06 使嗾(そそのかし)
「フィン……シャンドレン……」
リージェはその名を口にして、繰り返した。
不思議な響きだった。
この土地では聞いたことのない名前。男性の名なのか女性の名なのかもわからない。違う国の人なのか。
だが――。
「いい名前だね」
心からリージェは言った。
「ありがとう」
初めて、けだるげではない声が返ってきた。
耳元で放たれた、しっかりした声は、リージェにとってきわめて毒だった。
全身がむずがゆくなり内側からかき回されるような感覚に襲われて、歩みがフラフラし始める。
「しっかりしろ」
「大丈夫……」
しかしリージェがふらついたので反射的にか、フィンがしがみつく力を強めたので――さらに背中が熱くなって、リージェはもう地面を踏んでいるのか雲を踏んでいるのかわからなくなった。
「リージェというのも、いい名前だ」
完全にタイミングがずれたところで、ささやかれた。
密着した状態で耳元で言われ、唇が耳たぶを擦り、甘い感覚が脳髄になだれこんでくる。
リージェはどう歩いて『村』に帰り着いたのかわからない。
陽がさらに傾き、空の色は赤く変わりつつあった。
『解放軍』のみなが浮かれていた。
子供たちが、盗賊の首を蹴り転がして遊んでいる。
大人たちも、別な首を棒に刺して地面に立てて、石をぶつけ刃物を投げつけ、あるいはひたすら涙を流していた。
あの災厄の日から、森に隠れひそみ、その日の食べ物にも事欠き、盗賊どもへの怨念だけをつのらせる日々……それが初めて勝利を得たのだ。無理もなかった。
『英雄』たるリージェを、みなが取り巻いた。
しかし、その背から降ろされた謎のぼろぼろを見て、一様に怪訝そうな顔をした。
リージェは、背からフィンを降ろすなり、即座に振り向いてその顔を見ようとした。
しかしぼろ布がかぶさっていて、顔を見ることはできなかった。
初めて、地面に立ったところを見た。
やっぱり、成人男性と同じくらい。女性なら背が高い方だ。
ぼろ布はかなり大きく、頭からすっぽりフィンを包みこんで、地面すれすれまで届いている。なので身長以外の体格はまったくわからない。わからないが、リージェは背中の感触を脳内で反芻し、もぞもぞした。
「リージェ………………それは?」
「ミシムさんと一緒に来た人だよ」
「人?」
「ああ。人間だよ。間違いない」
「……世話になる」
フィンが、いきなり言った。
名乗りもしない。それ以上何も言わない。無数の視線を浴びても、ずっとそのまま動かない。人間というより樹木ではないのかと不安になる態度だった。
「と、とにかく、僕らを助けてくれたんだ。恩人だ。そう扱ってくれ」
リージェは何とか取りなしたが、皆の不審そうな顔つきがゆるむことはない。
食事の支度ができていた。
盗賊どもに見つからないよう、ひとつだけ熾している火にかけた鍋から、貴重な穀物や肉を煮こんだいい匂いがしている。
みな集まり、火を囲んだ。
まず全員で、殺されてしまった仲間の冥福を祈った。
それからあらためて、悪鬼どもへの復讐を誓った。
「わしの財産をよくも」と行商人も恨みを口にした。
フィンはそれには加わらず、人の輪の外側で、木にもたれて座りこんでいる。
不思議なことに、一度目を離すと、次に見た時にはもうそれが最初からそこにある自然物のように思えて、意識しないと見過ごしてしまいそうになるのだった。
「どうぞ」
リージェは、『英雄』の取り分として肉が多めに盛られた椀を、フィンに差し出した。
「君が助けてくれなければ、これを食べることはできなかった。これをまず食べるべきは、君だ」
「ありがたい…………が」
周囲の仲間たちの目が、露骨に、不審と不満をあらわしている。
「先に払っておこう。食費と、滞在費だ」
ぼろ布の中から、ニュッと、手が出てきた。
土か埃か、ひどく汚れていた。だがやはり、まぎれもない女性の手。
小袋をふたつ、つまみ持っている。
「塩と、腹の薬だ。変なものを食べた時に効く」
森中の窮乏暮らしでは必須の品だ。
仲間たちの態度がはっきり変わった。とりあえず敵意、警戒心は薄れた。
「投げてくれたのもそれか……助かった。お礼は――払える金なんてないけど……せめて、食べてくれ」
「半分でいい。残りはお前が」
と、フィンは言い――。
「しっかり食べておかないと、この後、動きが鈍るぞ」
妙なことを言ってきた。
「…………この後?」
「食べながらでいい。この土地の、詳しいことを教えてほしい」
「…………」
なお、椀は瞬時にぼろ布の中に吸いこまれ、熱い汁をすする音がして、次に出てきた時にはきちんと半分残されていた。
「美味かった。ありがとう」
「そ、そう……」
受け取る時にリージェは見た。フィンの、手の甲はひどく汚れているが、その手の平はまったく汚れがなく――薄桃色の、すべらかな、綺麗な肌色だった。
顔を見せてほしいという強い欲求が湧くが、命の恩人にそれを要求するのはぶしつけだと飲みこんで、状況の説明を始めた。
春先にゲール一味が襲ってきたところから、『解放軍』の結成、現在の状況。
「この土地はまわりを山に囲まれて、外に通じているのは南側の、荒れ地を抜けて渓谷沿いに行く道しかない。
そこにやつらが関所を作ってるのは、見ただろう?」
小さく布が動く。うなずいたようだ。
「何度か人を出した。ブルンタークかシュムベルクか、とにかく伝えて、ゲールどもがここにいる、助けてくれって」
それぞれ、強力な軍を擁する国である。
「でも、行かせた人たちの首が、関所近くに野ざらしにされていて……全員、あいつらに見つかった。ここからは出られない」
「ふむ」
自分も出られなくなっているとわかっているのかどうか、リージェは危ぶんだ。
「僕たちは今、ふたり殺されて、32人。怪我したふたりも動けないだろうから、動けるのは僕を入れて30人だ」
「子供たちもか」
「戦えるし、偵察とか、村や街に忍びこんで色々持ち帰ってくるのに、大人より役に立つよ。石投げ器も練習させてる。兎ぐらいなら狩ってくる」
「ん」
また、うなずいたようだ。
「……私に言って、いいのか?」
「考えはした。でも、君みたいな人が、あいつらの仲間ってことはないだろ。
悔しいけど、君の助けがなかったら、僕たちはあっさり皆殺しにされていた。
仲間を殺してまで僕たちにまぎれこませるほど、あいつらが僕たちを脅威に思っているとは考えられない。」
「ん」
合格、と言われたような気がした。
「敵は?」
「やつらは、自分たちを『騎士』と呼ばせてる。騎士さま、って。反吐が出る」
「……数」
「最初に襲ってきた時、150人ぐらい。その後、他の土地にいたらしいやつが加わったり、勇気ある人が立ち向かってやっつけたり、病気になったり、ゲールが殺したりで、今は137人のはず」
怨敵たる盗賊どもの情報は、解放軍も積極的に集めている。
「今日、4人減らして、残り133人」
「どこに、何人?」
リージェは地面に木の枝で図を描いた。
山に囲まれたこの土地全体を大きな楕円形で描き、川を曲線で示してから、四角形をひとつ、その周辺に小さな丸を三つ。
「これが前の領主さまの城と街、こっちがあいつらが残した『村』。
元の村はあちこちに八つあったけど、今は街に近いこの三つだけ。
それぞれにちょうど10人ずつ、みんなを見張って、働かせてる。
この辺りに馬を飼う牧場を作ってて、そこにも10人。
『関所』はここで、厳重で、30人。
あいつら、いつも5人か10人でまとまって動くから手が出せないんだ。今日のは貴重な機会だと思ったんだけど……罠だったんだよな……ちくしょう」
フィンはそれにはまったく触れなかった。
「残りは、城か」
「ああ。城にゲールとか幹部たち。平の連中は街の方にいて、時々『村』や牧場のやつと交代してる」
「元からの、この土地の者は」
「生き残った人は、ほとんど街に集められてる。『村』には年寄りと子供ばっかり。女の人は全員、街だ。いや……街と、『村』に何人かずつ。あいつらの世話をするために」
幼なじみの女の子のことを思い出した。生きているのだろうか。生きていたとしても、どのような目に遭わされていることか。
「強いやつは?」
「ゲールと、参謀のクロイってやつがすごい。その下に、リッキ、トラス、ディーゴ……リッキはいつもゲールにくっついてる。頭は弱いけど力がものすごい。トラスは見た目が優男で、外から来た人をだましやすいから、大抵は関所だ。ディーゴは関所にいる時と街にいる時が半々ぐらい。特に強いならそんなところだけど、他の連中もそれぞれ強い……よな」
殺した感触が手によみがえった。
フィンの助言で、相手が小さく、なまって見えるようになったのも。
少なくとも自分は、一人、真正面から斬ったのだ。
「魔術師は?」
「医師がひとりいるけど、魔術師は聞いたことがない。街にまじない婆さんがいて、病気の時とか祝い事の時にお祈りをしてくれたけど、殺された」
「本当だな」
「僕たちは知らない。僕たち程度には使わなかったのかもしれないけど、これまで出くわしたことも噂を聞いたこともない」
「わかった」
「……こんなこと聞いて、どうするんだ?」
フィンは答える代わりに、リージェが地面に置いた木の枝を拾い上げ、地図の一点を示した。――手が出てきたのは拾う時だけで、後はまたぼろ布の中だ。
「ここは、この辺りだな」
ほぼ正確にこの隠れ家を示されてリージェはぞっとした。
「そうだけど……」
「食べ終わったら、移動するのだろう?」
「ああ。……どうしてそう思った?」
「みな、その準備をしている」
周囲をちゃんと見ているんだと、むしろフィンだけに意識が向いていたリージェの方が自分を恥じた。
「殺したから、盗賊たちが本気で追ってくる。街へ向かった者が戻らず、探し、気づくのは、早ければ夕暮れ頃。だから、暗くなる前に、森の奥へ逃げこんで、明日はさらに奥へ逃げて、やり過ごす」
「…………そうだ」
自分たちの行動を正確に予測されていることに、さらにリージェは寒気をおぼえた。
「それが何なんだよ」
「駄目だ」
木の枝が、街から離れる方向へ線を引く。
まさに、リージェたちが逃げこもうとしている方角だ。
枝は、その線を消して、別な線を引いた。
今いるここから、最も近く――街からは一番離れている『村』の方へ。
「こうだ」
「え…………『村』へ…………隠れろってこと……?」
「襲え」
「!」
「動かないと、勝ち目はなくなる。今夜なら勝てる」
そう告げると、フィンはごろりと横に倒れこんだ。
それきり何も言わず、動きもしなくなる。
寝入ってしまったようだった。
今までやらなかったことをするのには、勇気が必要です。
まして、リスクが山ほど想定できることに身を投じるには。