05 謎ばかりの女
「あの…………ええと…………あんた……君……その……」
ぼろぼろは無反応。動きもしない。
ともかくリージェは、心から礼を言った。
「……さっきは、助けてくれたんだよな? あの袋を投げてくれて、本当に、助かった。生き延びられた。ありがとう」
手にはまだ、人の命を奪った感触が生々しく残っている。
鼻孔も熱い鮮血の臭いでいっぱいだ。
やつらと殺し合った恐怖は思い出すとすぐに心を埋め尽くす。
だが、そういうものを感じられるのも、勝って、生き残ったからこそだ。
そして、生き延びることができたのは、まぎれもなく、このぼろぼろのおかげだ。
ひとりだけでも手強すぎる盗賊を、二人も無力化してくれた上に、横から塩を投げて、さらに言葉でも後押ししてくれた。素性はまったくわからないが、彼女の手助けがなければ、何一つできずに殺されていたことは間違いない。
「あの……」
しかし、いくら真摯に言おうとも、相手がまったくの無反応では対応に困る。
声をかけても動かないので、荷台に乗ろうかと思った。
その時、音がした。
ぼろぼろの内側から、「くぅぅぅぅ」と。
聞き間違えようのない、腹の音。
リージェも、家も畑も何もない森に逃げこんで、何度も自分の腹から聞いた音だ。今でも『解放軍』の仲間たちがよく鳴らしている。
「もしかして……お腹、減ってるのか? ちょっとしかないけど、食べるか?」
先ほどの甘味を、リージェは少し残しておいた。子供たちにわけてあげようと思ったからだ。それをつまみ出す。
ぼろぼろが、動いた。
視線を感じる。ぼろ布の内側から、食い入るように見つめられているのが肌に伝わってくる。
「ええと……そっちに、行っていいか?」
リージェが言うと、ずるり……と、ぼろぼろの方から動いてきた。
これは人間ではなく、こういう毛皮の獣なのではないだろうかと、一瞬本気で考えた。
「食べたことある? ホクリの実。乾かしたら、サクサクして、そのままでも美味しいけど、蜂蜜をちょっと…………わっ!?」
手が吸いこまれた。つまんでいる実のかけらごと。
そして……。
ぬるり。
生温かい、粘液の感触がした。
「うひぇぇぇぇぇ」
変な声が出てしまう。熱いものが指に絡みつく。
異様な感覚にとらわれ、リージェは全身に鳥肌を立てた。
舐められていると気づいたのは少したってから。
「いや、ちょ、待てっ……!」
黒いぼろ布の内側で、リージェの手が、甘みを一切残すまいとばかりに隅々まで舐め回され――。
抵抗するより先に、あることに気づいてしまった。
村で飼っていた牛や、馬、あるいは豚、番犬なんかに舐められたことはあったし、手を丸ごとガブリとやられたこともあった。
でもこの感触は、それらのどれとも違う。
牙はない。口はそれほど大きくない。むしろ小さい。そして熱く、全体的に柔らかく、唾液がいっぱいで…………これは、人間の口。
女性に、手を、指を、舐め回され、吸われている。
気持ちいい……!
「!?」
それは認めてはならない感覚で、リージェは慌てて手を引いた。
ちゅぽん、とぬめった音がした。
「ああ……」
惜しむような、いや間違いなく惜しんでいる、あの低くけだるげな女の声がした。
「な、何するんだ! いきなり!」
リージェは糸を引く指をズボンで急いで拭いた。
汚いと怒るべきなのに、心臓が異様に高鳴っていて、できなかった。なぜか幼なじみの女の子の姿が頭に浮かんだ。
「美味い。感謝。もっと欲しい……」
「ないよ。食べるものは貴重なんだ」
「わかった。あいつらを、皆殺しにしよう」
「…………なんで!?」
リージェは、少しぽかんとしてから声を上げた。
「食べ物は、あの盗賊どもが押さえているのだろう? だから狩りや採集で手に入るものしか食べられない。あいつらを退治すれば、お腹いっぱい食べられる。それなら殺そう。いっぱい食べてのんびり休もう」
初めて、長くしゃべるのを聞いた。
恐ろしいことを、淡々と言う。
「それは、確かに、そうだ…………けど……」
自分の唯一にして最大の目的ではあっても、そんな風に言われるとまったく同意できない。
「しないのか。じゃあ寝る」
ぼろぼろが低くなり、どろりと溶けた――のではなく、恐らく膝立ちになっていたのを、身をかがめて座りこんだのだ。
そこへ、またクウゥゥゥゥゥと腹の音がした。
くうぅぅ、クゥゥ、グゥゥゥ、グルルル。
獣のうなりになってゆく。
空腹の胃に、ちょっとだけものを入れたせいだろう。
「どれだけ食べてないんだよ」
「ん………………多分、三日。五日? 今日は、いつだ?」
「おい……」
死体処理と逃亡の忙しさで忘れていたが、この怪しい存在の素性やら何やら、まったくわかっていないのだった。
しかしとにかく、ゲール一味を倒すのに力を貸してくれた以上、やつらの手の者ではないことだけは間違いない。
「そんなに食べなくて、大丈夫なのか」
「歩くと疲れるから、馬車に乗った」
行商人も驚いていたから、勝手に乗りこんだのだろう。
しかし、盗賊どもが目を光らせている関所で、一体どうやって。
「腹が減ると、薬で、寝るようにしていた。大事なものだ。ひと舐め、ひと嗅ぎですぐ眠れる」
「…………」
荷台に乗りこんできた盗賊を眠らせ、のぞきこんだやつも気絶させることができた理由がわかった。
「君は、魔術師なのか?」
薬や魔法を使い、色々不思議なことをやれるという存在。
この土地にはいなかったが、外に出た者から話だけは聞いていた。
「魔術師からもらった」
その返事からすると、本人はそうじゃないのだろう。
もちろん、隠しているだけかもしれないが。
「とにかくさ……助けてくれた恩を返したいし、このまま残っていて、あいつらに見つかっても、いいことには絶対にならないから……僕たちの所に来た方がいい」
「ふむ」
ぼろぼろは――女は、少し考えこんだようだった。姿形が見えないので行動の予測がまったくつかない。
「……いいだろう。頼む」
「じゃあ、来てくれ」
「運んでくれれば、行く」
「おいっ」
さすがに声を上げたが、すぐ考え直した。
何日も食べていなかったのでは、森の中を歩くのはつらいかもしれない。
「仕方ないな。じゃあ――ほら」
荷台に背を向け、かがみこむ。
「降りられないなら抱き下ろすけど、動けるなら来てくれ。背負って運んでいってあげるから」
「いいのか」
「ああ」
病に倒れ蠅がたかる仲間の遺体を背負って運んだことも、仕留めた獣の生臭い体を肩に乗せて川まで運んだこともある。ぼろ布のかたまり程度はどうということもない。そもそも着替えなど持っていないリージェの衣服自体がぼろ布とそれほど変わらない。
ずるり、と動く気配がして。
予想よりずっと大きなものが、背中にのしかかってきた。
「!?」
腕が、肩に回されてきた。
人の腕であることにこっそりリージェは安堵する。
これもまた、リージェの服やぼろ布と大差ない、薄汚れた長袖の上着。
そこから出ている手は、これまた土か何かひどく汚れているが、指の長い、細いもので。
その手がリージェの首に絡みついて、しがみついて……押しつけてきて。
そう、押しつけられ――背中に――やわらかな――まぎれもない――豊かな――。
「重くはないと思うが」
耳元で、ささやかれた。
視界に入っていないのに、その唇が取り立ての果物のように赤く、みずみずしいことが確信できた。
その唇に、さっき、自分の指をしゃぶられ……というのを想像し、リージェの全身が燃え上がった。
「転ばないでくれ。起き上がる自信がない」
「だ、大丈夫、大丈夫だから!」
リージェは顔をねじ向け女の顔を確かめることができないまま、一気に立ち上がった。
しっかり背負うために、手を腰の後ろへ――。
その手には、しっかり肉のついた、とろけるようなふとももの感触が乗っかってきた。
リージェは成長期を迎え背が高くなってきていたが、この謎の女も、女性にしては長身のようだ。
硬いもの、刃物や武器のたぐいはどこにも感じられない。
つまり、背中に感じるのは、やわらかな体だけ……。
「う…………お…………おお…………!」
リージェは、ぼろぼろの姿、汚れきった布地を強く意識して、これは不潔な女正体不明の怪しい女無礼な女とひたすら心中に繰り返す。
そう思うことでどうにか、助けてくれた相手に対して目覚めさせてはいけない本能を抑制した。
なのに、歩き出すと、女の手がぺたぺたとリージェの胸板をまさぐってくる。
「あ、あのっ!」
「いい体だ……これは、強くなる」
「…………」
予想外の言葉に、喜びが湧いた。
変な相手に言われたのに、と自分でも不思議に思う。
背負う腕、歩む足に力が入った。
陽は徐々に傾いてきて、木々が作り出す斜めの影が無数に積み重なっている。
木の根が作る起伏を踏み越え、急ぎ足に森の奥へ。
一歩ごとに、リージェの視界の隅でぼろ布が揺れ……。
それに包まれている女の顔と、漏れる吐息が頬をくすぐった。
「人を斬ったのは初めてか」
「ああ」
「どうだった」
「いやなものだ」
「怖いか」
「怖い」
「認めるんだな」
「怖いし、いやだ。あいつらは絶対殺す。でもそれを楽しむようにはなれそうにない。なりたくもない。それじゃあいつらと同じだ。僕はそうはならない。怖がりながら、次も戦って、今度は仲間を殺させずに、倒してみせる」
「そうか。いい男になるな、お前は」
また、リージェの全身に力が入った。
「そうだ、名乗るの遅くなって悪い。僕はリージェ。君の名前は?」
「…………フィン」
女は、どこまでもけだるげな声でそう告げた。
リージェの肩から胸にかけて、何かが垂れ落ちてきた。
長い髪だった。
美しい、黒髪だった。
「フィン・シャンドレン」
リージェ君は、身長175cmぐらい。(毎月1cm伸びる年頃)
謎の女性は、170cmをちょっと越えているぐらいです。