぼろぼろ姿の、フィンの頭部が、周囲を見回すように動いた。
釣られてリージェも見回すと――仲間たちが、へたばっていた。
昼のリージェと同じだ。みなぎっていた最初の狂奔が、ことが終わって、冷めてきて――初めての死闘と殺人に、脱力している。吐いている者もいた。
「鍛えているが、素人だ。
相手はなまっているが、玄人だ。
眠るまで待つなんてしてたら、気づかれる。
細かい作戦なんて、実行できないし、食い破られる。
勢いがあるうちに、一気にやるべきだった」
「…………」
リージェは絶句した。
だが、言われてみれば、その通りだった。
先に経験しているリージェですら、手が固まっている。
血の海の中でへたばる仲間たちを笑うどころか、同情する。
誰も人を殺したことのない集団で、この結果は、最上のものと言っていいのではないだろうか。
ただ…………この最上の結果をもたらすにあたって……。
「……君は……何をしたんだ?」
あふれた艶やかな黒髪。魂を抜かれたようになった悪鬼ども。
顔を洗っていたフィン……水音と、白い手……。
「顔がいいのは、こういう時に、役に立つ」
さらりと、フィンは言った。
「それ以外だと、めんどくさいことばかりなので、汚して、隠してる」
リージェが知りたかった謎を、明かしてくれた。
「……見せてくれないか?」
「ん」
肯定か否定か、まったくわからない。
だが……ぼろ布の下から、手が出てきて。
頭にかぶさっている布を、外した。
「あ………………!」
フィンの素顔。
物語、いや神話の中の登場人物もかくやという、信じがたいほどの美貌がそこにあった。
濡れたような黒髪が妖しくつや光る。細い眉。すっと切れあがった眼、端正な鼻梁。
透き通るように白い肌に、小振りな唇はふっくらとして、まるで紅でも塗ったように赤い。
この土地にも、美人ともてはやされる女性はいた。
リージェが憧れた年上の女性もいた。
そういう全てを凡俗に堕としてしまう、天上の美、そのものだった。
リージェもまた、悪鬼どもと同じように、呆然となって立ち尽くした。
「………………」
気がついた時には、ぼろ布がかぶさって、元通りの正体不明の姿に戻っていた。
リージェは大きく目をしばたたいた。
今見たのは、幻影ではないのか。本当に見たのか。女神のような超絶の美貌は、現実だったのか。
このぼろ布の中に、美女がいるのか。白い手、豊かな脚、思い出してはいけないふくらみ、そしてあの美貌が息づいているのか。
周りは死体だらけ、視界は赤い色まみれ、血の臭いでむせかえるほどだというのに、そのことすらリージェの意識から消えて、食い入るようにぼろぼろを見つめるばかり。
「ほら、めんどくさくなりそうだ」
「!」
言われて、我に返り、顔が熱くなった。
自分がその辺のだらしない男と同じだ、と言われたように感じて激しい羞恥が湧いた。
僕は違う。そうじゃない。違うんだ!
脳内で絶叫し――。
「いやあああああああああ!」
実際の、女の絶叫が耳をぶっ叩いた。
屋敷に置かれていた女性は三人いる。
もちろん、この土地の者で、顔見知りだ。
しかし、ここまで、生きるために――『騎士』に媚びたり、知り合いを売ったり、奴隷に落とされた親類を見下したりしてきた。
その中の一人が、こときれた『騎士』の死骸にすがりついて号泣している。
情が移ったか、状況を理解できていないか……いずれにせよ、解放軍の感情をひどく刺激する行為だった。
「やっちまえ! やつらの仲間だ! くそ女!」
と叫ぶのは、その女の、夫だった男だ。殴りかかろうとしたのを仲間に羽交い締めにされている。
「どうする!?」
判断を求められて、リージェは迷った。
どうすればいいのか、正直、まったくわからない。
でも……。
「殺すな。それは後でもできるから。今は、何もするな」
とりあえずそう命じた。
――そう、命令した。
自分の倍ほども生きている相手に、意に反する行為を言いつけて、相手もそれを受け入れた。
村長の息子で、『騎士』を自分の手で討って、今も先頭に立って飛びこみ何人も倒した――今やリージェこそ解放軍の頭目となっていることを、この瞬間、リージェ自身が実感した。
そうなると、周りの仲間たち全員の行動に責任を持たなければならない。
次に何をするか。この屋敷を燃やし『村人』を解放するか。女性たちはどうする。
「食べ物と、使える武器を集めろ!」
結局、フィンが指示した通りのことを口にしていた。
仲間たちは、『騎士』どもが食べていた残りの温かい食事に、我先にかぶりつき……。
作りのいい剣、見るからに派手な槍、黒光りする弓に防具など使えるものの奪い合いを始めた。
初めての人殺しから、虚脱と、勝利の証でもある食事を経て、狂騒状態に入りこみかけている。
「リージェ! やろう! もうひとつ、『村』を解放しよう!」
「やれる! 俺たちならやれる! こいつら弱い! 簡単だ!」
「行こうぜ!」
返り血をこびりつけたまま、目をぎらぎらさせて言い出す。
「ま、待て、待つんだ、落ちつけ、みんな!」
やたらと盛り上がり、声を張り上げる仲間たちを、ひとりひとり外に出して、整列させた。
暗がりの中に出し、まだ何も経験していない飛び道具組の仲間と一緒にすることで、落ちつかせる。
女たちも、一応縛ってから、同じように外に並ばせた。
「……どうすればいい?」
全員を出してから、リージェはフィンに訊ねた。
次の行動が決められない。『村』を襲うというのはリージェ自身で納得した行動だったが、この勢いならもうひとつ『村』を襲えそうだというのも否定できない。しかし勢いまかせで動いてしまうのはまずい気もする。
正解の見当がつかず、正体不明のこの女性に頼るしかない。
……神秘的な美貌に惹かれたわけではない。
自分はそんな、女と見ればすぐ鼻の下を伸ばす、浅はかで単純でみっともない人間ではないはずだ。
美貌を利用し、変なことを言って煙に巻く、うさんくさい相手と見る方が正しいはずだ。
しかし、とても美しかった――ではなく、血しぶき飛び散る殺し合いの場にあって平然とし……自ら先頭に立って相手のふところへ入っていったわけでもあり……。
この変な存在が、自分などよりずっと戦いに慣れていることだけは間違いない。
「僕にはこういうこと、全然わからない。頼む。教えてくれないか」
「……最初の計画通りでいい。撤退だ」
何一つ変わらない、けだるげな声でフィンは言う。
「この勢いなら、もうひとつぐらい『村』を襲って、あいつらを倒せるんじゃ……どうやってもあいつらは追ってくるんだから、今のうち、できるだけ倒しておくべきじゃ……」
「やめておけ。一人逃げた。知らされて、待ち構えられていたら、五十人いても危ないぞ」
「…………」
馬で逃げた『騎士』を追った仲間は、先ほど戻ってきて、逃げられたと報告してきた。
血の跡はあったが、馬か人かわからないという。
「早く引きあげて、食べて、たっぷり休め。
明日は、もっと動いて、戦って、殺し合うことになるから」
「え…………!?」
目をむいたリージェだが、フィンはそれ以上何も言ってくれず、外から呼ぶ声もしたので、仕方なく馬の手綱を引いて、死骸だらけの凄惨な屋敷を後にした。
凄惨な殺し合いの現場に散乱する料理にも飛びつく解放軍のみなさんは、基本的に飢えた状態で日々を過ごしています。蜂蜜は本当にごちそうであり……自分も飢えているのに他人に分けてあげられるリージェ君は主人公の資格を持った人物なのです。